私は以前セキセイインコを飼っていました、くちばしの上の部分が青かったのでオスだったと思います。一羽だけしか飼えませんでしたから名前は特に必要ではありませんでしたから、ここでは便宜的に「トリ君」と呼ばせていただくことにします。トリ君との出会いは、父が偶然外出中に見つけて保護し、家に連れ帰ったことから始まりました。何処かの飼い鳥が逃げ出して家に戻ることが出来なくなったようでした。トリ君はとても人懐っこく、見知らぬ家の見知らぬ私達に対しても全く警戒せず、昔からの関係であるかのように振る舞ってました。取り敢えず食パンをちぎって与えましたが、喜んでついばんでいました。よほど空腹だったのでしょう。いちおう満腹になったと見えて、トリ君は親愛の情を示しすためか、順番に私達の肩に飛び乗り頬ずりをしてきたのです。我が家ではそれ以前にジュウシマツを飼っていましたが、トリ君のように積極的に慣れるという仕種を見せませんでしたから、その愛嬌のある姿に家族全員が感激をしたのです。それからはトリ君が家族の中心であるかのようになりましたね。ジュウシマツ達はその当時の家へ転居する際に親しくしていた人達にかごごと譲っていましたので(表向きはペット禁止でしたので)、新品を購入するまで取り敢えずヒマラヤスギの鉢植えを寝床とさせていたのですが、トリ君はそこを気に入ったようで、が我が家として受け要られたようでした。鳥類を屋内で放し飼いにする際に困るのは糞をまき散らすことですが、トリ君はきちんと鉢の土の部分の同じ場所で糞をしていましたのでそういう心配はせずに済みました。家に戻るとトリ君が真っ先に迎えてくれるのはとても嬉しいことでした。かごが設えられても家族が家にいる間は外へ出して、実に狭い空間でしたが自由気ままにその飛ぶ姿を飽きもせずに眺めている日々が続きました。思い返すとトリ君にとって一番幸せな時期だったと言えるはずです。ペットを飼っている人が必ず迎える悲しいできごとは、そう、愛する彼らとの別れの時です。もちろん、トリ君も例外ではありませんでした。その日は突然訪れたのです。いつもは外へ出すと外出する家族の後ろをつけてくるのですがその日は別段そういうことをしなかったので、普段は家中の扉を閉めてから鍵をかけることをつい怠ってしまいました。それがいけなかった。私が家に戻るといつも出迎えてくれるトリ君の姿が何処にもなかったのです。気になって広くもない家の中を探してみると風呂場の浴槽の中に浮かんでいました。慌てて拾い上げてももう手遅れでした。私は自分の失策を攻め続けました。どうしていつものように全ての扉を閉めておかなかったのか。自分の手で家のドアの鍵をかけるまでにそのことに気付くべきでした。心の中で何度も詫びましたが、トリ君が動くことは二度とありませんでした。私は帰って来る家族全員にトリ君が私の過失で命を落としいたことを告げて詫びました。全員が愛嬌のあった彼の死を悲しみましたよ。そしてトリ君を死なせた張本人である私の手で彼の亡骸を葬りに行きました。父がトリ君と出会った場所が当時は大きな団地の森であり、そこへ葬るのが最も相応しいと判断して、太陽が沈んでから人目につかないように注意して移植ごてでトリ君を入れられるだけの穴を掘り、途中で手折った花を上下に乗せて葬りました。最後の別れとして頬ずりをした瞬間、涙が止まりませんでした。俺のせいでトリ君が死んでしまった。その自責の念だけがしばらくの間この身から離れませんでした。徐々に体力が落ちて死期が迫っていることを悟れるのならその覚悟を前以ってすることも出来るでしょう。トリ君の死は突然でしたので、全く予想外でした。トリ君の死を受け入れるまでしばらくの間我が家の空気が重く淀んでいたことを覚えています。様々な別れの形があるでしょうが、私は自分なりに考えた形で彼を送りました。そのことについては後悔はありませんが、生命を全うさせてあげられなかったことに胸が今でも痛みます。トリ君ごめんなさい。我が家の鳥かごが使われることはもうありません。
人懐っこい愛嬌のある姿で家族を癒してくれたセキセイインコ 過失で水死しさせてしまい後悔
