ネコがなくなってペットロスになった体験談

目次

結婚してから3年間一緒に暮らして、18歳で亡くなった猫

結婚3年目に、主人が18年間飼っていた猫が亡くなりました。

年をとっていたので、いつどうなっても仕方ないと覚悟はしていましたが、お別れの時は突然やってきました。

私たちは急に結婚が決まったこともあり、住居がなかなか定まらず、3年間で3回も引っ越してしまいました。

後から思えば、度重なる引っ越しは老齢の猫の体に負担をかけたのだろうな、ごめんなさいという気持ちでいっぱいです。

私は主人と結婚してからその猫と暮らすようになったので、最初は懐いてくれるかとても不安でした。

それまで実家では犬は飼っていましたが、猫はいなかったのでなおさらでした。

でも最初の日から、抱っこしても嫌がらず、次の朝には私の布団の上にドカッと乗って起こしにきました。

その時は結構図太い猫だなと思ったものです。

たったの3年間でしたが、私たち夫婦は猫を中心に笑ったり、泣いたりと楽しく暮らせました。

老齢のためか、時々発作を起こして病院に駆け込むこともしばしばありました。

一度は今夜が山ですと、お医者さんから言われて、待合室で夫と泣きくれたこともありました。

その時はなんとか一命をとりとめたのですが、それからは見る間に痩せていきました。

エサは食べるのですが、階段を上る力がなくなったのか、2階にある寝室にも来なくなりました。

抱っこしてやるとがりがりで骨ばかり目立ちます。

砂時計のように、命の砂がこぼれ落ちて行くような感じがしました。

そんなある朝1階に降りてみると、眠るように亡くなっていました。

一人にしないで寝室に連れて行ってやれば、看取ってやることができたかもしれないのにと思うと後悔の気持ちでいっぱいです。

今でも時々、何かをしている拍子に猫はどこに行ったんだろう、トイレのそうじしなくっちゃと思うことがあります。

飾ってある猫の写真を眺めていると、自然に涙が出てきます。

いつかこの悲しみも癒える時が来るのかもしれませんが、今は猫と過ごした時間を思い出していたいと思います。

腎臓結石で天国へ旅立ったうちの猫

私は子供のころから猫が大好きで、近所で捨てられていた猫を拾っては自宅に連れて帰り飼っていました。

 
大人になって結婚して数年が過ぎ、仕事で出勤途中の朝、駐輪所の脇で、発泡スチロールの箱に入った子猫4匹を見つけました。

子猫たちは、まだ生後一週間ほどでした。

とにかくこのままでは子猫たちが心配でした。

保健所、いたずらの被害も考えたら、すぐに保護することが一番だと考えました。

会社には遅刻の連絡を入れ、家に連れて帰りました。

病院に連れていき、猫用粉ミルクを買い、一生懸命夫婦でお世話をしました。

4匹兄弟猫は、里親を探すことなく、そのまま家で飼うことになり、すくすくと育っていました。

7年が経ち、一匹が日に日に痩せていきました。

ご飯の皿の前には来ても、口にせず座っていて、エサは食べずに水の場所に移動して水を沢山飲んで寝床で休む、そんな行動が2日続きました。

2日目、動物病院に連れていき、検査の結果、腎臓結石で、腎臓の半分は機能していないことがわかりました。

病院の先生からは「食べなくなったその日か、翌日の朝にすぐ病院へ来るべきだった。

まだ若いけど、腎臓の数値で見ると、この子は余命が数か月かもしれない」と言われました。

どうしようもない悔しさと、申し訳ない気持ちが強くこみあげました。

今まで当たり前のように一緒に過ごした子が、突如、死んでしまう現実。

病院の帰り道、桜が満開で綺麗だったけど、来年の桜の季節にはこの子は居ないんだと思うと涙が止まりませんでした。

できる限りの治療をはじめました。

自宅ではビタミン不足と脱水を防ぐ点滴、腎臓機能を助けるための毒素吸着の炭を毎日飲ませていました。

それから2年はなんとかそのまま体力を維持していましたが、やはり腎臓機能は少しずつ少しずつ、低下していきました。

治療を始めて2年間は、「死んでしまうかもしれない、でも、今は大丈夫」という気持ちになっていました。

そんな気持ちから一転、みるみる弱っていく姿に「もうお迎えが近いんだ」と、またどん底に戻りました。

病気が分かったその時に一度は覚悟を決めたはずだったけれど悲しみと後悔は変わりません。

食べても吐き、やがて水だけでも吐くようになって、その時点で薬も効果無くなり、何もしてあげられなくなりました。

しだいに体内に毒素がたまり、猫は昏睡状態になって意識が無くなりました。

心臓が止まるまでの数日間、本当に悲しくて、涙も止まらず、後悔と、色々な思いがぐるぐると渦巻いていました。

心臓が止まり、身体が冷たくなりはじめました。

今でも当時の闘病中のことは忘れられません。

思い出すだけで涙が出ます。

結果的にこれで良かったのか、もっと他にできることはないのか、闘病への自問自答は今でも解決していません。

月日が経つと、悲しみは緩やかになりました。

その子と出会えたことへの感謝も消えません。

その子と出会って良かったです。

自分が死んだとき、虹のたもとで待っていてくれると何かで読みました。

いつかその時、天国で会えたらなと思っています。

私を強くしたちゃあすけ

ちゃあすけは、私が高校2年生の夏に家にやって来ました。

やって来たというよりも、連れてきました。

電気工事士をしている父がある夏の夜に「今日の昼に子猫が近寄って来たよ。

周りを見ても親猫もいなくて、ごはんをあげたら美味しそうに食べていたよ」
という何気ない会話に、猫が苦手な私が気になってしまい詳しく聞いたことを覚えています。

その子猫のいた場所は、何もない山奥に建設中の建物があるだけで、そんな場所に1匹でいるのかと思うとかわいそうに思えて、気づいたら「探しに行こう!」と言っていました。

時刻は20時で、車で向かうと30分かかる場所になります。

到着すると辺りは真っ暗で、何も見えません。

父と妹2人と4人で探していると、父の足元にまとわりつく何が見えました。

懐中電灯を当てると、生まれたばかりの小さな茶色い子猫がいました。

タオルに包んで家に連れて帰りました。

本当はあまりよくないのですが、温めたミルクを出すとあっという間に飲み終わりました。

とても可愛いものの、私は怖くて近寄れなかったことを覚えています。

お風呂に入れると綺麗な金髪に近い茶色の子猫だったので、名前を「ちゃあすけ」にしました。

家の近所には、猫がたくさんいたので、首輪にひもをつけて家の中で飼うことにしました。

玄関と裏口から外に少し出ることが出来るようにしました。

毎日、一緒に遊んだり、一緒に寝たり、たくさん一緒に過ごしました。

おばあちゃんのことが大好きだったちゃあすけは、いつの間にか年をとり動きもゆっくりになってきました。

大好きだったおばあちゃんも病気のため、ベッドの上で過ごすことが多くなりました。

ちゃあすけは、暗い所やお風呂場の蓋の上で過ごすことが多くなりました。

「猫は亡くなる時に、人から見えないところに行くんだよ」という言葉を思い出して、死が近いことを感じ取りました。

今からちょうど13年前に、ちゃあすけは大好きなおばあちゃんのベッドの上で亡くなりました。

私は死を意識していたものの、いなくなったことへの寂しさ、そして後悔ばかりが募り辛かったことを思い出します。

ちゃあすけは私に、苦手なものやことでも自分で向かってみれば案外大丈夫なものだということを教えてくれました。

2人で色々な経験をしたからこそ、今の私の気持ちがあるんだなと思います。

『茶亜助(ちゃあすけ)』ありがとう!

家族と子猫が運んできた絆

2年前の夏、4歳の息子と散歩していた時のことです。

いつも行く公園の手前の空き地から『ニャーニャー』とかすかに小さく弱々しい鳴き声が聞こえました。

私には全く聞こえずに息子がそれに気づいたそうです。

そこの空き地は草が生えっぱなしで整備されてなくゴミ、粗大ゴミと捨てられて足の踏み場もないところでした。

息子から『あそこら辺から鳴き声が聞こえる』と指を割いてある所に私がゆっくり近づき辺りを見回すと、そこには一匹の子猫がいるじゃありませんか!しかもその日は38度の猛暑です。

鳴き声もか細く体力もなくなってる模様。

まだ目も開いていません。

目視判断で生後数週間でしょう。

このままここに放置しとくか、連れて帰るか判断にとても迷いました。

親猫、他の子猫の様子も全くなくここに一匹でだけ捨てられてたんだろうなと判断し息子と子猫と一緒に帰宅しました。

帰宅時に一番びっくりしていたのは妻です。

そのあとに娘も。

妻『連れてきてこれからどーするの?』
私『外を暑いし弱ってるから連れてきた』
妻『飼うの?』
私『そうするつもり』

やはり女性の考えはしっかりしてるなといつも思います。

男性はその場の判断でいいだろうと決めてしまいがちだが、女性は細かいところの判断もするので筋道が通っていて話し合いになると必ず論破される。

妻『とりあえず動物病院に連れて行って具合を見てもらって』

妻の言われたとりに動物病院に行きました。

先生「小さいわねーまだ目も開いてないじゃない?ただ毛並みもいいしダニもいない見たいね』

私は安堵の気持ちになり、帰宅時に妻に子猫を育てたいと熱弁して飼えることになりました。

子供達もとても喜んで名前をつけました。

『さくら』

さくら公園近辺にいたので子供達が『さくら」と名付けてくれました。

そこから、毎日数時間ずつミルクをやり様子を見て排泄しての繰り返しで夜の睡眠もままならず1週間が過ぎました。

夏なのにその日だけ、朝方ものすごく涼しくなり起床して子猫の様子を見に行ったら冷たく固まって死んでいました。

本当に一生懸命育てたのに気温の変化のミスで子猫の命を奪ってしまった悲しみと後悔で久々に声をあげて泣きました。

家族も泣きました。

子猫に出会った思い出は家族の一生の思い出になるでしょう。

最後まで娘の部屋の前で出て来るのを待って亡くなった愛猫

妻と娘がペットショップに行って目が合ったので買って来ました。

私が帰ると小さな箱の中にペルシャ猫の小さいのが入っていてニァーニァーと鳴いていました。

直ぐ家族の一員で皆で可愛がっていたのですが何故か娘になついていました。

14年一緒に居て最後は腎不全と診断され日に日に弱って行くのが辛かったです。

元気にしていたのが急に動かなくなってしまい、風邪でもひいたかと思っていました。

しかし、2日目位にこれはただ事ではない事に気付き、病院に連れて行くと腎不全の末期で何時亡くなってもおかしくない状態ですと言われ、このまま延命治療をするか、何もせずに待つか、と言われました。

仕事で朝早く出るので玄関で靴を履いている時に、今まで来た事もないのに玄関先でゴロンと横たわり見送ってくれました。

私と会ったのはこれが最後でした。

妻が病院に連れて行き帰りの腕の中で息を引き取ったそうで、最後は娘の部屋の前で横になり動けなくなっていたとの事です。

父親の時には涙が出ませんでしたが、「ベル、猫の名前」ベルの時は涙が止まりませんでした。

心境としては、今まで此処に居たとか、いつもあの場所に居たとか、食事をしている時も足元に来てじゃれ付いたりしていた事を思いだしては寂しくなりました。

家の中も暗くなった様でした。

今会えたらもっと可愛がってやれば良かったと言いたいです。

現在は犬を飼っています、もう老犬になってしまいましたが可愛いです。

犬で猫でも飼うので在れば家族として大事にして欲しいです。

めったに泣かない私ですが、愛猫を思い出すと涙腺が熱くなります

私が24歳のころ、私が小学校の頃から飼っていた猫ピートがいつも寝ている座布団の上で静かに息を引き取りました。

ピートの猫種はラグドールで、とても好奇心が旺盛で、よく外に飛び出しては鳥や虫を捕まえて遊んでいます。

ある時は野良猫やご近所の飼い猫と喧嘩になり大けがをさせてしまった事もありました。

そんなやんちゃな猫ではありますが、私が勉強机に向かっていると決まって落ち着かないように私の足元をウロウロし頬ずりをして乗せてくれと懇願します。

私が、「わかったわかった」とピートを持ち上げ膝に乗せると落ち着いた様子でウトウトと眠りにつきます。

そんなピートですが私が成人になるにつれ病気がちになり、元気に外へ飛び回ることも無くなっていきました。

寂しくはありましたが相変わらず私の膝に乗ることだけは好きなようで、いつものように乗せてあげると満足げな顔で眠ります。

ある日仕事から帰ってくると妹が私にピートが朝からずっと起きないという事を伝えられ急いで居間に向かうと眠るようにしているピートの姿があり、さすっても声をかけても微動だにしません。

歳も歳だという事もあり諦めました。

昨日はいつもどおり私の膝に乗せてあげた時はそういう予兆は感じられませんでした。

察するに眠りと同時に逝ったのでしょうただ死に気づいてあげられなかったのが全てもの悔いです。

遺体はピートが良く遊んでいた庭の中央に埋めてあげました。

めったに泣かない私ですが、ピートとの思い出を思い出すと涙腺が熱くなります。

いろいろな事があったけど本当に愛おしく憎めない我がピートありがとう

前触れなく亡くなった愛猫、友達優先だったことに後悔

シャム猫のケーナとは、小学校に入る前に出会いました。

とても大好きで、エビの尻尾をあげたり、また、私が寝ていると近づいてきて私の 胸元にきて、舐めるのです。

それが気持ちいいのとこそばゆいのでしかくの方なく起きると嬉しそうな 声を出してきます。

それをずっとやっていたら寝れなくなります。

ケーナが突然死んでしまいました。

前触れがあったら良かったんですが、そんなこともなくいきなりだったのでびっくりしてしまいました。

固くなった体をさすっていると 体がとても硬くなるんだなと思いました。

中学生になると友達と遊ぶことが多くなり、あまりケーナと遊ぶのが少なくなってしまいました。

それが、とても後悔しています。

ケーナがいなくなって食事の時にいないのがとても寂しく思いました。

いつも私の横にいて私の物を欲しがるのを見ているととても可愛いと思いました。

でも、エビを丸ごと食べられることもありましたのでその時は怒りましたが、エビは美味しいですからそういう気持ちになるのもわかりますので仕方ないと諦めます。

今、ケーナと 会えるならまた私の上に来てペロペロ舐めて欲しいと思います。

そして、 ケーナと一緒に外に出て、一緒に走り、遊びたいです。

ケーナは、女の子でしたのでとても可愛くて、舐めてくる時のケーナがとても大好きでした。

もっと、長生きしてくれたらとても良かったのにと思います。

その時に友達ともケーナとも大事にしてたら良かったなと思います。

13年ともにすごした愛猫「ミーコ」からのメッセージ、生まれ変わって歩き出すときめた

心身を病んで、それまでのように元気に働いたり、友達と遊んだりできなくなり、淋しくて知り合いのところに4匹生まれたキジ猫の子猫の中から1匹をいただきました。

哺乳瓶でミルクをあげるところから育て、「ミーコ」と名付けました。

小さい頃は、醜いアヒルの子で耳がやたらに大きくてバランスが悪く、子猫なのに誰もかわいいねと言ってくれなかったのですが、成長するにしたがって顔が小さく、目が大きく、足が長く、スタイルがよく、黒と白の模様のバランスが絶妙で、うちにはもったいない美しい猫に成長しました。

神経質でシャンプーするといつもストーブの前で自分の毛を元気になめなめしてきれいに乾かしていました。

しかし、ある日ストーブの前でなめなめする元気がなく、じっとしているのです。

様子がおかしいので動物病院に連れて行くとがんということでした。

それからあまり動かなくなり、お腹にある腫瘍の部分を自分で噛んでシーツに血がついたりしました。

暖かくなってくるとその腫瘍の部分に虫がわいたりするとお医者さんが言われたので闘病する姿を見るのも辛く、亡くなった晩は「これで楽になれたね」という気持ちの方が大きかったです。

亡くなった夜に血の付いたシーツを泣きながら洗いました。

その後冷たく硬くなったミーコを抱いて寝ました。

翌日、動物霊園に火葬に行く車のカーラジオから中島みゆきの「時代」が流れてきました。

「今はこんなに悲しくて涙も枯れ果ててもう二度と笑顔にはなれそうもないけど…今日は別れた恋人たちも生まれ変わってめぐりあうよ」あまりに状況にマッチした歌詞だったのでミーコからのメッセージ、天の声だと感じました。

火葬されるときも本当に最後のお別れで涙が出ました。

でも、その時代の歌詞「生まれ変わって歩き出すよ」のように生きなければミーコを親兄弟から引き離して一緒に暮らしてもらった意味がないと自分を鼓舞して頑張るように努めました。

今も後悔がつきまとう愛猫の最期、病院選びと餌選びは慎重に

愛猫の「ナナ」が亡くなってもう5年になります。

真夏の炎天下に、バスタオルを敷かれた小さなバスケットの中でうずくまっていたナナを見つけた日から18年間、ずっと家族同様に可愛がってきました。

とても臆病で家族以外には懐きませんでしたし、抱っこされるのが苦手で甘え下手でしたが、夜寝るときはいつも私の布団で一緒に寝ていましたし、私がゴミ捨てでちょっと外に出ただけで「にゃーん」「にゃーん」と鳴いて私を探すとても可愛い子でした。

そんなナナも、15歳を過ぎる頃から徐々に体調を悪くすることが増えていました。

膀胱炎には数度かかりましたし、時折「てんかん」のようなけいれん発作を起こすことも出てきたのです。

そのたびに近所の動物病院に連れて行き、点滴や薬を投与していただいていましたが、けいれんの原因については「調べるのは時間がかかるし、わかったところで治療はできないかもしれない」と言われ、結局のところ何も手は打てず、ただただ発作が起こった時にケガをしないよう周りの危険なものを取り除く程度の対処しかできませんでした。

今思えば、餌の好き嫌いもなく何でも食べる子でしたので、それに甘えて食事が適当になっていたことが良くなかったのかもしれません。

最近になって、市販のペットフードの中には、ペットの体に良くない成分が含まれている商品もあることをネットで知りましたが、当時はそのような知識もないまま、何も考えずに「安いから」「食べるから」でペットフードを選んでしまっていたことを今とても後悔しています。

それ以上に今も考えてしまうのが、「もっと頻繁に病院に連れていくべきだったのではないか」「人間のようにセカンドオピニオンも考えるべきだったのではないか」ということです。

亡くなる1週間ほど前には、ナナは腎不全を起こしてしまっており、病院で点滴を受けたものの、もう立つことも自力でトイレに行くことも食べものを口にすることもできなくなっていました。

病院では「18歳だし寿命と考えてください」と言われました。

私はその言葉をそのまま信じてその後病院に連れて行くことはせず、家で看取ることを選びました。

しかし、その選択について、今になっても後悔の念が私につきまとって離れません。

「あの時別の病院に行っていればもしかするともっと長生きできたのでは?」
「立てなくなった後も、やはり病院に連れて行くべきだったのでは?」
ナナのことを思い出すたび、その言葉が頭をよぎります。

次にもう一度ペットを飼うことがあるとすれば、今度こそは出来るだけ後悔のないよう、病院選びと餌選びをしっかり考えたいなと思っています。

飼い猫の事故死、自分の責任を思って苦しんだ2年間

私が買っていた雑種猫のカンナは、数年前、友人の猫に生まれた子供として引き取りました。

赤ちゃん子猫の状態でウチにやってきたカンナは本当にかわいくて、私は日常の中心がカンナという生活に変わるほど、彼女を溺愛して過ごしてきました。

そんなカンナは、2年前、蝶々を追いかけて外へ出ていった後、角を曲がってきた車が彼女に気づかず、轢かれて亡くなってしまいました。

蝶々を追いかけて外へ行くのはいつものことだったので、まったく気にしていなかった私自身を、激しく責めましたいつもは1分もしないうちに帰ってくるのに、戻ってこないので不思議に思って外へ出たら……今思い返しても、頭がおかしくなってしまった方がマシだと思うような光景が、そこには広がっていました。

轢かれたカンナ。

飼い主である私がしっかりと見ていてあげなかったから。

ごめんね。

ごめんね……自分自身を責めて、かわいそうなカンナのことをひと時も忘れないまま、つらい2年間を過ごしました。

近頃、少しだけ落ち着いてきましたが、この2年間は本当に生き地獄のようでした。

いつも、何をしていても、かわいかったころのカンナと、轢かれて潰れてしまったカンナの姿が交互でフラッシュバックし、その度に、私は絶叫しながらうずくまりたい衝動にかられました。

外出先にいてもそうです。

それが怖くて、仕事を休みがちになってしまいました。

ですが、だんだんと周りの人に心を打ち明けるうちに「カンナは私のせいで亡くなったわけではない」「カンナの寿命がそこまでだったというだけ」「カンナは天国で私を待っていてくれる」というアドバイスをもらい、だんだんと気持ちが楽になってきました。

ごめんねカンナ、でも私の友達でいてくれてありがとう。

カンナが天国で待ってくれていると思うと、自分が死ぬのがこわくなくなります。

そっちへいけるのはまだまだ先だと思うけど、いつかまた会えるのを、楽しみにしているよ。

障害を持って生まれた猫を我が家に連れてくるべきだったのか 今でも考えてしまいます

今から1年2か月ほど前の秋のこと。

友人から「家の物置に勝手に猫が入り込み、子猫を出産しているのを見つけた」という電話が。

私は猫が大好きだったので、急いで見に行きました。

母猫はシャムの雑種のようでしたが、生まれた子猫は黒が3匹と白が1匹。

友人は「家では飼うことができないから、このまま様子を見ながら子猫の飼い主を探す」と話していました。

数か月後、黒の3匹の飼い主は決まったのですが、残ったのが唯一の白。

最初にまた時には気づかなかったのですが、その子猫にはどうも障害があるようで、ずっと顔が小刻みにプルプルと震えています。

かなり体も小さめでした。

そこで私が育てようと一大決心。

自宅に連れて帰りました。

名前はそのまま「シロ」。

シロを動物病院に連れて行ったところ、生まれつき脊髄に損傷があるのではないかという診断結果。

でもまだ小さいので、はっきりとした結果はわからないということでした。

少しずつ体は成長していったのですが、大きくなるにつれてまっすぐに歩くことが難しかったり、決まった場所でトイレができずにオムツをつけることになったり。

それでもつぶらな瞳で一生懸命に私の後を付いてくるシロが可愛くて、すぐに大切な家族の一員になりました。

定期的に検査を受けていたものの、半年ほど経過したときにシロに変化が。

足がピーンと突っ張ることが多くなり、ほとんど歩くことができない状態になってしまいました。

それから1か月くらいで、自分では餌を食べることができない状態に。

流動食を作ってスポイトなどで食べさせていましたが、ついにはそれもできなくなってしまいました。

医師からは「これが障害を持って生まれたこの子の寿命だ」という診断。

そしてシロは天国に旅立ちました。

シロがなくなって以降考えるのは、「もっと自分にできたことがあったたのではないか」そして「そもそも障害を持って生まれた猫を飼ってよかったのか」ということ。

自然界では自然淘汰されたであろう存在のシロ。

その猫を飼ったのは、私のエゴだったのかなとも考えてしまいます。

そんな落ち込んだ私の様子を見て、家族からは「シロが我が家にきて過ごした時間は、シロにとって幸せだったと考えようよ」という言葉。

今でも家に連れてくるべきだったのか正解はわかりませんが、またシロのような猫に出会ったら、放っておけずに同じようにしてしまうだろうと思っています。

20数年すごした猫、居なくなって初めて分かった存在感

 私が初めてそのペットの猫と出会ったのは、私が十代の頃でした。

まだ子猫の時にうちの家にやってきました。

親戚が自分の家では飼えないからという理由で連れてきたのがきっかけでした。

家にやってきてから数日の間は、近寄っては逃げられるという繰り返しの毎日でした。

近寄らなくても、家の中をあっちこっち逃げ回るという状態でした。

いきなり知らない家に連れてこられたのですから無理もなかったと思います。

 このように近寄っていくとすぐに逃げてしまうという状態だったので、食べ物をわかるようにペットの近くに置いて様子を見てみると何とか食事だけは食べてくれました。

その時は、ホッとしたのを憶えています。

その後は、月日が経つごとに徐々に慣れていき、私が家の中を移動するとすぐに後ろから付いてくるまで懐いてくれるようになりました。

この頃からはもう家にペットがいるのが当たり前の状態になり、ペットが家の中で見かけないと気になってしまう、という感じになりました。

 ペットは家族と一緒だとよく言います。

確かにその通りだと思いました。

 それから二十年近く経って年老いて老猫になってくると動きは鈍くなり、食も細くなっていき、若くて元気な時よりも色々な面で気を遣うようになりました。

飼っている当時にもあったのかもしれませんが、今ではペット関連の書籍や情報が溢れています。

 最近、ネット上でペットとの接し方についての記事を偶然見かけました。

その記事を読んで当時のことを思い出し、”あの時は良いと思っていろいろとやっていたけどペットはこう感じていたんだな”と後悔をする時もあります。

ペットがいる時は、居るのが当たり前でしばしば煩わしささえ感じる時もありました。

 ある日突然いなくなってそれっきりで、今は写真が残っているだけです。

家に来て二十数年たったある日の事でした。

確かに、居なくなって暫らくは悲しい気持ちで一杯でした。

でも、残った写真を眺めているとそこから楽しい記憶が溢れ出てきます。

 居る時は何も感じなかったけれど、居なくなって、単なるペットじゃなくてやっぱり大切な家族の一員だったんだなと、その存在の大きさを改めて感じました。

しかし、一番の想いは『うちの家に来てくれてありがとう』でしょう。

愛猫が多頭飼い後ガンで亡くなり後悔、ずっと忘れられなくても前向きに

もう随分前のことになりますが、飼っていた愛猫のナナを腎臓のガンで亡くしました。

元々野良猫だったため、保護した当初はまったく馴れず困ったものですが、いつの間にか人にベッタリの甘えん坊になったかわいい子でした。

ナナを迎えて五年たった頃のことです。

家の近所で子猫を見かけるようになりました。

どうやらその子も野良猫のようで、ある日大怪我をしていたのを発見して保護することになりました。

怪我が完治した後も貰い手が見つからず、我が家に二匹目の猫としてお迎えすることになりました。

猫の多頭飼いは難しい聞いていたので、少しずつ二匹を馴らすために最初は別々の部屋で生活させることにしました。

新しい子はわたし以外の家族はなつかなかった為、面倒を見るのはわたしの役目となりナナと触れ合う機会が減りました。

ナナにガンが見つかったのはそれからしばらくたった頃です。

わかったときにはガンはかなり大きくて手術も難しく、それからたったの二ヶ月で亡くなってしまいました。

最期はゴハンも食べられず、流動食を注射器のような道具であげるなどして必死に看病しましたが、あっけないものでした。

ナナが亡くなった後、わたしが新しい子の世話ばかりしてナナに構ってあげられなかったからナナは病気になったのではないか、そうでなくても、以前のようにたくさんの時間を一緒に過ごしていたならもっと早く病気に気づけたのではないかと後悔し、自分を責めました。

新しい子を可愛がるのもナナに対する裏切りのように思えてしまうくらいでした。

しかし、ナナの通っていた病院の獣医さんに、「あたたはなにも悪くないよ。

ナナちゃんは最後までお世話してもらえて幸せだったんだよ」と言われて少しずつ前向きになれました。

今でもナナのことを考えるともっと色々してあげたかったという気持ちは消えませんが、それ以上に楽しかった思い出がたくさんあるので頑張れています。

飼い始めたときから、病気がちだったネコ、17年生きるも、病気食ばかりでかわいそうなことをしたと後悔

ネコを飼ってみたいなぁ、と思っているときに友達からもらえることになり家で飼うことになりました。

それから17年間、一緒に暮らしてきました。

家に来たときから、体調が良くなくて病院に通っていました。

初めは、ネコ缶を食べていました。

しかし、腎臓があまりよくなくて、すぐに食事制限しなくてはいけなくなりました。

それから、病気食が初じまりました。

ふつうのネコ缶とは違ってあまり美味しくないようで、初めはあまり食べませんでしたが、それしかもらえないとわかったようで食べるようになりました。

食事以外はとくになにもしていませんでした。

しかし、ほぼ10年以上美味しいネコ缶も、ネコがすきなかつおぶしやネコのオヤツなど食べることはなかったので可哀想なことをしたように思いました。

実際には、老衰でなくなったのですが、病気が治ることはなかったのでずっと定期的に病院には通わなければいけなかったし、ご飯もずっと病院のエサでした。

長生き出来た方だと思うのですが、やっぱり好きな食べ物がたべたかったかも知れないと思うと病院のご飯ばかり食べさせて本当に良かったのかなとときどき思います。

それにすごく病院を怖がっている子でした。

でも、定期的に病院に通っていたのでいつも震えていました。

可哀想に思いながらも、いかないわけには行かず、つらかったことを覚えています。

亡くなる少しまえには、ご飯は食べれなくなったので1日おきに病院に点滴をしに行っていました。

もう怖がる元気もなくなっていたので暴れることもありませんでした。

亡くなってからも、いるような気がしてしょうがなかったです。

今でも亡くなってからだいぶたつのですが、どこかで寝てるようなふと思うことがあります。

またまだなにか、してあげれることがあったような気がして。

ときどき思うことがあります。

大好きだった愛犬の死に夢でもいいから会いたいと何度も願った

小学校4年生のある日。

お母さんについて行ったスーパーで、子犬を譲ります。

という写真つきの張り紙があるのを見かけました。

写真に写っていたのは、フワフワでまるで、ぬいぐるみのような犬でした。

私は、どうしてもどうしても!その子を家族にしたいと強く思い、その日の夜、両親に相談しました。

両親は、私の熱意に負け、犬と会ってみる約束をしてくれました。

私は嬉しくて嬉しくて、この日のことは今でもしっかり覚えています。

それから3日後、私たち家族は、その犬がいるおうちまで会いに行きました。

そこに居たのは、あの写真のままの本当にぬいぐるみのような子でした。

そしてその子は、その日の夜から私たちの家族になりました。

可愛くて可愛くて…一生大切にするよ。

とそう話しかけて抱きしめました。

名前は私がつけました。

ペコです。

ペコちゃんみたいに下を出すからという理由でした。

ペコちゃんは私の一番の親友で、お世話も全て私がやっていました。

だからペコちゃんも私に一番なついてくれて、それから私たちは本当に幸せな毎日を過ごしていました。

もうペコちゃんがいない人生は考えられなくなっていました。

それから10年、私が18歳の頃、ペコちゃんは、あまり歩かなくなり、目もあまり見えなくなってしまいました。

獣医さんには、歳だから仕方ないと言われていました。

そんなある日、あまりにも突然にペコちゃんは天国へ旅立ってしまいました。

老衰でした。

私はひどく動揺し、まだ暖かさの残るペコちゃんを抱きしめることしかできませんでした。

ペットのお葬式をしてくれるところに連絡をし、ペコちゃんのお葬式をしました。

骨になってしまったペコちゃん。

受け入れるには、すごく長い時間がかかりました。

夢でいいから会いたいと何度も願ったものです。

ペコちゃん、どうか私を天国から見守っていてね。

またいつか、必ず会おうね。

ずっと大好きだよ。

ありがとう。

時間が経つほど実感する愛猫の死、子供がうまれ構って上げられなかったことを後悔

ココと出会ったのは私がちょうど二十歳になった頃でした。

当時はまだ実家に住んでいて、母がココを買ってきました。

ココはメスのラグドールでした。

毛色の出方がおかしいという理由で格安で売られていたそうです。

それと関係あるかはわかりませんが、ラグドールは人形のようにおとなしく抱っこされるのが好きな猫と言われているのに、ちっとも大人しく抱かれない、暴れん坊の猫でした。

そして時が過ぎ、私も結婚して子供が生まれ、ココは13歳になりました。

実家がペットを飼えない事情があったため、私がココを飼っていました。

この頃、私は子供の世話でいっぱいいっぱいで、ココのことはほとんど構ってあげていませんでした。

ココはすっかり老猫になり、一日中寝て過ごしていました。

ある晩、私はいつもは寝室のふすまを閉めて寝るのに、なぜか、少し開けて寝ようと思いました。

今思うと、ココが何かを伝えたかったのかもしれません。

次の日の朝、起きると、ココはいつもの場所で横になって冷たくなっていました。

昨日までご飯もたくさん食べていたし、普通に歩いていたのにどうして!?と、現実を受け入れられない
と同時に、育児で余裕のなかった私は、心のどこかでホッとしている自分がいることに驚きました。

ココが死んだ直後は取り乱したりもせず、思っていたより冷静でいたと思います。

それが1週間経った頃、寂しくて苦しくてたまらなくなり、毎晩寝る前に涙が止まりませんでした。

純粋に、いなくなって寂しいという気持ちはもちろん、いくら育児が大変とはいえ、もっと構ってあげればよかった、もっと頻繁に病院に検診に連れて行っていたらもっと長生きできたかもしれないのにと、後悔の気持ちが溢れました。

あの晩、ココの様子を見に行っていれば、何か違ったかもとも思いました。

今は、子供が小さいこともあり、ペットを飼うことは考えていません。

私の気持ちとしても、また別れが来ることを思うと、辛くてペットを飼いたいとはまだ思えません。

将来、もしも、もう一度だけちゃんとペットと向き合いたいと思える日が来たら、その時はまたきっと猫を飼うと思います。

だってやっぱり、猫って、最高に愛しい存在だから。

12歳で亡くなった愛猫、清潔にしなかったことを後悔 今、もし会えたらいっぱい聞いてみたい。

飼っていたヒマラヤンが亡くなったのは、猫が12歳の頃でした。

自分が小学生の頃から飼っていた猫なので、とても悲しかったです。

胸が張り裂けそうになりました。

猫が亡くなって1か月くらいは、何もすることができませんでいした。

食事もほとんどとることができず、とにかく悲しんでいました。

後悔していることがあるとすれば、猫の毛を清潔にしてあげることができなかったことです。

ヒマラヤンなので長い毛だったのですが、そのため、傷ができたときに、膿んでしまったのです。

とにかく、清潔にしておかなければならなかったのですが、不潔になってしまって、皮膚が剥がれ落ちるまでになってしまいました。

本当に快適に過ごしてほしかったので、そのことは後悔しています。

ヒマラヤンの猫に今会うことができたとしたら、元気に暮らしているか聞いてみたいです。

それから、昔一緒に住んでいた時のことを放したいです。

家を出て3日くらい帰ってこなかったときは、何をしていたのか、何のエサが一番おいしかったのか、など、沢山思い出話をしていきたいです。

もっともっと、話すことができたら、今、結婚しているかどうかも聞いてみたいです。

飼っていたころは、去勢をしてしまっていたので、子供を産めない状態になってしまっていました。

今、家族を作って元気に暮らしてくれていたらいいなと思っています。

ヒマラヤンの猫は、とても、おてんばな猫でした。

すきがあれば、すぐにでも家を出ようとするし、家の中では走り回っているし、とても可愛かったです。

共に渡米し亡くなった2匹の愛猫

 米国在住歴18年になります。

渡米した際に一緒に日本から猫を2匹連れてきました。

名前は、はな、と、ひまわり。

2匹とも日本の地を見ることなく、ここ、アメリカで亡くなりました。

 はなは、メイク―ンの雑種で、ふさふさとした毛を自慢げにいつも優雅に歩いていました。

ものすごく人懐っこい猫で、だれにでもすりすりしていく猫でした。

はなは、うちの大学でうろついていたいわゆる、野良ネコでした。

そんなはなを、僕は大学卒業と同時に自分の家で飼うことにしました。

 ひまわりは、近所のおばちゃんからもらった子猫で、橙色の雑種でした。

はなが、母親代わりをして、いつも二匹一緒に生活してました。

はなと違って、ひまわりは、ものすごくシャイで、お客さんや、友達がうちに来ると、すぐに隠れてました。

 そんな二匹を、僕の米国での大学院進学のために、いっしょにアメリカに連れてきました。

米国に来て、約10年がたったころ、ひまわりが、亡くなりました。

死因は、獣医によると腎不全でした。

最後は、がりがりに痩せてしまい、おトイレもできなくなり、亡くなる3週間ぐらいは、ずっとベットの近辺でおもらしをしていました。

最後は、階段の上る途中で、亡くなってました。

今でも思い出すと悲しくなります。

 はなは、その後、ひとりで生活してましたが、その5年後、老衰のため目も見えなくなり、ほとんど動かなくなりました。

最後はあまりにもかわいそうだったので、獣医で、安楽死させてあげました。

 二人のお墓は、裏庭に作ってあげました。

隣どうしに今も、二匹は一緒に眠ってます。

一度だけ、寝ぼけていたのかもしれませんが、ひまわりを、夜中キッチンで見ました。

ぼーっと橙色に輝いて、キッチンのテーブルの上に鎮座してました。

はっと声をあげて、瞬きすると、もう、ひまわりは消えてました。

 まだ、僕の中で、次の猫を飼う気持ちにはなってませんが、また、いつか猫を飼いたいと思います。

愛猫の突然の死 長く一緒にいてやれずにゴメンねと謝りたい

初めて出会ったのは、仕事を始めて2年目、一人暮らしをしていて寂しさなどを感じてはいなかったが、捨て猫を拾った友人が飼い主を捜していると言うことで、少し目が悪いようだったが引き取ることにした。

飼っている間に目は目やにが酷いだけで、すぐに治り、私にもすぐに慣れ、トイレもすぐに覚える頭のいい子だった

避妊手術をしたせいで、太りやすくなり暴行にストルバイトという石が溜まりやすくなってしまい。

その病気のせいで亡くなってしまった。

あまりにも突然で具合が悪いしぐさもなかったので気付かず亡くなってしまった。

寒い時期や家に帰るとすぐに近寄ってきて、私が座っていると近くに寄り添うか、足の上で寝転んでいた
夜寝る時は布団の上で丸まり重たかったです。

外に出たり、病院にいく時は怖がってしまい、おしっこをもらしてしまい、知らない人が家に来ると嬉しくかまてもらいたいのか、噛み付いたりじゃれたりしていました。

突然の別れだったので、すぐに気持ちをコントロールすることは難しかったです、少しずつ時間が解決するように、日常に戻っていきました。

ペットが亡くなったので次のペットを飼う方もいますが、ペットロスになるよりは飼った方がいいとはおもいますが、できるだけその子の代わりとして飼うのはおススメできません。

新しいその子にも悪いし、代わりには絶対にならないので。

もう一度会えたなら、「できるだけ長く一緒に居てあげれなくてごめんね」と伝えてあげたいです

家猫ではなく 怪我や病気の多い外猫で幸せな人生だったのか?と今も思う

6年前、愛猫の「チョロ」が亡くなりました。

享年13歳でした。

猫の寿命としては少し早いですかね。

私が高校生の時、実家の庭に迷い猫として現れたチョロは、ゴージャスなグレーの毛並みをした毛長種のオス猫で、人を恐れることなく「にゃー」と寄ってきて人馴れをしていました。

どう見ても高級そうだし、どこかで飼われていた猫だろうと、飼い主探しをしましたが見つかることはなく、結果実家の庭に居ついてしまいました。

当時、まだ家を建てたばかりだったため、両親はどうしても家猫として迎えることは躊躇し、庭で放し飼い状態でした。

それでもチョロは元気に走り回り、毛が長いので毎日そこら中の葉っぱやゴミを体にくっつけて帰ってきました。

チョロの毛繕いをしてあげたり、共働きの両親の帰宅が遅い時は夕方のご飯をあげたりするのが、私たちの日課でした。

今思えば家猫ではなかったことで、チョロにはたくさんの怪我や病気をさせてしまいました。

若い頃は、どこかの野良猫とやりあって負けたのでしょう、太ももに骨が見えるほどの傷を負って、命からがら帰ってきたこともありました。

すぐに病院で手術をして痛い思いをさせてしまい、その後おとなしい性格になってしまってように思います。

チョロがおじさんの歳になった頃でしょうか、車用だったガレージを改装して猫部屋を作り、チョロはそこで生活するようになりました。

それまで自由に出入りできていた空間に、透明なガラスを入れ部屋を作ったため、初めてチョロがその部屋に入ったときガラスの存在に気づかず、おもいっきりガラスに向かってジャンプし、顔面を強打しました。

そこからチョロの体調がどんどん悪くなっていきました。

目や鼻から膿を出し、綺麗な緑色の目は次第に色が変わっていきました。

気分が悪いのかご飯もあまり食べなくなり、体もどんどんやせ細っていきました。

病院の見解は、顔面をぶつけた時に脳に衝撃があって、病気を発症したのではないかということでした。

年齢も関係しているから一概には言えないが、と。

チョロは緑内障と白内障を発症し、毎日目薬をさしましたが、数年かけ、失明してしまいました。

亡くなる寸前は、自分が動けるだけの小さなテリトリーに、トイレとご飯のトレイとベッドを置いてやり、そこをヨタヨタと歩いて生活しました。

チョロが亡くなった日、私は定時で会社を出て、チョロの亡骸に一晩中寄り添いました。

チョロはガレージではなく、私たちが生活する部屋の中に一晩置いてやりました。

最初から家猫だったら、もっと違う人生だったのかな、チョロは幸せな人生(猫生?)だったのかなと今でも考えます。

当時、友人に励まされた文章を載せます。

・みんなに可愛がってもらえてたもんねぇ。

きっと幸せだったよ?絶対幸せだった!
・私がチョロの事を忘れずに、たまに思い出して「あんときチョロこんな事してたよな~」とか懐かしむ事がチョロの供養になるんじゃないかな。

・うちも去年の暮れにネコが死んだ。

青春時代を一緒に過ごした分、本当につらかったけど、今年、甥っ子が生まれて、最高にかわいい。

きっと生まれ変わってまたうちにきてくれたんだと思う。

そういう出会いがきっとあるよ♪

生まれてからずっと一緒にいた猫との別れ 老衰で衰弱する姿はみるのが辛かった

私は数年前、自分が生まれてからずっと時を同じくしたミルクと別れを告げました。

ミルクは猫でした。

私の母が私が生まれる少し前に拾った猫で、母はいつもミルクとの出会いは運命だったと言っていました。

ミルクはとにかく母が可愛がっていたのですが、私が生まれた時からずっと一緒にいたわけであり、愛着を抱かないはずがありません。

私は幼い頃から母親と二人暮らしで、ミルクはまさに家族の一人でした。

ミルクが亡くなった原因は、老衰でした。

ミルクは20年近く生きたので、猫の方では長生きだったと思います。

常に活発な猫だったというわけではないのですが、徐々に病弱になって餌も食べなくなり動かなくなっていく様を見るのは辛いものがありました。

私はミルクがなくなる瞬間に立ち会うことはできませんでした。

私は高校の部活で合宿に行っており、ミルクは母に看取られて息を引き取りました。

くしくも、その命日は母の誕生日でした。

ミルクは私にとてもなついてたわけではありませんでした。

私が物心もつかないうちに何かとちょっかいをかけたりしたこともあり、母ほど仲良くはありませんでした。

しかしミルクは確実に私の家族であり、癒やしでした。

私自身学校での友だちが多いほどではなかったのですが、毎日家に変えるとミルクがいることでなんだか安心感がありました。

直に触ってやると暖かくて、毛並みがフサフサで、餌をやったりトイレを片付けたり面倒だと思うことはありながらも、世話すること自体は嫌いではありませんでした。

私自身はペットの死に対し著しい悲しみを抱いたりはしませんでした。

むしろ私は母の心情のほうが心残りでした。

母は文字通り目に入れても痛くないほどミルクを可愛がっていたので、ミルクがいなくなることで気に病んでしまうのではないかと心配しました。

一応、母もなんとかやっているようです。

ミルクが亡くなる少し前に新たな猫が我が家にやってきて、今度はその猫を可愛がっています。

それでも、ミルクのことは忘れられないようです。

出会いがあれば必ず別れがあります。

人であれペットであれ死に直面することは人生でそうないので衝撃は小さくありまえん。

ただ、この世からいなくなったとしても出会いがあったということは私たちの心の中に残り続けます。

出会えてよかったという思いこそを糧の一部としてその生命をも背負って生きていきたいということを学ばせてくれました。

しぶしぶ引き取ったが、いつしか好きになっていた野良猫を手術で亡くす 悲しさ悔しさ後悔が入り混じる

去年の夏、祖母は野良猫を保護しました。

その猫は腹部に大きな傷がありました。

あまりにも傷が酷く、辛かったみたいで、野良猫は祖母に向かって「ニャー…」とまるで助けてと言ってるように鳴いてきたそうです。

祖母は家で犬を飼っているらしく、
飼えないから里親が見つかるまで
この猫をおいてやってくれと私の家に頼んできました。

私はその時は正直嫌でした。

しかしお世話になっている祖母の願いなので、渋々おいてやることにしました。

野良猫だったので病気をもっていたら
嫌だったので動物病院に連れて行くと、
やはり病気を持っていました。

しかし人間に感染することはないと言われ、注射をしてもらいました。

傷口もみてもらい、家に帰宅しました。

怯えていたので大きなゲージに入れて、
まずは慣れてもらう事から始めました。

しかし恐怖があるせいか
餌も手をつけず、水しか飲みませんでした。

さすがに心配になり、餌を変えようと思い、ホームセンターで猫の餌を端から買い、少しずつ食べさせて、食べてくれる餌を探しました。

何日もかかりましたが、1つだけ食べてくれる餌が見つかり
あんなに渋々引き取った猫なのに
ホッとして愛しい気持ちになっている自分がいました。

それから毎日お世話をし続けて
猫も私に慣れてきて
私が帰ってくると「ニャー」と鳴いてくれるようになりました。

私は猫に チョコ という名前をつけました。

傷口も治してあげたかったので、
手術の予約もとりました。

早く治って一緒に暮らしていきたい。

そんな一心でした。

手術当日。

私はその手術でチョコは治るものだと考えていました。

しかし手術後、チョコの容態は悪化してしまいました。

手術を終え、チョコは入院でした。

私は家にいたのですが夜の7時くらいに
動物病院から電話があり、
「容態が悪化しています。

もしかしたらダメかもしれません。

家に引き取りますか?」という連絡でした。

私は急いで病院に向かい、チョコを引き取りました。

チョコはグッタリしていて、痙攣を繰り返します。

きっと体力がないのに手術をしてしまったので、体が手術に耐えられなかったのだと思います。

私はとっても後悔しました。

手術なんかしなければチョコは元気だったのに…。

私は痙攣するチョコを泣きながらおさえてあげる事しかできません。

ごめんね。

何回も謝りました。

それから胃液を吐いたり、目に白い膜がはってきてしまったり、どんどん悪化していくチョコが可哀想で申し訳なくてしかたありませんでした。

そして手術をして3日後。

私はどうしても出掛けなきゃいけない用事がありました。

私はチョコが心配だったので
用事を早く済ませて急いで帰りました。

帰宅すると横たわって、私の方をみてチョコが「ニャー…」とか細い声で鳴いたのです。

その瞬間再び痙攣を起こして、そのまま息をひきとりました。

悲しさ、悔しさ、後悔、いろんな感情が混ざりました。

私はただ謝って泣くことしかできませんでした。

あれから一年経ちますが、
未だに写真をみて泣きながら謝ります。

ペットの命とは、飼い主の判断で左右されると思います。

もしまた何かペットを飼うとしたら、
飼い主とはとても責任が重いということを改めてわかった上で飼いたいと思います。

高齢になっていた愛猫が姿を見せなくなってから4年 もう亡くなったのかと…なんともいえない感情に

私は10年前、黒猫を飼っていました。

名前はチビ。

私の母が母の友人から貰ってきた猫で、その時チビは2歳くらいでした。

名前の由来は、小柄な猫で可愛いという理由でした。

チビは雑種で、よく外にいつのまにか出て行っては、いつのまにか帰ってくる猫でした。

私が帰ってきた時、家から2、3匹の猫と出て行く姿にはよく驚かされたものです。

家の玄関を開ける時に一緒に家の中に入って、一緒に帰ってきたような感じになったり、寝ている時にお腹の上に乗ってきたり、共に暮らしているって感じて、とても可愛い猫でした。

そんな自由で癒しをくれるチビが、あまり元気がないと感じてきたのはチビが10歳くらいの時でした。

ずっと大人しいし、あまり餌は食べないし、病院に連れて行くことにしました。

しかし、獣医さんからは特に病気はしてないけれど、高齢期に入って疲れやすくなっているのかも、とのことでした。

その事を聞いてから私は、チビの死を意識し始めるようになりました。

家に帰ってすり寄ってくるチビ。

私はチビに対して、いつも家にいる家族だけでなく、いつかいなくなってしまう家族とも思うようになり、可愛さだけでなく、悲しさも感じる日々になりました。

それから2年後の夏、チビがいなくなりました。

よく外に遊びに行く猫でしたが、必ず3日以内には帰って来たのに、何日経っても帰ってこない。

探しても見つからず、野良猫たちも来なくなり、私は気が気じゃありませんでした。

単純に出て行ったとは考えられませんでした。

それならとっくの昔にいなくなっているはず。

そんな時、母から猫は死期が近づくと死体を見せないようにいなくなると聞きました。

それを聞いた私はチビの生死が分からなくて、どうしていいか途方に暮れました。

あれから4年、私の中でチビは死んだのだと思うようになりましたが、その死に目には会えませんでした。

悲しいと思っていても、いやもしかしたら・・・という気持ちもあり、何とも言えない感情がずっとある日々を過ごしています。

亡くなったはずの愛猫が最後の力であいさつしてくれた

私の家には今現在13匹の猫がいます。

家で飼っている猫、外で飼っている猫、野良猫だった猫が住み着いているなどを全て合わせての数です。

数年前野良猫で白い猫が迷い込んで来ました。

雌猫でお腹が少し大きかったので名前をママにしました。

初めはやはりなかなかなついてくれませんでしたが餌を与えて日が経つに連れて少しずつ心を開いてくれたのか近づいてくれて頭を撫でさせてくれるようになりました。

数か月後に5匹の子供を産みました。

雄3匹、雌2匹です。

子供が小さい頃は家の敷地内をちょろちょろ走り回ったり車の下からエンジンの隙間に入ったりして大変でしたがすくすく育っていきました。

しかしある程度大きくなったら1匹、また1匹と姿を消していきました。

母親のママちゃんが元々が野良猫だったので風来坊の様な感じで色々な所を徘徊する遺伝子があったのかもしれません。

しかしママちゃんと1匹の雄猫だけは家の敷地内にずっといて居なくなることはありませんでした。


った1匹の雄猫の名前はわさびにしました。

名前の理由は特にありません。

ママちゃんはとてもなついてくれました。

私の姿を見ると遠くでも鳴きながら走って来てくれていました。

その都度たくさん撫でてたくさん遊びました。

ある日ママちゃんが急に具合が悪くなりました。

その時10歳くらいでした。

病院に連れていきなんとか回復しましたが数ヵ月後また具合が悪くなりまた病院に行くということを何回も繰り返していました。

病院は母親が連れて行ってくれていたのでどういった病名なのかはよく分かりません。

ママちゃんは家で夕方に亡くなりました。

吐血したらしいです。

私はその日仕事でいつもより少し家に帰るのが遅くなりました。

私が車で家の敷地内に入ると死んでいたママちゃんが体を起こして私の車の所まで歩いてきました。

(その時ママちゃんが吐血して心臓が止まっていたのは母親から後で聞かされました)そして私の足にすり寄ってきて一言にゃーといってそのままゆっくり地面に倒れて横になり息を引き取りました。

数日後ママちゃんが夢に出てきました。

ママちゃんがすり寄って来てなかなか足から離れなかったのを今でも覚えています。

ちなみに雄猫のわさびちゃんはまだ元気い生きています。

出会いがあれば別れがやってくるが現在ではネットで情報を調べる事でペットの病気等による死を回避する事ができるのでは?

30年以上も前の話ですが、私が小学生の頃に茶色い猫を飼っていました。

猫の名前はマルでした。

マルはペットショップで販売されていた猫という訳でなく
捨てられていた猫を私が拾ってきました。

当時親はペットを飼う事に反対していましたが、私のわがままを聞いてくれて
マルを飼う事ができるようになりました。

私が学校から帰ってくるとマルが玄関口までやってきて
ニャーと鳴き身体をスリスリしてきて非常になついてくれて
すごく癒やされいつしかかけがえのない家族の一員となっていました。

ただ、出会いがあれば必ず別れがやってきます。

ある日を境にマルの食欲がなくなってきました。

最初はちょっと具合が悪いだけで2,3日もすれば元気になるだろうと思って
あまり心配していなかったのですがそれが間違いでした。

その数日後の朝、マルの様子を見に行くとマルの肛門から腸が出て
出血していました。

私はパニックになりながらも親を呼び、すぐにマルを動物病院へと連れていき
手術をしてもらうことになりました。

手術は無事に終わり確か1週間後にマルを迎えに動物病院に行きました。

すると、マルは元気な姿を見せてくれて家に連れて帰って家族のみんなは
一安心したのですが、その3日後にマルは亡くなりました。

当時はインターネットもなく現在のように簡単に動物の病気やどんなエサを与えればいいのか等の
情報が入手できず本当に自分たちがマルに与えていたエサは正しかったのかという疑問や後悔があります。

焼き魚や、キャットフード等のエサで本当に良かったのか?
また、なぜ手術は成功したのにも関わらず3日後に急に亡くなったのか?

ただ、それまで家族の一員だったマルが亡くなった時に
私はものすごく泣きじゃくった事を今でも覚えています。

ペットを飼うという事は必ず別れがやってくるので
ペットへの愛情が強ければ強いほど辛い思いをします。

私はもうこのような辛い別れは2度としたくないのと
責任を持ってペットを飼う事ができないと思うので
マルが亡くなってからはペットを飼う事はありませんでした。

ぜんぜん安楽死じゃなかった私の愛猫 見取り看護を選択しなかったことへの後悔

もう20年以上前の話になります。

一緒に同棲していた彼はの仕事は不規則で夜勤が週に2回もありました。

だから日中に仕事をしていた私との生活はかなりすれ違いが多く、少し淋しく感じていました。

そんなある日、彼と散歩していた際にペットショップの前を通りかかりました。

そこには小さくてふわふわした白い毛のペルシャ猫の子猫がショーケースの中をよちよちと歩いていました。

その子猫を見ていたら、彼が自分の不在中に淋しくないようにとその子猫を突然その場で買ってプレゼントしてくれました。

それまで一度も猫を飼ったことがなかったのですが、すぐに猫の飼い方の本を買い勉強して、子猫を育てていきました。

私はその猫にリリーという名前をつけました。

ちょっと弱弱しい華奢なオス猫のリリーでしたが、いつの間にかすくすくと大きくなり、1年もすると立派で美しい毛並みの白いペルシャ猫へと成長しました。

リリーが1歳半になった時のことです。

突然トイレに行ってもなぜか尿がうまく出せないようで何度もトイレの周りをうろうろしたり、粗相をするようになりました。

何かおかしいと思い、すぐに私は獣医さんのところに連れて行きました。

獣医さんはリリーが尿路結石であるという診断を下しました。

幸い、手術で石を取ってもらうことができました。

手術後、1-2日後にはリリーは元気を取り戻し、以前のようにたくさん餌を食べて遊ぶようになりました。

病気が治って良かったと安心していたのですが、手術から1週間後、突然またリリーの様子がおかしくなり、ぐったりして元気がありません。

トイレは普通にできているのですが、まったく餌を食べず、目を閉じて暗い所に何時間も小さく固まっていました。

不安になった私は、再び獣医さんのところへリリーを連れて行きました。

そこで言われた病名は、伝染性腹膜炎でした。

実は、尿路結石で獣医さんのところに連れて行った時、私の前の人が獣医さんと話しているのが聞こえ、その方の猫が伝染性腹膜炎という病気であると知りました。

なんだか大変そうな病気でお気の毒だなと思っていたのですが、まさか自分の猫が同じ病気になるとは思っても見ませんでした。

獣医さんは毎回診察台を消毒液で拭いているようでしたが、今思えばその時に病院で感染したとしか思えません。

なぜなら、私はリリー1匹しか飼っていませんでしたし、室内飼いなので外で感染することは有り得ないからです。

私はこの病院を選んだことをひどく後悔しました。

その後、リリーは日に日に衰弱していき、何をあげても食べなくなってしまいました。

そして完全に元気がなく、ぐったりしていました。

どうしたらいいかと獣医さんに相談しました。

しかし、この病気は治らない病気で死を待つだけとなり、猫はずっと死ぬまで毎日苦しみ続けるので、安楽死も一つの選択であるとアドバイスされました。

すぐに決断できなかったのですが、苦しんでいる様子のリリーを毎日見ていて、死を待つだけのために苦しみ続けるのなら、安楽死の方がリリーにとってもいいという気持ちになってしまい、最終的に安楽死を選びました。

獣医さんの話では、注射で苦しまないから大丈夫との話で安らかに天国に行って欲しいと願っていたのですが、安楽死処置後にリリーを引き取りに行ったら、それはもう今まで見たこともないようなとても苦しそうな形相の死に顔でした。

その顔を見て、私は涙が止まりませんでした。

この獣医さんを否定するつもりはないですが、この病院を選んだこと、安楽死は苦しまないという言葉を信じて安楽死を選択してしまったこと、見取り看護という選択を考えなかったことなど、不運と自分の愚かさを悔やみました。

20年以上経つのに、リリーの壮絶な死に顔はずっと忘れられませんし、今でも思い出すと涙が溢れてきます。

安楽死は安易に選択すべきではありません。

また、私は獣医さんに対してこのことでクレームなどは一切出していませんが、動物病院の選択はとても大事であるとつくづく思い知らされました。

知り合いから評判を聞くなど情報収集をして良い病院を探すことは、こうした私とリリーのような不幸を避けることにもなるだろうと信じています。

リリーが亡くなってから10年ほど猫を飼うことができませんでしたが、寒い冬の夜空で途方に暮れていた子猫を拾ってから、再び猫を飼うようになりました。

幸い、その猫はほとんど大きな病気をしたことがなく、10歳を過ぎても元気です。

今はその猫にリリーの分まで愛情を注ぎ、大事にしています。

家族がたまたまそろったその日の朝に乳がんで亡くなった愛猫 待っててくれたのかな・・・と母がつぶやいた

初めて猫を飼い出したのが、私が小学生のころ。

拾った猫でしたが、気性が荒くなかなか小難しい雌猫でした。

私の妹なんて、その猫が怖くてにさわることが出来なかったぐらい^^;
(気に入らないところを触ろうとすると、すぐ引っ掻いたり、噛んで来たりするので)

でも、私にとっては親友みたいなもので、よく一緒に遊んだり、一緒に寝たり、辛いスナック菓子が好きな猫だったので一緒に食べたりしていました。

飴も食べるし、フライドポテトも食べる猫。

変な猫ですよね。

でも別れは突然くるもので、私が20代のころ、急にその猫がご飯を食べなくなりました。

本当に急だったんです。

母が病院に連れて行っても、一向によくなりません。

もう一度、違う病院への受診を母に言いましたが「病院へ行くだけでも猫にとってはすごいストレス。

正直可哀想だし、このまま本人(猫)の好きにさせてやりたい」と言い出しました。

正直、この時に私にはまったく理解できず、治せる病気かもしれないのに、何で他の病院へ母が連れて行かないのかわかりません。

私が泣きながら訴えましたが、聴いてもらえませんでした。

猫はそのまま何週間もご飯を食べず、大好きだったお菓子も食べず、水も飲まなくなってしまいました。

ガリガリに痩せ細ったからだ。

いつ死んでもおかしくない状況でした。

そして、ある日の朝方。

たまたま家族全員がそろっていた、まさにその日に猫は死んでしまいました。

偶然1人暮らしをしている妹も帰省していた日でした。

「家族全員が揃うまで、待っててくれたのかな・・・」

母がポツリとぼやきます。

後から知った話ですが、その猫は乳がんで、年齢も12歳。

手術でどうこうできる状態ではなかったそうです。

プライドが高く、まさに「お猫様」という感じの我が家の猫でしたが、家族がそろった家で最後を迎えることができ、よかったのかな・・・と思ってます。

愛猫がくれた19年間の思い出 死の間際に側にいてあげれなかった事を今でも後悔

4年前の冬に、私が小学校1年の時から19年間、姉妹のように過ごしてきた愛猫のリリを亡くしました。

19年という月日は、猫にとっては非常に長く、最後は老衰でした。

亡くなる半年程前から、食欲が無くなり、体重が落ち、殆どの時間を寝て過ごすようになりました。

夏を越せるのか心配になった程ですが、何とかそれから半年持ち堪えてくれました。

今思い返せば、点滴による栄養補給や延命治療がリリにとって良かったのかは分かりません。

長く苦しめる結果になっていたのかもしれません。

ただ当時の私には、リリを失うかもしれないという事がとても恐ろしく、出来る限り一緒にいたいという思いしかありませんでした。

12月に入り、トイレに行く事すらままならない状態になりました。

ある朝、いつもリリに声をかけてから出勤するのですが、反応が非常に薄く、嫌な不安が胸を占めました。

その日は金曜日で明日は休日という事もあり、私はなるべく早く帰ろうと思いつつ、通常通り出勤する事にしました。

嫌な予感を振り払うようにリリの頭を撫で、「行ってくるね」と声を掛け、家を出ました。

仕事を終わらせ帰宅すると、リリはもう冷たくなっていました。

最後の瞬間は苦しかったのでしょうか。

眼は開かれ、口も叫んだかのように開いたままでした。

側にいてあげれなかった事を、今でも後悔しています。

一人で苦しんで逝ったリリを思うと、未だに胸が締め付けられます。

忘れてしまったり、悲しみが消える事は無いのだろうと思います。

ただ、思い出す時は最後の時だけではなく、子猫の頃一緒に遊んだ事や、膝に乗ってきた暖かさも共に思い出します。

とても悲しく、堪え難い程の辛さでしたが、出会えて良かった、一緒に過ごせて良かったと心から思っています。

今は、縁あって捨てられていた子猫1匹と暮らしています。

リリとは全く違う性格の子で、毎日やんちゃで手を焼いています。

この子ともいずれお別れの時は来るのでしょうが、それでも今この子といて感じる幸せも確かにあります。

これからもリリとの思い出を大切に、今を生きていきたいと思います。

名無しの子猫の思い出ばなし

私の子供時代は戦争の真っ只中でした。

人間でさえ満足に食べ物を口にすることが難しい時代に、愛玩用の動物を飼うことは即ち国賊とみなされる行為だったのです。

しかし私の亡父は戦争にこそ取られなかったものの、仕事柄家を空けがちになり、女所帯の不安さは日々増してゆくばかりでした。

そこで父はまだ幼かった私のために一匹のおすの子猫を与えてくれました。

父は特に語りませんでしたが相当苦労して手に入れてくれたようです。

しかし戦局は悪化の一途をたどり、普通の家庭では食料の配給だけではその日の食事にも事欠くようになり、育ち盛りの子猫にまで十分な餌は与えてあげられませんでした。

その子はいつもひもじい思いをしていたに違いありません。

これが実益の伴うニワトリのような家畜であれば、河原に生えている雑穀の類や野菜くずでも与えればよかったのですが、現在のように専用の餌が継続して手に入るわけもなく、ただ抱きしめて体を私の体温で温めてあげるくらいしか出来なかったことが本当に辛いことでした。

戦争は人間だけでなくかわいい動物たちにも暗く厳しい運命を強いたのでした。

私は空腹を我慢してその子に餌を与えることもしていましたが、病弱な母はそれを許さず、ただでさえ有るか無いかが不明瞭な餌の量が減らされてしまいました。

その子は日々衰弱してゆくことが幼い私にも手に取るようにわかっていたのです。

その子との別れの時が近づいていました。

そしてついに運命の時になりました。

その子は井戸に落ちてしまったのです。

なんとか助けあげましたが石垣で腹部に重傷を負い、その姿はとても痛ましいものでした。

ただただ苦しげに息をしているだけで、時間と共にその力が弱ってゆく。

私達ではどうすることも出来ませんでした。

せめて最期を看取りたかったのですが、珍しく家にいた父はそれを許してくれませんでした。

愛娘に死を見せたくないという父なりの愛情だったのでしょう。

私はその夜は布団の中で泣き続けることしかできませんでした。

翌朝。

父に猫はどうなったの、と問いかけてみましたが、厳しい顔つきでぐっと口を真一文字に閉じているだけで返事はありませんでした。

それが答えでした。

ああ、うちの子にさえならなかったらもっと幸せに生きられたかもしれない。

私は泣くだけでした。

ごめんね。

許してね。

心の中で何度もその子に謝りました。

父も無言で私を抱きしめ、小さな生命が逝ってしまったことの哀悼の念を捧げていたのだと思います。

生活の足しにと庭を畑にしていましたが、その塀の片隅に土の色の違うこんもりとした塚のような小山が出来ていました。

あの子のお墓だ。

今度生まれてくる時はお腹いっぱい食べさせてあげられるよね。

約束だよ。

あの日からすでに70年の日が過ぎました。

あの子には名前さえ付けてあげられませんでした。

本当にすまないことをしたと今でも思っています。

戦争という狂った時代が再び訪れることがないように祈るだけの毎日ですが、私の心の中ではあの子の思い出が消えることはありません。

せめてもの償いですから。

何十年も一緒にいた大好きだった猫の死 やせ細っていく姿に心が痛かった もう少し病気が早くわかっていればと…

私が猫に出会ったのは小学生一年生の時でした。

学校から帰ってきたら、小さい子猫がいました。

茶色のふわふわとした可愛い猫です。

どうやら、捨て猫だったみたいで、お父さんが拾って帰ってきて今日からお家で買うことになったみたいです。

私はとても嬉しくて、遊びに行くのにも、カゴに入れて連れて行ったり、友達に自慢したりとしていました。

茶色い猫をピカちゃんとつけて、可愛がっていました。

ピカは、人懐っこく、友達や、訪問者が来ても怖がる事なく、スリスリとしていました。

ピカと五年くらい過ごした後に、もう1匹猫がやってきて、とてもやきもちを焼いて大変だったのを今でも思い出します。

とても可愛いですよね。

なん年後かにはとても仲良しな2匹になってきてとても癒されました。

それから私も歳をとり、ピカも大きくなり、毎日一緒に寝て、お風呂にはいっていたら、お風呂場まで来てと、本当に懐いていて可愛かったです。

私が高校卒業後、結婚し子供が産まれてその子供がピカを叩いたりしても、怒らずにいてくれたピカでした。

そんな頃もうピカは15年!!
私的にももう長生きしてるなぁ~と思っていてでももっと長生きしてほしいなぁ~なんて思ってました。

そんなピカが、おかしくなりだしたのが亡くなる一年前、やけに、毎日吐くようになり、、おかしいと思い病院に連れて行くと、血液検査の結果もおかしくないし、歳をとっているからだろうと。

餌の量を減らしてみてくださいと言われました。

その通りにして、吐く量も少なくなり、やっぱり食べすぎか~なんていっていた、3ヶ月後に、またまえみたいに朝晩と、ご飯後吐くようになり、病院に行くと、おかしくないと、でもそっから、すぐに動かないくらいぐったりしていました。

もうこれは長くないのだろうと、思いました。

病院に連れて行くと、病気だということがわかり、短くないと言われました。

痩せほそり、見ているのが辛かったです。

亡くなる日私は、ピカ!と名前を呼んで、お出かけしていたら、その夕方になくなりました。

私はなぜあの時触らなかったのか?と、とても後悔して泣いて泣いてしました。

ピカを、骨にしにいって、持って帰ってきて、やっと、ピカは亡くなったんだな。

っと確信を持てたくらい、亡くなった事を信じれませんでした。

そっから時は経ちますがまた会えたらな~なんて思います。

何十年も一緒にいた、猫を亡くされた人の気持ちは飼っていた人にしかわからないと思います。

ペットだとしても、もう同じ家族でした。

でも、亡くなっても思い出はあるので今は写真をみたりして、気持ちは落ち着いています。

でも、ひとつだけ後悔していることはもっと病気が早く分かれば、長生きしていたんではないか?ということです。

渡米し14年共にすごした愛猫 トイレもできなくなり、動けなくなったので安楽死させてあげた 墓標をみるたび今でも思い出す

 うちの昔飼っていた猫のことです。

この猫は、メイクーンの雑種で、ものすごくふわふわした毛並みの茶色い猫でした。

この猫は、うちの大学でぶらぶらしていた、なんとも人懐っこい猫で、みんなから、”のぶこ”と呼ばれて、大学のいろんな人から愛されていた猫でした。

 当時、ぼくは大学を卒業したばかりだったのですが、来年の大学院に行くために一年、アルバイトかつ勉強という名目で、卒業した研究室に研究員として残っていました。

ある夜、仕事も終えて家に帰る途中で、自分の車に戻る途中でした。

何かが自分の車のタイヤの真横に佇んでいるのに気がついて、ハッとしました。

うちの大学は山の上にあったので、狸とかイノシシとか、たまに見かけていたので、一瞬、狸かと思いビクッとしました。

でも、すぐに、”みゃー”という、鳴き声を聞いて、のぶこであることに気がつきました。

少し、のどをぽみゅぽみゅしてあげた後、車のドアをあけて、車の中に入ると、のぶこが、ひょんっと僕の膝に乗ってきました。

あまりにもかわいくて、なんだかそのまま今日はうちでお泊まりさせてあげようと思い、なにげなしに車を発信させました。

 ひょんなことから、うちに来ることになったのぶこが、このまま僕とともにアメリカに渡ることになり、ワシントン、ミシガン、そしてペンシルバニア州に住むことになりました。

渡米後、約14年間、ぼくの家族とともに生活しました。

ものすごく人なつこい猫で、だれにでもすぐについていく浮気性な猫でしたが、いつでも家に帰る度に僕を迎えてくれた忠義のある猫でもありました。

そんなのぶこも、20歳をすぎて、毛並みも悪く、目も半分開かなくなっても、いつもプルプルしながらでも僕のもとにやってきた可愛い猫でした。

最後は、おトイレもできなくなり、動けなくなったため、安楽死させてあげました。

獣医で火葬して、その灰を家の裏庭に埋めました。

今でも、墓標を見るたびに、のぶ子を思い出します。

今があるのはネコのおかげ、お別れしても見守られている気がします

高校生の時に友人からネコをもらいました。

あまり動物が好きではない母を何とか説得し、無事に我が家へ迎えることができた時は本当に嬉しかったことを昨日のことのように覚えています。

ネコを飼ったことがなく、しかも子ネコを飼うとなると、ちゃんと育てられるか少々心配でしたが、エサのあげかたやトイレのしつけなどをしっかりと頭に叩き込み一生懸命に面倒をみました。

一生懸命かわいがると、ネコにも気持ちが伝わるのか、かなり人懐っこいネコに成長してくれました。

当時私は大学受験を控えていました。

毎日続く受験勉強に嫌気がさすこともありましたが、投げだすことはできません。

その理由の一つに、母との約束がありました。

それは、ネコを飼う条件として、受験勉強に集中し第一志望の大学に合格するという何とも厳しいものでした。

受験に失敗するとネコの立場が悪くなるような気がして、必死に頑張りました。

勉強していると、ネコが私の膝に乗ってきて休憩を入れるタイミングを教えてくれていました。

ネコのために頑張っていたつもりでしたが、頑張れたのは、ネコに見守られていたからだと思います。

大学に合格したころには、母もすっかりネコの虜になり、まさに我が家のアイドル的な存在となっていました。

その後、社会人になってからも試練があると「ネコのため」とこじつけのようですが自分を鼓舞してきました。

そんなある日、別れが突然やってきました。

朝、出社するときには元気だったネコが、帰宅すると亡くなっていたのです。

原因は心臓発作。

現実が全く受け入れられず、ただ泣くばかりでした。

通勤電車の中でも、知らず知らずのうちに涙が頬を伝っていることもありました。

オフィスでも涙があふれてきてトイレに駆け込んだこともありました。

何か病気のサインを見落としたのではないかと自分を責め深く落ち込んだ日々が続きました。

かなりの時間を要しましたが、ふとあの「ネコのために」という言葉が浮かんだのです。

私がいろいろなことを乗り越えられたのは、ネコのおかげ、いつまでもふさぎ込んでいてはネコに申し訳ないと思ったのです。

ネコを失った悲しみは消えませんが、前進すること、困難を乗り越えることを思い出しました。

これも、ネコのおかげだと思っています。

カニカマの与えすぎがよくなかった 弟のように可愛がっていた愛猫の腎臓病での死

猫のふみまろと出会ったのは5年くらい前の10月くらい。

まだちっちゃい子猫でうちの庭に入ってきた。

大体の猫は人が寄ってきたら逃げるんだけどふみまろは逃げなかった。

カニカマで確保できた。

ちょろいかわいい。

それからお風呂とかで身体洗ってお迎えして、100均とかでおもちゃいっぱい買ったりしていっぱい遊んだ。

1年位で見向きもしなくなったけど。

庭が広いのでよく外に遊びに出て喧嘩もよくするようなやんちゃ坊主だった。

怪我も多かった。

師匠のような猫から喧嘩を教わっていたんだろうってわかったのは結構経ってから。

ふみまろがいるときは庭に結構いろんな猫が遊びにきたり彼女みたいなかわいい猫もいっぱい遊びにきてて見てて楽しかった。

自分の子じゃない子猫の世話とかもよくしてたみたいでよく外に出てた。

鳴き声はカラスみたいでやかましかったけれどもトイレのしつけもすんなりできてたしとにかく懐っこかった。

そしてカニカマがめちゃくちゃ好きだった。

それがよくなかった。

ついつい家族みんなしてカニカマをあげすぎていたせいで腎臓を悪くしてしまっていたみたい。

だから今年の夏に一気に具合が悪くなって、ご飯も食べなくなって、そのまま弱って眠るように亡くなってしまった。

今思えば死期は悟っていたのかもしれない。

死ぬ数週間前からやたらと可愛い仕草をするようになってなついてきていたから、精一杯自分は飼い猫だとアピールしているようだった。

まだ5歳。

もっとずっと長くいられるものだと思っていた。

正直今もつらいというか今が一番つらい。

寒い時期になるとよってきたあったかいもふもふした可愛い生き物がいない。

けれども最低でも1年は彼を偲び、喪に服すつもりだ。

また縁があるなら生まれ変わった彼に会いたい。

母のペットロスを解決してくれた?我が家を救う不思議な猫リレー

にゃ助は我が家にやってきた6代目の猫でした。

気性は穏やかで可愛い茶トラ猫。

産まれて間もなく野良の母猫とはぐれ、近所のお墓で助けを求めてミャーミャーと大きな声で鳴いてたのが出会いでした。

声を聞いた母猫が迎えに来るかもしれないから見守ろうと決めましたが、どうしても心配で何度も夜中に家族で様子を見に行った事を覚えています。

朝方になり声を聞いたカラスが集まってきたので、もう放ってはおけないと父が抱いて家まで連れてきました。

我が家はその半年前に飼っていた愛猫を亡くしたばかりでした。

その猫も同じく茶トラ猫でとても身体の大きい優しい猫でした。

1ヶ月程病み家族で看取りました。

母は亡くしてからしばらくしてから眩暈を訴えるようになり、どうやら世にいうペットレス症候群のようでした。

まさかとは思いながらも振り返れば当時私たち姉妹は高校生や社会人で外の世界へ出っぱなし。

専業主婦の母が昼間ずっと一緒に過ごしていたのが愛猫だったのです。

その存在がなくなった喪失感をいちばん感じるのは母であったのだと思います。

にゃ助はそんな家族、母の前に現れた救世主でした。

母は眩暈なんてどこへやら、にゃ助のお世話でまた日常を取り戻しました。

それから16年です。

家族に寄り添いにゃ助は我が家で暮らしてきた猫達の中でいちばんのご長寿長猫になりました。

家の建て替え、私の結婚、同居、出産。

家に赤ちゃんの居る生活。

様々な我が家の門出や変化を一緒に生き、いつも寄り添ってくれていました。

そんなにゃ助が去年亡くなりました。

16歳の大往生。

家族みんなで看取りました。

母はにゃ助を懐かしむことはあってももう悲しんだり眩暈を起こすことはありません。

今は家族と孫3人に囲まれて目まぐるしくも穏やかな毎日です。

我が家の歴代猫は全て野良猫か捨て猫です。

自ら家に迷い込んできたリ、近所で捨てられていて困っていたり、猫の方からやってくるのです。

私はそれを我が家の猫リレーと呼んでいます。

今は珍しく我が家には猫はいません。

穏やかに暮らす母を見ていると、もしかしたら猫が助けを求めて家に来るのではなく、我が家が助けて欲しい時に猫が来てくれるのかもしれません。

今度現れる猫はもしかしたら私にとっても救世主になるのかもしれません。

会える日を待っています。

クリスマスの夜に天国に行ったハリウッド産まれの野良猫 足音が空耳で何度も聞こえて 二度と猫は飼わないと思う

私の買っていた猫、ディちゃんはアメリカのハリウッド産まれの野良猫でした。

私がアメリカの大学を卒業し、やっと社会人になれて稼ぐことが出来るようになったので1匹里親を探している近所のおばさんからもらうことにしました。

それから15年後、彼氏はコロコロ変わりましたが(笑)いつまでもそばにいてくれたディちゃんは天国へ行ってしまいました。

日本に帰国が決まった時も日本国内で転勤になったときもいつも一緒に飛行機や新幹線、私の車に乗り、一緒に引っ越しをしてきました。

年に一度健康診断と予防接種をしていたのですが、ある日突然呼吸が苦しそうになりうっとうしいくらい食いしん坊のディちゃんが食事をしなくなったのでいつもの獣医さんへ連れて行くとなんと胸水が溜まっていて尋常ではない状態だと言われました。

おそらくリンパ腫ではないかとの診断でした。

私はこのころ出産後で1歳の娘の育児に必死であまり猫と赤ちゃんを接触させるのは良くないと思い全くディちゃんを構っていませんでした。

むしろ冷たくあたっていました。

こんな病気になったのはきっと私の飼い方のせいだと思いました。

それからしばらく、ディちゃんはステロイドを飲みつつ良くなったり悪くなったりを繰り返し半年後に亡くなりました。

私は懺悔の気持ちを持ちながら育児をしながらのギリギリの状態でディちゃんの通院をしていました。

せめてもと思い、ごはんはこれまで誕生日にしかあげていなかったマグロをできるだけあげました。

最後の血液検査のとき、痛いのが嫌いなディちゃんは体力もないのに私にこのとき初めて本気で噛みつきました。

そして「もう治療はいらないよ」って言っているんだなと悟りその後は何もせず自宅で看取りました。

アメリカ猫らしく、クリスマスの夜に天国に行ってしまいました。

その後、いつも後悔の気持ちでいっぱいで家ではディちゃんの足音が空耳で何度も聞こえてきました。

お風呂に入ると必ず泣けて来て辛い日々でした。

しばらくして友達が「ディちゃんが夢に出てきて、ごはんありがとう、遊ぶの楽しかったって伝えておいてって言ってた」と本当か嘘かわからないのですが言ってくれて、それを信じで私はなんとか許してもらえるかなと思えるようになりました。

今もディちゃんの形見をいつも鞄に入れて持ち歩いています。

私の猫はディちゃんだけなのでもう二度と猫は飼わないと思います。

同時期になくなった愛犬と愛猫 相棒がいなくなったショックだったのか、思い出すといまだに悲しくなる

私は以前、仲の良かった犬と猫を同じ時期に亡くしました。

今まで犬と猫を一緒に飼ったことがなく、仲良くなると思いもしなかったので、一緒に過ごすのはとても幸せでしたが、その分失くした悲しみは大きくて、しばらくは鬱病のようになっていました。

二匹を一緒に飼う前は、犬だけを飼っていたのですが、犬ゆ散歩させている途中で捨てられている子猫に出会いました。

出会った時から犬の方がすっかり子猫にメロメロで、とりあえず保護して病院に診てもらうことにしました。

初めは弱って目も見えていない子猫でしたが、世話をするうちにどんどん元気になり、綺麗な雌猫に成長しました。

犬はまるで宝物のように猫を大事にしていて、猫も犬のことが大好きでいつも一緒に過ごしていました。

そのため、初めは貰い手を見つけるつもりでしたが、我が家の一員として迎えることになりました。

飼い始めて2年経った頃から、元々年寄りだった犬の耳が聞こえにくくなったり、よく足をつまずくようになりました。

かかりつけの病院で、心臓も少し弱くなっていると指摘され、そろそろお別れの時が近いのかと覚悟するようになってきました。

しかし、ある時犬の方ではなく、まだ若い猫の様子がおかしくなり、病院に行ってみると、白血病にかかっていることが分かりました。

あまりに急なことで、私は強いショックを受けました。

猫の生命力にかけて治療しましたが、1ヶ月の闘病の末、息を引き取りました。

猫を亡くした後、犬は寂しそうに猫を探すそぶりを何度も見せ、見ているこちらが辛かったです。

それから2ヶ月後に、犬も持病の心臓が悪くなり倒れ、治療の甲斐なく亡くなりました。

猫を亡くした寂しさが犬の体に負担になったのではないかと、未だに悲しくなってしまいます。

12年過ごした愛猫の突然の死 1年近く受け入れることができなかった 1日1日を大切にしたいと実感

みなさま初めまして。

私は26歳の会社員です。

私が12年間ともに過ごした大切な家族の猫とのお別れの話です。

私がその大事な家族と出会ったのは、中学2年生の頃です。

私は小さいころから動物が大好きで、
週末は家族で動物園やお友達とペットショップへ行くのが楽しみでした。

それから何度も家族会議をし、
母も父も動物好きなこともあり

生後3か月の小さい子猫を家族として迎えいれました。

朝起きても、猫。

昼間の授業中も猫でいっぱい。

学校から帰っては、猫に直行。

家族で団らんをしている時
友達や、彼氏と喧嘩してつらい時
高校受験の時、
専門学校の試験の時、

思い返すと、いつも近くに猫がいました。

私が社会人になり2年目。

猫12歳の時
急に痙攣、嘔吐をして、そのまま亡くなってしまいました。

本当にいきなりの出来事でした。

急いで病院に駆け込みましたが、
私の願いは届きませんでした。

こんな急なお別れがあっていいわけがありますか。

昨日まではあんなに走り回って元気だったのに、
朝起きたときに、鈴の音がしない。

いつもいるお気に入りのソファにいない。

ご飯ちょうだいのニャーの声が聞こえない。

こんなに大好きなのに。

もういないんだ。

何度嘘であってほしいと思ったことか。

やり場のない気持ちでいっぱいでした。

ショックで立ち直れず、仕事を早退して帰ることが増えました。

その時母に言われたのが、

つらい、寂しいのはみんな同じ。

猫だけではなく、家族やあなた自身もいつかこの世から去る時がくる。

だからいつかまた会える。

恥ずかしくないように、しっかり頑張りなさい。

そんなこと分かってる。

でも受け入れることが出来なかった。

それから月日が経ち、
思い出として、笑って話せるようになったのは1年後のこと。

やっぱり時間しか解決してくれなかったです。

そりゃあ、今でもやっぱり寂しいですよ。

でもいつか会えると信じているので大丈夫。

あなたにもそう思える日が来ますよ。

ペットが教えてくれた命の尊さ、一日一日を大切に生きましょう。

小学生から12年間私を癒してくれた愛猫 腹水でなくなり10年間ペットを飼わなかったが今は欲しい気持ちで複雑

私が小学校1年生から高校3年生までの12年間飼っていた猫は腹水で苦しんで亡くなりました。

我が家に来た時、私の両親はとても仲が悪くて家庭は荒んでいたんです。

母親が家出をして帰ってこない時もあり、そんな時にオレンジ色のかわいい子猫を「飼ってくれないか」と親戚からもらったのがきっかけでお迎えをしました。

家の中はぐちゃぐちゃで、学校に行ってもいじめられて本当に生きることが辛かったあの時、私の心の支えは猫のミルクだけでした。

ミルクは猫なのに本当に人の気持ちが分かる子で、私が泣いている時は膝にのってペロペロとなめて慰めてくれたり、寝る時は必ず布団の中に入ってきて一緒に寝ていました。

食べ物を2人でわけあって食べたこともあったし、寒い冬は帰ってこないお母さんを待ってストーブのない部屋で暖めあったこともありました。

本当に思い入れが強く、ペットは家族だというと今よりも笑われて馬鹿にされていた時代だったので亡くなった時は理解してもらえず辛く苦しくご飯も食べれなくなってしまいました。

家の中がぐちゃぐちゃだったのでミルクも安心して過ごせなかったのだと思います。

ある時お腹が膨れてきているのに気づき、病院に連れて行くと末期で腹水があり、もって数日だといわれました。

亡くなる1日前に一度瞳孔が開き、このまま。

と思っていたのですがその後2日間手足を動かし散歩をするかのようにして息を引き取っていきました。

小さな命で私を一生懸命支えてくれたミルクを今でも思い返します。

私はその後10年ペットは飼いませんでした。

しかし最近気持ちも落ち着いてきてペットを飼いたいとも思います。

とても複雑な気持ちです。

外に飛び出し亡くなった愛猫 今は受け入れられるが、毎日泣いていた

物心がついた頃から家に猫がいた私にとって、猫は家族と同じでした。

外に遊びに行ったまま、1日でも戻ってこない猫がいれば、奈落の底に突き落とされたような感覚で、心配で何も手がつかないほどでした。

家では多くの猫が生まれ、最大で6匹の猫がいた時期もあります。

多くの猫を出産から死まで見送りましたが、一番衝撃が大きかったのは、10年飼っていたシャムのチコの死でした。

チコは道路で車にはねられたのです。

私の一番のお気に入りの猫でした。

私が幼稚園生の時、オスのシャムがいたので、父がつがいのメスの子猫を買ってきました。

それがチコでした。

チコは生涯たくさんの子猫を産み、他所の人にあげたり、家で飼ったりしているうちに、常時4匹の猫を飼うようになっていましたが、私にとってのナンバーワンはいつもチコでした。

チコは私たち家族には従順で人懐っこいのですが、他所の人には警戒心を持って接するとても賢い猫でした。

両親が車で帰ってくると、お迎えに車の前に飛び出してくるほどで、歩いて帰ってくる私を見つけると、屋根の上から「ニャーニャー」と鳴いてお迎えしてくれていました。

授乳中の子猫が居る時は、外部に対して徹底的に警戒して、散歩中の犬に飛びかかる、勇敢な母猫でした。

そんなチコが、ある日家の近くの道路を横断中に跳ねられて、あっけなくこの世を去りました。

私が中学生の時のことでした。

ずっと一緒に育ったチコが「いなくなった」現実に、涙が止まらず、毎日涙で枕を濡らし、腫れぼったい目で登校していました。

勉強など手につきません。

頭の中はチコでいっぱいです。

2週間ほどそんな日が続いたでしょうか。

徐々に「チコがいない事に慣れ」てきて、いつしか涙を流さなくなりました。

猫を飼うことは、とても楽しく、まるで兄弟姉妹のような感覚です。

性格が良く、賢い猫ならなおさら愛おしいものです。

愛する家族がある日突然いなれば、誰しも闇の世界に入ったような感覚になるのでは無いでしょうか。

心の傷が癒えるまでは異なる時間軸に生きてるような感じです。

「もう一回チコに会いたい」
最後に見たチコの姿を思い出します。

「あの時、窓を開けて外に行かせてゴメンね」
と謝りたい。

チコ以外にも、多くの猫を飼い、見送ってきましたが、別れはいつも辛いものです。

とはいえ、あまりにも悲しむと自分自身が苦しくて、日常生活に支障が出てしまうので、感情をコントロールする術を身につけました。

悲しいのは事実ですが、日中は考えないようにするなどの工夫で乗り越えるようにしています。

猫がいなくなっても、自分の日常は続きますし、続けなければいけません。

私たち人間も、いつかは死ぬのだし、運命は各々違います。

それを受け入れてある意味割り切るようにすると、自分自身がとても楽になります。

今でも時々猫を飼うことがあります。

引っ越した飼い主に置いてけぼりにされた猫や、道で拾った迷子の子猫などです。

残念ながら、不慮の事故や高齢であまり長く続かず、その度に悲しい思いをしていますが、チコの時のように悲しみにくれる事はありません。

年をとったせいもあるだろうし、自分の子供の方が優先順位が高いせいもあるでしょう。

猫が私の気持ちに占める比重が、子供の頃よりも低いことは事実です。

でも、悲しくて、いつでもどこでも涙が出てしまう気持ちは、痛いほどわかります。

自分がそうでしたから。

悲しみが薄れるのに、どれほどの時間がかかるかは、人それぞれでしょう。

その人の状況にもよりますが、いつまでも泣いている事が悪いとは思えません。

例えば、20年間ペットと暮らす独居老人だったら、心の拠り所をなくすかもしれません。

兄弟同然で育ったペットが死んだら、体の一部をもぎ取られるような気持ちになるでしょう。

流す涙の数が多いほど、その猫を愛している証拠なのですから。

原因不明でなくなった愛猫 ふさぎこみ写真ばかりみていたが、今は見守ってくれていると考えるように

旦那さんの職場で生後3ヶ月前後の子猫を拾いました。

旦那さんいわく子猫は5日前からいたそうです。

初めのうちは親猫が迎えに来るだろうと思いそのままにしていましたが親猫は迎えに来る様子は無く、子猫も動かなくなりうずくまっていたそうです。

子猫を保護してからだを洗ってやると、水が真っ赤に染まったそうです。

寒い日だったのでその日は少し身体を綺麗にしてご飯をあげてお部屋を作ってあげたそうです。

次の日に私は初めて子猫に出会いました。

体はノミだらけでピンセットで一匹ずつとっていきました。

その後どんどん大きくなって、私と旦那さんは猫の避妊手術について凄く悩みました。

自然が多い職場なのでこのまま野生を忘れないで自由に生活をさせるか、手術をして狭い部屋に閉じ込めて生活させるか悩んだ末、手術はしないで自由な生活をさせる事にさせました。

猫は自由で首輪もしない状態でしたが、旦那さんが職場に着くといつもお迎えをして犬のように聞き分けが良かったそうです。

自分の名前もわかるみたいで、名前を呼ぶとどこにいても出てきて顔を見せていました。

時々牛乳をあげてたのですが安い牛乳は飲まないで、高い牛乳しか飲まなかったです。

ある日夜遅く、猫の歩き方おかしく、旦那さんいわく職場の外では色々な農薬やネズミなどを殺す薬剤が沢山ある。

今日が山かも知れない。

動物病院に連れて行ったのですが原因が分からないと言われ点滴をやってもらったのですがそのまま天国へ行ってしまいました。

それから私は塞ぎ込み以前の猫の写真をいつも見ていました。

今は時が経ち、近くで見守ってくれていると考えるようになりました。

老衰でなくなった愛猫 思い出はいまも色あせることなく鮮明に 本当の家族だった

飼っていた猫が亡くなって、もう、6年ほど経ちます。

年月が経過しても、猫のミータと過ごした記憶は鮮明に思い出せますし、褪せることも不思議とありません。

それは、本当に家族だったからだと思います。

ミータと出会ったのは、私が小学生の頃です。

2つ年下の弟が土手で捨てられていた子猫を拾ってきたのが、ミータでした。

やせ細って、お腹も下し、目やにで目が開かない状態のミータを動物病院に連れて行ったのが始めでした。

それからは私の部屋にビニールシート・毛布を敷き、トイレの世話から、躾、すべて私がしました。

もともと、動物好きな家族みんな、すぐにミータを家族として認め、それから、長く長く一緒に過ごしました。

大人になった私が結婚し、お嫁入りする時も、子供が産まれてからも、ずっと一緒に過ごしてきました。

子供には、毛の生えたお兄ちゃんのように、ミータも側で見守り、家族でした。

それまで病気ひとつしたことのなかったミータが、ある夏の日、毛玉をはくことができず、くふう~くふう~と空咳をするようになりました。

その時点で、すでに20年以上生きたミータはかなりのおじいちゃん猫でしたので、病院に連れていったときは、「老衰ですね」と。

自分で毛玉を吐く力がなくなってきていました。

それでも、それからしばらくは食欲もあり、元気で、その年の冬に、朝から寝たままだったミータの体が冷たく硬くなり出しました。

意識があり、目からは涙が出ており、結婚した家族全員がミータの体に手を置き、「ありがとうね」と泣きながら、少しづつ、息ができなくなり、目を閉じ、亡くなるミータを見送りました。

しばらくして、家に戻った私を主人や子供たちは何も聞かず、迎えてくれました。

キッチンで声を我慢できず、泣きながら料理する私を誰も、何も言わず、そっとしておいてくれました。

すぐには、葬儀する決意ができず、2日ほどはミータを家族と過ごしました。

それから、骨となり、土へと還りました。

今でも、あの時のつらさを思い出すと又、新しいペットを飼う決断ができずにいます。

ペットは家族、本当にこの一言に尽きます。

彼がいてくれて、私の人生は温かいものになりましたし、彼を思う家族の絆で離れた家族も繋がっているような気もするのです。

老衰でなくなった愛猫 激やせ死に近づく姿に 胸に穴があいたような感覚に もっと清潔にできればと後悔

猫のヒマラヤンを小学校5年生の時から飼いはじめました。

ヒマラヤンといっても、真っ白ではなくちょっと狸のような顔をしたとても可愛い猫でした。

何かあると、すぐに家から飛び出そうとして何度も捜索することがありました。

それから、中学高校と学生時代を一緒に過ごすことができました。

亡くなったのは、高校3年生の時でした。

老衰による死亡でした。

時期は、12月の寒い時期で、もう寒さを乗り越えることができなかったのかと思います。

そのときは、何が起きたのか全く分からない状況でした。

何かが死ぬというのがまだ信じられない気持ちでした。

1週間くらい前から激やせして、もう死ぬのかもしれないと分かってはいたのですが、それでも、信じられない気持ちでいっぱいでした。

それから、何日かするといなくなったという実感がわき、寂しさがわいてきました。

とても寂しいなという気持ちになりました。

家族のように可愛がっていた猫がいなくなって、ぽっかり胸に穴が空いたようになってしまいました。

それから、1週間くらいは食欲もなく、食べ物が喉を通らなくなってしまいました。

後悔していることは、最後の方は、肌が荒れて破けてしまったので、もっと清潔にしてあげられたら良かったなと思いました。

ペットが亡くなってからの体調の変化は、1か月くらいは食事もあまりとることができずに、体重も減ってしまっていたのだと思います。

それから時間が経過するとともに、少しずつ戻ってきました。

突然死した愛猫 外へ遊びに出したほうがいいだろうと思ってだしたことを後悔

うちで飼っていた黒猫のナツを亡くした体験談です。

妹が、ツーリング中に山で出会ったっ子猫でした。

とても小さく親とはぐれてしまったようで、ジャケットの中に入れて連れて帰ってきました。

それはそれは可愛らしい小さな黒猫でした。

名前をナツと付け、マンションの5Fで飼いはじめました。

ナツは好奇心旺盛で、頭のいい猫でした。

外には出ることができないので、たまにベランダに出て遊びました。

小さいうちに人の手で育てられたせいか、自分は猫!という自覚が薄かったように思います。

朝になると、母はナツに「姉ちゃん起こして来て」といいます。

すると私の部屋に来て、顔に鼻を近づけ起こしてくれました。

いわゆる鼻チュです。

遊ぶのも大好きで遊ぼうアピールをしてきます。

外を眺めるのも大好きでした。

よく窓から、遠くの山並みを長い時間眺めていました。

無邪気なんだけど黒猫独特のどこかミステリアスな雰囲気がありました。

家族皆がナツの可愛さに虜でした。

私の学校卒業とともに引越すことが決まり、新居へ引越しました。

今度は、マンションの1階です。

当時室内飼いの猫は、一生室内飼いの方が良いと言う知識がなく、1階だったこともあり、自由に遊べるよう外へも出すようになりました。

好奇心旺盛だったナツは、毎日外へ遊びに行き、出たり入ったりしていました。

私も就職が決まり、あまり構ってやれなくなり、母が毎日家で面倒を見ていました。

ある朝会社に行こうとしていたら、となりの方がやって来て、「マンションの入口付近で猫ちゃんが倒れているのはお宅のねこちゃんじゃないかしら?」といわれ、あわてて見に行くとマンションの入り口階段を登ってる途中で、ナツが倒れていました。

息はなくでもまだほんのり暖かく…。

会社に入ったばかりだったので、母に託して会社に行きましたが、ナツは助かりませんでした。

獣医さんによると、畑に仕掛けてあるネズミ用の毒団子を食べたんじゃないか。

ということでした。

子猫で箱入り娘だったナツは、何も知らずに食べてしまったのでしょう。

苦しく朦朧としながらも家まで戻ろうとしていたことが伺えて、たまらなく、切なさと申し訳なさと、悲しさとでしばらく立ち直れなかったです。

今でも可哀想なことをしたと思い出すと胸が締め付けられます。

今でも窓の外をずーっと眺めていたナツの黒く美しい姿を思い出します。

乳がんでなくなった愛猫 不妊手術はしなくていいものと思いこんでいたことに…

今から約9年前、
東日本大震災が起こる前でした。

14年間一緒に暮らしてきた
愛猫が亡くなりました。

悪性乳腺腫瘍、
つまり
乳がんでした。

この原因は、
不妊手術をしていれば
約9割がたは
防げたということです。

今の時代、
ネットが発達して
わからない事が
あれば、
大抵のことは
教えてくれる、
良い時代になったと
思います。

一昔前
私は、ネットの環境に
いませんでした。

私は無知でした。

この子の体を
傷つけたくない、
痛い思いさせたくない、
室内飼いで
外にはさないから、
不妊手術はしなくて
大丈夫、
など、自己判断して
しまいました。

私は幾度となく
引っ越しを繰り返して
いました。

そのたびに
新しい動物病院に
連れていき
定期的に
健康診断を
してもらっていました。

動物病院の先生は、
私がこの子に
不妊手術を施して
いた、と思い込み
不妊手術の有無を
聞いてくれませんでした。

動物病院の先生のせいに
するわけではないですが、
一言聞いてほしかったです。

私はその子を
自分の娘のように思い、
亡くなった今でも
とても愛しています。

知人から
ちょうど、母猫から
見捨てられて
人間が育てている
子猫がいるよ、
と話しがあり
その子猫を引き取ったのが
始まりでした。

14年という歳月、
私の生活自体
穏やかに過ごしてきた
というわけではなくて、
楽しいことよりも
苦しいことの方が
多い時期でした。

誰にも話せないことも、
この子に話すと、
いつも解決策が見えて
問題をクリアして
きました。

私に答えを
教えてくれるのです。

とても頭の良い子でした。

最期、
ペット霊園で
個別葬儀を
してもらいました。

そのお骨は、
今も家の
リビングにいます。

ずっと私のそばに
置いておきます。

私の最期が来た時に
私の骨と
一緒にしてもらおうと
思っています。

 

15年いっしょに過ごした愛猫の死 悲しみにくれる日がながく続いた

15年いっしょに過ごした愛猫の死。

悲しみにくれる日がながく続いた。

私が大学生のとき、通学途中のお店屋の前で一つのダンボールに入ったかわいい子猫が泣いていました。

私は、小さくて小さくて壊れてしまいそうなかわいい子猫、か細い鳴き声を聞いてそのまま掘ってくことができなくて、自分のカバンに入れて電車に乗せて家に連れて帰りました。

そして、家に連れて帰ると飼うことは反対されていろんな知人に声をかけたのですが、誰も引き取り手が見つからずに家で飼うことになったのです。

ペットを飼うことがほとんどした経験がなかったので、その時はうれしくてうれしくて1週間はまともに寝れずに過ごしました。

朝起きると、あのかわいい子猫が玄関にいることがうれしかったのです。

その名は、モモちゃんです。

雌猫だったので避妊に手術をしました。

おっとりしていて、一緒にいることで癒されました。

わたしは、自分の買っているモモちゃん以外の動物は触ることができません。

モモちゃんは、わたしになついていたのでまるで私の子ども、家族そのものでした。

ホントに頭が良くて、穏やかでかわいくて仕方がない日が続き、うちに15年くらい行きました。

亡くなる数年前から、目が見えなくなり、ほとんど動かない状態になったのです。

エサも今まで硬いキャットフードを食べていたのですがそれも無理になり、歯が弱っているのかかみ砕く力も低下してたので柔らかい缶詰のモンプチを食べさせていました。

冬になると寒いので、電気あんかを使って温めたりしていましたが、年をとると人間と同じように静かに息を引き取りました。

十数年一緒に暮らしてきた私のかわいいモモちゃん、火葬したときは寂しさでいっぱいでした。

骨がとても小さくて細くてあのやさしいモモちゃんはもういないのです。

悲しみに暮れる日々がその後当分抜けなくて、何もしたくない日々が続きました。

腎不全でなくなった愛猫 病気に気が付かなかったことに後悔 一度でいいかも会いたい

今から2年前に14年前から飼っていた猫のソアラが死にました。

ソアラは私が小学4年生の時にどうしても猫がほしくて誕生日プレゼントに親に買ってもらった大事な家族です。

死因は腎不全と猫が死ぬ原因がかなり多い病気だったのですが、なんでもっと病気にかかってることに早く気づかなかったのかと今でも後悔しています。

最初の異変は尿の量がいつもよりもかなり多いなと思っていた程度で不思議に思わなかったのですが本当はその症状は腎不全の第一症状と言われているみたいでこの時点で病院に連れていってあげていればまだ生きていた可能性があるのかなと思うと悔やんでも悔やみきれません。

そのうち食べ物を吐き出すようになり、流石におかしいと思って病院に連れて行ったときはもう手遅れでした。

末期腎不全と言われてしまい延命処置しかできないと言われもう頭が真っ白になった記憶があります。

自分も死んでしまいたいと思いました。

それほどショックが強かったです。

親にはいつか必ず寿命はくるもの、また新しい猫を飼えばいいと言われたのですがそうじゃないんです!

新しく飼ったとしてももうその子はソアラじゃない、全然違う猫だと思うと中々新しい子を飼う気がおこらないのです。

猫は好きです。

だから新しい子を飼いたいとは思ったりすることもあるのですが、ソアラの顔が浮かんできてどうしてもダメなんです。

もう1度だけ会いたい、会って幸せだったのかソアラに聞きたいです。

そうじゃないと前に進めない気がしてずっと後悔の渦にいるような気がします。

いつも腕の中で眠っていた愛猫 気がつくと涙がポロポロこぼれて

今から2年ほど前のとても暑い日に、生涯でこれほどまでに可愛いと思える猫を失くしました。

幼少の頃から猫は絶え間なく飼育していて身近で可愛い存在ですが、その猫は私にとって格別に可愛い存在でした。

私が20代前半の頃、自宅アパート周辺に突然うろうろと現れたのが出会いのきっかけです。

とても人懐っこい性格でしたが、イライラしてカーテンによじ登ったり癇癪を起こすこともある人間のような性格をした猫でした。

出会ってすぐに私は運命を感じて飼うことを決心しました。

近所の動物病院に連れて行くと先生に「シャム猫が入っているのかな、可愛いね」と褒められました。

元々お腹の調子が崩れやすい猫でした。

推定13年ほど生きましたが、高齢に差し掛かる頃には整腸剤などを混ぜてお腹の様子を見ながらご飯をあげていました。

わがままなでやんちゃな性格のこのメス猫に、呆れたり怒ったりすることもありましたがとても愛していました。

2年ほど前の春頃から急に食事を摂らなくなりました。

焦って少し高級な餌をあげると少しだけ食べました。

動物病院で血液検査をしたり点滴をしたり、免疫を高めるお薬を飲ませたりいろいろがんばりましたが息を引き取りました。

亡くなってしばらくは夜、気づくと涙がポロポロと流れることがありました。

夜はいつも私の腕の中で眠っていたからです。

亡くなってからも悲しいですが、正直なところ辛いのは調子が悪くなってから亡くなるまでだと思います。

良くなってほしい、どうすれば良くなるんだろうかと悩み、動物病院では似たような境遇の人と話をしてみたりもしました。

いつかは離れ離れになる、亡くなる日はどうしても来るということを自分の中で受け入れることができれば辛さから解放されるのかもしれません。

今大切なペットの寿命が近い人はとても辛い思いをしていると思います。

その子は、あなたと一緒に過ごせた日々を幸福な思い出としていつまでも忘れないと思います。

人懐っこい元ノラの愛猫 4年後亡くなるも、買った事がよかったのかどうか自問自答の日々

初めて飼ったペットは妹が拾ってきた子猫です。

当時私は24歳で、社会人になって一人暮らしをし始めたばかりした。

実家と私の住んでるマンションは同市内で自転車で20分程度の距離だったので、よく妹が遊びに来てたんです。

私はゲームが大好きで、それ目当てに妹が来てたって感じです。

合鍵も渡していましたし、仕事から帰ると妹がゲームをプレイしてる・・ってことが良くありました。

そんなある日、妹が猫を連れてきてたんです。

ウチへ来る途中で鳴いてる野良子猫がいて、可愛かったし連れてきた・・ということでした。

野良子猫って、大体警戒心が凄く強くて人間を避ける、もしくは人間に甘えて擦り寄ってくるかの2パターンです。

妹が連れてきた野良子猫は後者のタイプで、すごく妹に懐いていました。

私が呼ぶとすぐこちらに来てゴロゴロいいますし、ペット可のマンションだしこのまま飼うか・・というのがキッカケでした。

愛猫はトラと名づけて一緒に生活しました。

しかしトラは元々野良猫です。

外の広々とした空間を知ってます。

そんなトラにはマンションの室内(間取りはLDK)は狭かったんでしょうね。

事ある毎に外に出してくれ~出してくれ~と鳴かれました。

私の住んでる地域は都心部ですし、車もビュンビュン走っています。

今まで安全な自宅で平和な生活を送っていたトラがそんな所で生活出来るわけがありません。

他の野良猫と上手くコミュニケーションとれるかも心配です。

そこでいくら泣き喚いても外には出さないようにしてたんですよね。

たまに私が玄関ドアを開けた際に外に逃げられることはありましたけどね。

しかし私が危惧していた通り、体中怪我をして帰宅することもありました(恐らく他の野良猫にやられた)。

それでも外は好きらしく、トラは外に出してくれ~出してくれ~と鳴いてました。

こういうのでトラはストレスを過度に溜め込んでしまったんでしょう。

飼い出してから4年目にトラは亡くなりました。

私が仕事から帰ってきたら、トラはすでに冷たくなっていました。

前日に熱が出たり特別な体調不良とかもなかったので、自然死だと思います。

ただ私なりに感じてた死因は、ストレスによるものでは?ということです。

亡くなる半年前から元気はなくなってましたし鬱みたいな感じだったんですよね。

私はトラの為を思って自宅に閉じ込めていましたが、もし放し飼いにしていたらもっと長生き出来たのかな?

そう思って外に出していたら、もっと早く亡くなっていたかもしれない。

猫が車に轢かれてるのはよく見かけますし、私のしたことは間違ってなかった・・と自問自答を繰り返しました。

トラが亡くなってからの一週間は、何をするにもモチベーションが上がりませんでした。

時間は薬・・という言葉がありますけど、私はまさにそんな感じでしたね。

一ヶ月経過する頃にはかなり吹っ切れました。

ただトラの所持品(エサ皿やトイレ、トラ用おもちゃ等)を見掛ける度にふっとトラの事を思い出して物悲しくなったりとかはしました。

今はトラの所持品全部処分してしまってるのでこういうのはありませんけどね。

現在はペットを飼わず、普通に過ごしてます。

亡くなったペットに再び会えるとしたら、撫でてあげたいですね。

撫でるとシッポをピーンと立て、シッポ付近を撫でると足をモミモミさせて喜んだトラ。

喜んでるトラをもう1度見たいです。

動物病院の先生が太鼓判を押した元気な愛猫の旅立ち 眠るような最後だった

今年の5月、猫のマルが天国に旅立ちました。

21歳と3か月でした。

マルは、私が実家に戻った時に飼い始めた猫です。

初めてマルに会ったのはマルがまだ2か月の時。

私以外の家族はどちらかというと犬派だったのですが、マルと一緒に暮らしていくうちに、みんな猫が大好きになりました。

マルは、CMに出てくる猫のような愛嬌もなく、私の姿を見ては走って逃げていくような猫でしたが、仕事で失敗したり、恋愛がうまくいかなくて悲しんでいるときだけは、なぜか近くに来てずっと寄り添ってくれたり、人の気持ちが分かっているようなところがありました。

マルはずっと病気もせずに元気でよく食べる猫でした。

動物病院の先生からも、25歳ぐらいまでは大丈夫そうだね、と太鼓判を押してもらっていましたが、1年前、最もマルを可愛がっていた父が急死したころから、だんだん元気がなくなって痩せてきました。

それでも、焼き魚や鶏肉といった、マルの好物をたくさん食べさせて、しばらくは元気にしていたのですが、今年の2月、マルの21歳の誕生日を過ぎたころからめっきりご飯を食べられなくなってきました。

一日おきに動物病院に通い、点滴をしてもらう日々。

先が見えなくて、何よりもどんどん痩せていく姿を見るともうすぐ命の火が消えてしまうんだなと辛くなっていました。

マルの最期は、まさに眠るように、気づいたら冷たくなっていました。

火葬の帰りに動物病院に電話し、マルのことを報告しました。

先生が「最後は家族のみんなも病院に通ってくれて大変だったよね、だけど、マルちゃんもそのことをうれしく思って、少しでも生きなきゃってがんばってくれたんだと思うよ」と、声をかけてくれました。

先生も少し涙ぐんでいるようでした。

マルが眠るように、まったく苦しんだ様子もなく旅立っていったのは、確かに先生の言うように、私たちを悲しませないよう、マルががんばってくれたのかなと今は思っています。

腎臓病で亡くなった愛猫 後悔から心療内科に通うように 苦しかったが3年目からはすこしずつ笑えるようになった

4年前にマンチカンのユメが亡くなりました。

腎臓病が原因です。

私の家族はみんな動物が大好きなので、小さな頃から犬を飼っていました。

犬が一番可愛いと思っていたのですが、友人が猫を飼っていてだんだん猫にも興味を持つようになったんです。

社会人になってから、初めて猫を飼ったんです。

それがユメです。

ずっと猫との生活はどんな感じだろうと思っていたんですよね。

ユメは陽気で好奇心が強くとても可愛い猫でした。

ユメが亡くなってからはずいぶん自分を責めました。

腎臓病に早く気づくことができなかったんです。

かなり悪化してから動物病院へ。

腎臓病だと言われて本当に驚きました。

確かにおかしいなと思うことはあったんです。

水をたくさん飲むようになったり、食欲がなかったりなど。

ユメが亡くなってからは、楽しかった仕事も友人と出かけることも嫌いになりました。

何をしてもユメのことが頭から離れず、もっと早くに気づいてあげていたら・・と思ってしまうのです。

夜に眠れなくなり、心療内科で安定剤や睡眠薬などをもらって過ごすようになりました。

猫が亡くなった友人達と話をして、一緒に泣いて悲しみました。

ユメが亡くなって2年ぐらいは毎日のように泣いて元気が出ませんでしたが、3年目から少しずつ笑えるようになりました。

でも、今でもマンチカンを見ると泣いてしまいます。

友人から泣きたい時は泣いていいと思うと言われて、心が楽になりました。

私はユメを思って泣くことを我慢していません。

でも、泣いた後はユメに「天国で会えるよね」と心でつぶやき、前向きに仕事に取り組むようにしています。

愛猫が腎臓病でなくなり持病が悪化退職し自宅療養中 会えたなら「楽しかった」と伝えたい

愛猫が亡くなって苦しんだ体験談
我が家に愛猫の「うり」がやってきたのは、私が高校1年生の夏前のことでした。

気の強い雌猫で、先住の1歳年上の雄猫に初対面でシャーっと威圧していました。

その後は私たちが目を離した隙に箸を口内に刺して床が血まみれになっていたり、3階の庭から地上に転落して脳震盪を起こしたりとひやひやする出来事ばかりでした。

幸い大事には至らなかったけれどとてもやんちゃな猫でした。

そんなうりが体調を大きく崩したのは去年の夏前のことでした。

おしっこの匂いが強くなったり、うんちやおしっこをトイレ以外の場所でしてしまったり、家の外で迷子になってしまったりしました。

また食べるのが大好きなうりが食欲不振になったのもこの頃でした。

対策としてフードを替えたり、おかゆを作ったりしましたが、良くならず。

病院嫌いなうりを病院に連れて行く決意をしました。

いつもの病院だと先生に嫌がられると思い、自宅近くの動物病院に連れて行きました。

すると、うりの様子が一変して病院の先生に甘えていました。

こんなことならもっと早くこの病院に連れて行けばよかった…と思いました。

検査の結果、腎臓病の末期でした。

水分補給の為の点滴をしてもらい、「今日が山場です」と言われました。

家に帰ってからも水分補給をしましたが、嘔吐やお漏らしを繰り返すうり。

その姿を見るのがだんだん辛くなり、疲れて、うりに「お膝に来る?」と言うと嬉しそうに膝に乗り、膝から降りた直後にお漏らしをしていました。

その後もよく頑張ってくれましたが、病院に行った翌々日の午前3時に亡くなりました。

うりの死後、私はそのショックと持病の薬を飲めなくなったことによる病気の再発で2度入院し、仕事を退職しました。

現在はだいぶ良くなりましたが、自宅で療養中です。

もし、うりとまた会えることがあったら、「我が家に来てくれてありがとう。

最期は苦しかったと思うけどよく頑張ったね。

毎日楽しかったよ」と伝えたいです。

最後まで読んで下さりありがとうございました。

近所のアイドルだった愛猫 白血病でなくなり、悲しみでペットロスに 虹の橋をみて3ヵ月後回復

我が家では、小さい頃から猫を飼っていました。

命をお金で買うなということで、ペットショップで購入するのは、祖父が大反対だったので、捨て猫や子猫が生まれたらもらってきて育てていました。

家に、動物がいると、少しでも明るくなるんですね。

子供とも、また違う感じで。

我が家の愛猫は、本当に人懐こい猫でした。

完全室内飼いではなく、捨て猫だったので、外にも出すようにしていました。

近所の人が「今日も遊びに来てたよ」って言ってくれるくらいの猫でしたので、近所でもアイドル的な動物でした。

猫に、白血病があることは知りませんでした。

ワクチンを打っていれば、大丈夫だと病気にならないと思っていたんですけど、そうではなかったのです。

嘔吐をしていたので、動物病院に連れて行くと、白血病でした。

人間ですと、化学療法や移植などで、寛解までいけるレベルですけど、猫は別物です。

輸血などをするとかの処置は出来ますけど、人間ほどではありません。

自然治癒もありえるらしいのですけど、我が家の猫は、病には勝てませんでした。

発病から二年目で他界しました。

猫って、こっそりと飼い主に死ぬ姿を見せないで死ぬと言うじゃないですか?我が家の猫も、そんな感じで、家の端の方に行き、そっと他界しました。

猫の本能、希望じゃないですけど、抱っこしながら天国に送ることも考えましたけど、それじゃない方が良いのかなと思いました。

けど、それがいけなかったのか、ペットロスになってしまって、時間を見つけては、お墓に行き、大号泣。

本当は、飼い主の胸に抱かれながら逝きたかったのではないかという後悔を続けていました。

食欲もなくなり、それまで使っていた猫ちゃんのグッズが捨てられないで、タオルとかもたまに洗って、元の場所に戻してとやっていました。

そんな時に、友人から「虹の橋」という詩を見せてもらい、友人からも天国で穏やかに暮らしているから、飼い主が泣いていてはダメだと言われて、すぐに回復はしませんでしたけど、3か月くらいでペットロスから立ち直ることが出来ました。

言葉で意思疎通が出来ないからこそ、難しいなと思いました。

家出し事故死した愛猫 たましいがお別れをいいにきた気がした ポスター越しに語りかけてくる姿にはじめて涙した

私が小学生だった頃の話です。

当時は、道で捨て猫や捨て犬に遭遇するのが珍しくない時代でした。

近所を歩いていると、黒い子猫が捨てられていました。

そんなに動物が好きでもなかったので、いつもならばあまり気にせずに通り過ぎますが、何となくその猫が気になってしまい、うちに連れて帰っていきました。

母親からは、強く反対されるわけでもなく、そのままうちで世話をすることになりました。

その猫は、クロと呼んでいたと思います。

捨て猫らしく痩せていて、クロと呼ぶにはなんだか疑問があるような毛色で、汚れた毛でした。

紫のスプレーインクでいたずらされたような汚れでした。

それでもその猫は愛らしく良く懐き、小学生の私はその子をとてもかわいがっていました。

部屋には、小学校の保健室からもらってきた可愛らしいキレイな黒猫のポスターを貼ったりして、一気に愛猫家モードでした。

一緒に布団で寝たり、なでなでしたり…そんな日が数日すぎました。

しかし、お別れはすぐにやってきました。

いつものように小学校から帰宅した私は、クロがいないことに気が付きました。

家じゅう探しましたが居ません。

すると、近所に住んでいた叔母がやってきて言いました。

「ごめんね。

おばちゃんが帰るとき、玄関の扉すこし開いてたみたいなの」クロはそこから逃げたのでした。

私は、目の前が真っ暗になりました。

ただ、叔母を責めたりはできませんでした。

責めても仕方ないと思ったのでしょう。

すぐに、外を探しましたが、クロは見つかりませんでした。

夜になり、母親が仕事から帰宅しました。

クロがいなくなったことは、電話で話していました。

家に入る母は、慌てていました。

「家の前でネコがひかれてる。

一緒に来て!」
私は、暗い夜道ですでに死んでいる猫を確認しました。

クロでした。

責任を持つのは私だ。

気丈にしていなければいけない、と思い、涙も出ませんでした。

でも、やっぱり、死んじゃったのか、と、残念な気持ちでした。

慌てて涙している母が「片づけなきゃね…」と私にどうにかして欲しそうでした。

私は、家にあった段ボールにクロを入れて持ち上げました。

その時、目の前を透けているような白い猫が横切りました。

とっさに「クロだ!」と思いました。

追いかけましたがどこかに行ってしまいました。

クロが私にお礼を言っていたように感じてなりませんでした。

「拾ってくれてありがとう。

かわいがってくれてありがとう。

片づけてくれてありがとう」と。

自分の部屋に帰ると、黒猫のポスターが愛らしくこちらを見ていました。

かなしくて、辛かったです。

しばらくそのポスターを眺め、はじめてそこで涙したのを覚えています。

愛猫との永遠の別離でいまだ癒されず、子供が飼いたいといった時を想像するのが怖い

私が小学校6年生の時の話です。

当時我が家には茶トラのトラちゃんという猫を飼っていました。

もともと野良猫だったのですが、1年生の頃、私が拾ってきて以来、家族の一員として生活してきました。

しかし私が6年生になる頃には衰えてきて、あまり外に出なくなり、ウチにいて寝てることが多くなりました。

そして、夏前には食べた物を吐いたり、下痢をしたりして、徐々に痩せて、衰えていきました。

当時の私は心配していましたが、まさか命に関わるとは思っておらず、全く心の準備ができていませんでした。

そして、8月6日のことでした。

夏休みの出校日で、学校から帰ると玄関で、トラちゃんが丸くなっていました。

抱き上げると、トラちゃんはぐったりしておしっこを漏らしていました。

直感的にダメだと思いました。

それから先の記憶はありません。

これから先は母に聴いた話です。

泣きながら母のパート先に電話をして、母に帰って来てもらってから1日中泣いていたそうです。

その後一週間ほどウチに引き込もって外には出なかったそうです。

ご飯もあまり食べず、両親が無理矢理食べさせていたそうです。

ようやく外に出るようになっても、どこかボンヤリしていて、完全に立ち直ったは、それから更に1ヶ月ほど経った頃だそうです。

その当時、まだ家族との離別の経験がなく、免疫がなかったので、余計にショックだったのだと思います。

一人っ子だった私にとっては、初めての面倒を見てやらないといけない存在でした。

子どもを持って分かったのですが、子どもを気遣うような感覚だったと思います。

今でもトラちゃんを見付けた時の事を思い出すと、胸が圧迫されるような
苦しさを感じます。

家族との離別は経験していますが、そこまでの苦しさを感じることはありません。

やはりまだ消化できてないのかもしれません。

それ以降、動物は何も飼いませんでした。

今後子どもが何か飼いたいと言った時に、何と言って良いのかも分かりません。

ペットを通して学ぶことはたくさんありますが、離別のショックは大きいです。

それを子どもが受け止められか不安ですし、私自身が受け止められるか自信がありません。

情けないかもしれませんが、私の今の素直な気持ちです。

愛猫の腎不全での旅立ち 人生ではじめの絶望 涙がとまず制御できない感情 10年後の今は楽しい思い出に…

10年前に、8年間家族として生活を共にしてきた愛猫(クロ)が腎不全で旅立ちました。

病気が発覚してわずか3カ月後の出来事です。

治療をすればあと数年は大丈夫と信じていたので、私にとっては想定外のお別れとなりました。

人生でいろんな失敗や人との別れを経験してきましたが、クロとの別れでは、初めて絶望という感情を経験しました。

亡くなった時もショックは大きかったですが、1番堪えたのが火葬をして遺骨となり、姿形が目の前から消えてしまったことでした。

数日前には生きていたのに、今ではもう二度と会えない、現生にはクロがいないというのは、とても残酷な現実でした。

もしクロが亡くなったら、きっと私はボロボロになるなと思っていましたが、最初の数日~1週間は悲しくても、思っていたほどボロボロにはなりませんでした。

私って意外と強いんだと勘違いしたほどです。

でもそれは後からジワジワやってきました。

ある日突然クロがいない現実を突きつけられて、絶望という感情があふれ出し涙が止まらなくなるのです。

いい大人なのに情けないくらいの泣き方でした。

仕事で家から離れている時や、家族と過ごしている時は(悲しくなるだけなのでクロの話題は避けていたので)意外と普通に過ごせていたのですが、お風呂やトイレやベッドの中など一人の空間にいる時は、突然悲しみの感情が襲ってきて制御できないほどでした。

普通でいられる時と、そうではない時の感情の波が激しすぎて、このままだと壊れるんじゃないかと思ったほどです。

でも、そのたびに私が自分に言い聞かせてきたのは「この感情は仕方ない」ということでした。

だって愛猫が亡くなったのだから、ボロボロになるのは普通なのです。

逆に泣かない方がおかしいのです。

だからこの状況は仕方ないことなんだと言い聞かせて、泣きたい時は抑えることなく泣き続けて、感情を吐き出しました。

最初の2年は本当に大変でしたが、3年5年と月日が経っていくうちに、感情の波の感覚も長くなり、だいぶ落ち着いてきましたのを覚えています。

そして今年で10年です。

もう10年されど10年です。

思い出すと未だ泣いてしまう時もあるけど、あの時の絶望という感情はもうありません。

また会いたいなとか楽しかったな大好きだったよという、ただ愛しい気持ちの感情だけです。

ここまでになれるまで相当時間はかかるけど、いつかはそういう気持ちになれます。

だから今ペットロスで苦しんでいる人も、いつまでのその感情に襲われるわけではないことを信じて欲しいです。

HIVでなくなった愛猫 かわいそうな結末だったかもしれないが、一緒に成長してくれたことに感謝

私が、初めて猫を飼ったときの体験談です。

私は田舎町に生まれ、小さい頃から、野良猫や外をうろつくご近所の飼い猫たちに慣れていて、お家の庭に遊びに来た猫たちと遊ぶのが日課でした。

ある時、親戚のお宅で、可愛い子猫が生まれたとの電話が。

子猫を飼いたい気持ちが強くなっていた私は、どうしても子猫を飼いたいと家族に懇願し、了承を得て、はじめての子猫を迎えたのは小学5年生のときでした。

手のひらに乗る、ふわふわの白い猫。

「この子は兄弟猫の中で一番体が小さくて弱いからやめたほうがいいよ」と言われたのですが、「どうしても白猫がいい!」と言って、私は絶対に譲らなかった。

白い子猫の名前は、ミルクにしました。

ミルクは成長するにつれて、色んな表情を私達家族に見せてくれるようになり、いつしかなくてはならない大切な家族のメンバーになっていました。

時が経つに連れ、私も成長し、実家を離れたりしながら、どんどんミルクとも逢えない時間が多くなっていきました。

それでも、実家に帰れば、昔と変わらずに迎えてくれるミルクがとても愛おしかった。

そんな時に、ものすごく体調が悪そうなミルクを連れて、病院に連れて行ったら、猫のHIVにかかっていることが判明。

辛かっただろうに、頭に浮かぶ言葉は、何もできなくでごめんね、ばかり。

あんなにいつも一緒に過ごしてきたのに。

その時初めて、いなくなる日がいつか来る、その時がもうすぐ訪れるのかな、と初めて意識した瞬間でもあり、気持ちをどう処理したらいいのかわかりませんでした。

免疫不全にもなる病気ですから、最後は、体中にがん細胞もでき始め、とても可愛そうな結末だったかもしれません。

しかし、13年、よく生きてくれて、一緒に成長してくれたことに感謝の気持ちしかありません。

みるく、猫を好きにさせてくれてありがとう。

ずっと忘れないからね。

今、私は2匹の猫を飼っているよ。

あなたと過ごした日々を時に頭に浮かべながら、楽しい毎日を送っています。

やせ細ってなくなった愛猫 思い出すたびに夢をみるたびにせつなくなる

小学校2年生のときに、ヒマラヤンの猫を飼いました。

家の中で飼っていたのですが、いつも、家から出ようとしていてとても可愛がっていました。

それから12年が過ぎて、死んでしまいました。

朝、起きてみると、母親がヒマラヤンの猫を抱えて泣いていました。

そんな日がいつかは、やってくると知ってはいたのですが、いざやってくると何が何だかわからず、すぐに受け入れることはできませんでした。

家族が一人いなくなってしまったような思いです。

それから、1週間くらいは食事が喉を通らなくなるくらいショックで打ちひしがれてしまいました。

その時、思ったのは、ヒマラヤンの猫がどんどんとやせ細って弱っていくのを思い出しました。

もう死ぬときが近づいていた前兆だったのかもしれません。

それから、死ぬ直前に上げたバターをぺろぺろと舐めているのを思い出しました。

死ぬ最後に食べたバターは美味しかったかなと思い、また、せつなくなってしまいました。

現在は、引っ越して、引っ越し先の庭にヒマラヤンの猫の骨を埋めました。

その埋めたところには、木を植えて育てています。

その木は良く育っています。

今でも、よくそのヒマラヤンの猫の事を思い出します。

夢の中で会ったこともあります。

夢の中で会うとなんだかとても懐かしい気分になりました。

ヒマラヤンの猫は、よくいたずらをするいたずらっこでした。

だから、余計いなくなると、その穴は、大きく空いてしまった気分です。

でも、一緒に過ごせて本当に幸せでした。

野良猫を保護したものストレスで病気に 私が死なせたんじゃないかと後悔

昨年の1月に保護していた雄猫のジェイ君を亡くしました。

正直に言ってしまえは私が死なせてしまったと思っています。

前の年の秋に野良猫だったジェイ君を保護し
地域猫として外で過ごせるよう去勢手術をしていただきました。

保護した当初、家の中で過ごせるなら家猫にしたいと思ってトレーニングをし始めたのですがやはり生粋の野良ちゃん。

野性味あふれる子で抱っこは勿論触ることも出来なかったジェイ君。

せっせとお世話をしてコミュニケーションを図ろうとあれこれ試行錯誤しましたが彼が人間に心を開いてくれることは有りませんでした。

そしてこの家猫トレーニングが彼に重大な病気にかからせてしまう原因だったとは当時は思ってもみなかったのです。

狭い家の中で過ごすのは自由気ままに生きてきた彼に大変な負担を強いていたようです。

そのストレスが元で尿路結石が出来、私が気づくのが遅かったせいで獣医さんに見て頂いた時には血尿が出るほど進行してしまっていました。

獣医さんに適切な処置をして頂きほっとしたのもつかの間
翌日の夜、食事も水も取らずに息を引き取りました。

病気の発覚からあっという間に天国へ行ってしまったジェイ君。

まだ生まれて2年も経たない若い猫を私が死なせてしまったのです。

あれからずっとジェイ君の病状からすると彼はとても苦しかったんじゃないか?何か私に訴えていたんじゃないか?おせっかいにも自由な猫を人間が勝手に保護したんじゃないか。

と後悔してもしきれません。

この苦しみを私はずっと忘れてはいけないと思っています。

もう猫との別れを経験したくない でも消えそうな命に手を差し伸べるのも悪くないかも

10年程前になりますが、実家で16年共に暮らして来た愛猫を看取りました。

私が幼少期の頃、親の知人が連れてきた捨てられたオスの子猫を引き取ることになりました。

はじめは慣れない動物に抱っこするのも怖かった記憶がありますが、いつのまにか大切な弟のような存在になっていました。

元気な頃は一緒に走り回って遊び、兄弟のように共に育った愛猫と私。

こんな幸せな日々がいつまでも続けばいいなと、そう願っていました。

月日は流れ愛猫の白髪混じりになった毛に、ごわついた触り心地に、あまり動かなくなった身体に、老いを感じるようになりました。

段々と別れの時が近づいていることは理解していましたが、なぜかこのままずっと一緒に居られるような、そんな気持ちでいました。

そんなある日急に元気がなくなり、病院へつれていくと、獣医からもう長くないことを知らされました。

”どんなにつらくても最後まで沢山愛情を与え、絶対に息を引き取る瞬間まで、誰かがあの子の瞳に映るよう、近くにいてあげよう”家族でそう決めました。

亡くなる当日、すでに息も荒く動けなくなっていたはずなのに、その日は朝からのそのそと体を引きずり、仕事へ行く父の見送りをし、その後も他の家族一人一人にすり寄って来てくれました。

今までありがとう、ありがとう、そう言ってくれているようでした。

ペットとの別れは非常に耐え難いもので、もうこれで最後にしよう、そんな気持ちになる方が多いと思います。

実際に私自身もそうでしたが、結婚してから偶然にもまた子猫を拾いました。

”猫は毛皮を変えてまた飼い主の元へ戻ってくる”という話を聞きます。

もしかしてあの子が帰ってきたのかな?そんなことを考えながら、また新しい家族に沢山の愛情を注いでいます。

ガリガリにやせ細っていた身体はすっかり大きくたくましくなり、今も元気に駆け回って遊んでいます。

なくなる命もあれば救える命もあります。

別れを恐れて塞ぎ込んでいる方がいるとしたら、勇気を出してまた一歩踏み出し、その消えそうな命に手を差し伸べて頂けるといいなと願います。

うちの子になって幸せでしたか?20歳で亡くなった愛猫

「子猫を拾ったのだけど、うちに前からいる猫と相性が悪いの。

誰かもらってくれる人を探している」と友達が話してくれました。

我が家は動物を飼ったことがなく、父親は大の猫嫌いでしたので、話を聞いてくれるはずも迎え入れてくれるはずもありません。

そこで私は友人に「子猫を箱に入れて家の敷地に置いて」と頼みました。

敷地に入れば、安易に出すことはできないと思ったからです。

そして無理やり家の中に入れ、そのままうちの子にしてしまいました。

子猫が来て、我が家は明るくなりました。

毎日、どこかに傷をつけられたり、身体能力に驚いたり、人間の気持ちがわかっているのでは?と思ったり、とにかく仕草の全てがかわいくて、猫嫌いだった父も、朝食に鮭やアジが出ると、こっそりあげていたりしてました。

よく食べよく寝てよく遊び、猫は病気ひとつせず、20歳になりました。

歳をとって、さすがに寝ていることが多くなりましたが、元気で毛艶もよかったです。

しかし、日に日に尿の量が多くなり、熱中症で体が震え出したので慌てて病院に連れて行きました。

結果、点滴を打ってもらって熱中症は回復したのですが、腎臓が悪いとのこと。

飼い主として失格なのですが、猫の病気について全く知らず、また「うちの猫は病気しない」と過信していたので、びっくりしました。

その後、体調はどんどん悪くなりますが、猫の年齢もあり透析は耐えられないとのことで、皮下注射で輸液を毎日繰り返しました。

具合が悪いのに、毎日病院に連れて行くことは、猫にも飼い主にも相当ストレスです。

1ヶ月くらい経った頃、先生から「いつ治療をやめるかはあなた次第」と言われました。

寿命を私が決めるのです。

泣きながら考えました。

何も言わない猫にも「どうしたい?」と聞きました。

どうしたいかなんて全然わかりません。

生きてほしいけど、辛いままなら人間のエゴでは?と思いましたし、エゴでもいいからそばにいてほしいとも思いました。

本当にどうしたいかわかりませんでした。

猫はその間も細々と食事をしては吐き、を繰り返していました。

なんとか自力で食べてほしいと思い、好きなものをペースト状にしたりいろいろな工夫をしました。

それでも食べられない日が日に日に多くなっていきました。

そして3日間絶食して、突然かつお節をパクパク食べた後「もう満足」という顔をして猫がお皿を押しました。

そこでやっと私も「自力で食べられなくなったら治療をやめよう」と決意できました。

そこからは穏やかに自宅で家族と過ごしました。

2日後、夜中に1時間近く痙攣し、大きく息を吐いて亡くなりました。

21歳になる少し前でした。

猫を飼ってから、何かの時のためにと猫名義の貯金を毎月していました。

まだ40万以上あるのに使わないで逝ってしまいました。

どんな治療をしてもしなくても、後悔は残ります。

でも猫と過ごした楽しい日の方が圧倒的に多い。

たまには夢に出てこい。

ペットの出会いは平凡、しかし今も続くペットロス

私がこれまでに飼ったペットは、猫1匹です。

小学生から中学生の頃に飼っていました。

なぜ、猫を飼うことになったのかと言いますと、友達の家の猫が子猫を産んだからです。

友達の家にしましても、何匹も猫は飼えないとうことで、そのうちの1匹をうちが譲り受けることになったのです。

ですから、ペットの猫との出会いもとくにドラマティックなものではないのですよね。

しかし、出会いは平凡ながらもこのペットの猫とのおつきあいはわりと長く続きました。

血統書付きではなく、キレイな猫ではなかったのですが、しかしわりと長い付き合いでしたね。

小学2年生から中学2年生までの約6年間を生きていました。

そして、過剰に手をかけていたわけではないのですが、しかしペットロスは大きかったんです。

実は、ペットの猫との別れは「交通事故」だったんですよね。

一日に一回ぐらいは、外に離していたのですが、その時に車にはねられて死んだのです。

もちろん、ペットの猫が死んで悲しかったです。

しかし、家の外に出した私たち家族も悪いわけです。

ですから、うちの猫をはねた車のドライバーを犯人だと思ったり、そん人を探したりとかはしませんでした。

うちに落ち度があるわけですし。

むしろ、うちの猫をはねてしまったドライバーさんに申し訳ないぐらいのことを思いました。

それにうちの猫に関しても、それなりにいい人生だったんではないかなと思うので、深く悲しみにくれたりはしなかったのです。

ただし、それは猫が死んだ直後のことで。

実は私は、その後大きくペットロスを味わったのです。

なんというか、ふとした瞬間に「こうすればよかった」「ああすればよかった」とか、ペットの猫のことばかり考えてしまうのです。

また、猫は死んだはずなのに、猫グッズをネットで注文していたりと…、無意識のうちの怖い行動が増えていました。

後からじわじわくるというやつです。

そして今改めて、ペットって家族だったんだなーと思います。

生活の一部だったのだと思います。

もしかしたらまだペットロスは続いているのかもしれません。

こうして思い出してみても、なんだか心に穴が空いているように思いますもん。

猫と会えたこと、ペットに感謝していること、また会いたいと思うこと

私とその飼い猫は高校生の時の学校のからの帰り道でした。

雨の中ぴくりとも動かず倒れていたので、放っておけず、保護しました。

家につれて帰ると、両親は飼い主を探す間だけならとこの猫が家にいることを許してくれました。

でも、子猫の可愛さにみんなメロメロ。

我が家のペットとして迎えることになりました。

亡くなったのは、猫が12歳の時です。

とても元気で毛並みもよく、健康そのものだったので家族全員長生きするだろうと思っていました。

亡くなる前年の夏からとても食いしん坊だったのに、急に気に入った物しか食べなくなり、何だか元気がなさそうな日がちょこちょこありました。

秋には、1度病院に連れていきましたが特に悪いところは見当たらず。

あまり食べない、動かない日が続き冬には少し目に見えて痩せてしまいました。

実はその年の春から、私は仕事の完成で遠方に引っ越していました。

なかなか猫には会えない日には、家族に猫の様子を電話で聞いていました。

「そろそろ猫は長くないかも」と、翌年の1月に家族から連絡がきました。

食べ物もほとんど食べないそうです。

私は1週間後、急いで新幹線に乗り帰りました。

あんなに堂々とツヤツヤしていた猫が、ガリガリ毛並みもボサボサ、何だか変な匂いもしました。

私は猫用の栄養ドリンクのようなものを1日に何回もあげながら、3日間ずっと傍にいました。

すると今まで寝たきりでトイレもままならなかった猫が小走りしたり、外の景色を見に行ったり何だか気力が出てきた!と家族も喜んでいました。

でも私が家を後にしたあと、1週間もたたないうちに猫は亡くなりました。

猫は変化に弱いと聞きます。

あまり甘えに来なかった猫でしたが、お世話をしていた私が急に居なくなり、ストレスを感じていたのでしょうか。

すごく後悔しています。

もっと会いにくればよかった、地元でもっと仕事を探せば良かった、と。

寝れない日が続きました。

もう1度だけ会いたい、最後の半年は幸せだったのか?とは悲しくて考えたくもありませんが、今はその猫にとても感謝しています。

私も家族も毎日が本当に本当に楽しい日々でしたから。