はじめまして。動物全般大好きな40歳女性「もふもふ」です。知人にたくさんの真っ白な子犬が産まれ、見にお邪魔した際に「日曜大工で小屋を作ってあげるから飼ってみないか」と言われて一匹飼うことになったのが始まりでした。私が30歳の頃のことです。当時は親元に住んでいたためお散歩の時間もたっぷりあり、可愛い盛りの子犬ということもあってよく構ってあげていました。飼う時には親にも「責任を持って飼うから」と宣言し、手製の木の小屋を毎日覗いて撫でたり庭に放して遊ばせたりしました。しかし私が仕事で多忙になり、車出勤するようになってからは、犬小屋の前を通る機会も減り、帰宅も遅くなりあまり構ってあげていませんでした。お散歩も週に数度きり。あとは両親に任せきりになっていました。責任を持って飼うとあれほど宣言したのに…。今思えばなんと無責任だったのか、と思います。10年そんなことが続いたある日、年齢的に腎機能が下がり免疫が落ちていた飼い犬は、予防接種の甲斐なく、ついにフィラリアにかかってしまいました。病院では「もうトシなので、あまり長くはないでしょう」とのこと。できるだけ接点を持とうとしましたが、小屋から這い出てくるのもツラそうにみえて、私はつい目を逸らし気味になってしまいました。もっと時間の限り、これでもかというくらいに構ってあげるべきでした。そしてついに一ヶ月ほど経った休日の朝、親から亡くなったことを告げられました。私は社会人になってからあまり構ってあげられなかった後ろめたさから「ごめんね」という思いばかりで、遺骸を直視できず、無責任なことにほとんどの手続きを親に任せてしまいました。大きな生き物を飼ったのはこのときが初めて。死ぬときになって生き物を飼うことへの責任の大きさを痛感しました。でももう手遅れです。「私にはもうペットを飼う資格はない」と感じました。「可愛いから、欲しいから」という理由だけで飼ってしまったことも後悔しましたし、自分の都合のいい時にしか構ってあげていなかったことへ後悔の念しかありませんでした。街中でペットを見かけると後悔にさいなまれ、自分の罪の意識から目を逸らし続けていました。ですがご近所さんが白い子犬を飼ったとき、「少しうちのワンコの子供時代と似ている」と思いつつ構っているうちに、だんだんとトラウマがほどけていくような気がしました。その子犬が成犬になった今もずっと子犬時代と変わらない頻度で構い続けています。<可愛い時代だけでなく、子犬特有の愛らしさを失っても変わらない気持ちで接していきたい。自分のペットにしてあげられなかったことをたくさんそのワンちゃんにしてあげたい>。私の独りよがりな気持ちでしょうが、そうせずにはいられません。さまざまな後悔から、次のペットを飼うことをためらう人も多いことでしょう。ですが、「かつての反省を活かしてペットを飼うことができる」という自信がついたら、ふたたびペットを飼うのもいいかもしれません。私にはまだその自信がないので、その近所の白いワンちゃんを構うのみに留めていますが、なにせペットへの罪悪感やロスの哀しみをこのワンちゃんが癒してくれました。存在そのものに感謝したい思いです。
40歳女 近所のワンちゃんを構うことで回復したトラウマ
