いつも一緒

私が結婚を機に、ヨーロッパのとある国に移住したのが15年前。
文化や風習言語、考え方や物事に対する捉え方が全く異なる民族と接していくうちに戸惑いから恐怖に変わり、外出するのが億劫になっていました。
そんな中、心から分かりあえる女友達が欲しいと思っていた矢先、毎日通っていたペットショップの店頭で、あおむけになりながら柵をガジガジ齧っていたイングリッシュコッカースパニエルの女の子を見て、体に衝撃が走りました。
冷静になろうと一度お店の傍を離れるも、どうしても彼女の姿が頭から離れない。
そういえば夕方会議があって帰りが少し遅くなると言っていた主人に電話をかけ、会議が始まる少しの間だけワンコを見に来る時間はないか?と尋ねてみたところ、なんと偶然にも会議がキャンセルになったとのこと。夫婦で速攻彼女をお迎えしたのは言うまでもありません。

彼女との生活の始まりは、ワンコと初めて暮らす我々には悪戦苦闘したものでした。
こちらの国ではドックランのような柵で囲まれたワンコを遊ばせれる場所が街の至る所にあるのですが、
6~7カ月になった頃からか、遊んでいたボールをピットブルや、ドーベルマンといった彼女よりも体の大きい子に奪われても、勇敢に取り返しに行くような気の強いところがあり、何度もヒヤヒヤする場面に遭遇しました。
もちろん他のワンコとの喧嘩もありました。
喧嘩を止めようと、咄嗟に2匹の間に足を突っ込んでしまった私の内ももには、おそらく彼女の牙が当たったのであろう丸い傷がまだ残っています。
そんな血の気の多い若いころはあっという間に過ぎ、
マイペースな中年時代が過ぎ、
昔の彼女はどこへ…と言わんばかりの穏やかなシニアになり。
彼女はすっかり3か国語を理解し、私のかけがえのない人生のパートナーになっていました・・・。

その時が来たのは去年の秋。
春に13歳を迎えてから今まで以上に食事と健康に気を使い、病院を極端に嫌がるので、主治医に定期健診に来てもらっていたのですが、主治医の度重なるミスがあり、慌てて専門医に担ぎ込んだ時にはもう手の施しようのない脳腫瘍でした。
無理な治療を続けても、回復は見込めず、心臓も悪かったのでもう病院から出れないとの事。安楽死意外に彼女を苦しみから守ってあげれる選択が無く、夫婦で泣きながらお空に送ってあげました。

何処へ行くのも彼女といつも一緒でした。
海や山、彼女が大好きな川には、もう行っていないところが無い!っていうくらい色々行きました。
思えば朝市へ行くのも、家具を買いに行くのも、日用品を買いに行くのも、洋服を買いにいくのも、いつも一緒。
物の一つ一つに彼女と一緒に歩いた思い出があり、彼女が傍に居なくなった今、部屋中に彼女の幻影を見て、まだ涙してしまいます。

美しく素晴らしい思い出と、何より真実の愛を教えてくれた彼女に感謝をしていますが、まだ口に出してありがとうとは言えません。
口に出してしまうと、彼女が逝ってしまった事を認めてしまうようで心が張り裂けそうになるのです。

共に渡米し亡くなった2匹の愛猫

 米国在住歴18年になります。渡米した際に一緒に日本から猫を2匹連れてきました。名前は、はな、と、ひまわり。2匹とも日本の地を見ることなく、ここ、アメリカで亡くなりました。

 はなは、メイク―ンの雑種で、ふさふさとした毛を自慢げにいつも優雅に歩いていました。ものすごく人懐っこい猫で、だれにでもすりすりしていく猫でした。はなは、うちの大学でうろついていたいわゆる、野良ネコでした。そんなはなを、僕は大学卒業と同時に自分の家で飼うことにしました。

 ひまわりは、近所のおばちゃんからもらった子猫で、橙色の雑種でした。はなが、母親代わりをして、いつも二匹一緒に生活してました。はなと違って、ひまわりは、ものすごくシャイで、お客さんや、友達がうちに来ると、すぐに隠れてました。

 そんな二匹を、僕の米国での大学院進学のために、いっしょにアメリカに連れてきました。米国に来て、約10年がたったころ、ひまわりが、亡くなりました。死因は、獣医によると腎不全でした。最後は、がりがりに痩せてしまい、おトイレもできなくなり、亡くなる3週間ぐらいは、ずっとベットの近辺でおもらしをしていました。最後は、階段の上る途中で、亡くなってました。今でも思い出すと悲しくなります。

 はなは、その後、ひとりで生活してましたが、その5年後、老衰のため目も見えなくなり、ほとんど動かなくなりました。最後はあまりにもかわいそうだったので、獣医で、安楽死させてあげました。

 二人のお墓は、裏庭に作ってあげました。隣どうしに今も、二匹は一緒に眠ってます。一度だけ、寝ぼけていたのかもしれませんが、ひまわりを、夜中キッチンで見ました。ぼーっと橙色に輝いて、キッチンのテーブルの上に鎮座してました。はっと声をあげて、瞬きすると、もう、ひまわりは消えてました。

 まだ、僕の中で、次の猫を飼う気持ちにはなってませんが、また、いつか猫を飼いたいと思います。

愛犬の安楽死を選んだ自分の選択に、15年経った今も胸がいたい。

愛犬のシベリアンハスキー、ランを14年飼っていました。
最期を看取ってから15年がたちます。

生後3ヶ月で家にやって来た時は、スリッパよりも小さく、庭を掘り返したりリモコンを破壊したりやんちゃばかりしていました。

14歳のおばあちゃんになった頃、近所に住む姉夫婦に子供が産まれました。きっと家族皆の注意がそちらに向けられていたのでしょう。

寝ている時間が長くなったのも、単に年をとったせいだと思っていました。

焼きもちをやいてるのかもしれないね、と家族で笑っていた事を思い出します。愚かでした。

その後急激に食欲が落ちました。自力で立ち上がる事さえできなくなるまでは信じられないスピードでした。

急いで獣医にみせた時に言われた言葉は「もって明日か明後日でしょう」

なぜもっと早く気づいてあげられなかったのか、なぜすぐ獣医に連れて来なかったのかと自分を責めました。

「このままではとても苦しいし痛いと思いますが、どうされますか」

朦朧としながら苦しんだ体を強張らせているあの子を前に、私がとった手段は安楽死でした。

死ぬ瞬間までの数日間、こんなに苦しい思いをし続けるこの子を救う方法はそれしかないと思ったからです。

家族皆に見守られながら、薬が体に入った直後、全身の強張りがふっと和らいだ瞬間を今でも覚えています。

私は最期まであの子を見守る事から逃げた。自分が辛いからあの子を死なせた!そんな思いでいっぱいになり、申し訳なさ、自分勝手さにつぶされそうでした。何度も何度も謝りました。

正直15年たった今でも胸が痛いです。

けれども時間とともに、あの子が嬉しそうだったことや、一緒にあそんではしゃいだ事を思い出せるようになってきました。

今は後悔もありますが、感謝の気持ちが大きいです。

写真を見るたび、ビロードみたいな耳の柔らかさやふかふかのお腹のさわり心地を思い出し、ありがとね、と話しかけています。

ぜんぜん安楽死じゃなかった私の愛猫。見取り看護を選択しなかったことへの後悔。

もう20年以上前の話になります。
一緒に同棲していた彼はの仕事は不規則で夜勤が週に2回もありました。
だから日中に仕事をしていた私との生活はかなりすれ違いが多く、少し淋しく感じていました。

そんなある日、彼と散歩していた際にペットショップの前を通りかかりました。
そこには小さくてふわふわした白い毛のペルシャ猫の子猫がショーケースの中をよちよちと歩いていました。

その子猫を見ていたら、彼が自分の不在中に淋しくないようにとその子猫を突然その場で買ってプレゼントしてくれました。
それまで一度も猫を飼ったことがなかったのですが、すぐに猫の飼い方の本を買い勉強して、子猫を育てていきました。

私はその猫にリリーという名前をつけました。
ちょっと弱弱しい華奢なオス猫のリリーでしたが、いつの間にかすくすくと大きくなり、1年もすると立派で美しい毛並みの白いペルシャ猫へと成長しました。

リリーが1歳半になった時のことです。
突然トイレに行ってもなぜか尿がうまく出せないようで何度もトイレの周りをうろうろしたり、粗相をするようになりました。
何かおかしいと思い、すぐに私は獣医さんのところに連れて行きました。

獣医さんはリリーが尿路結石であるという診断を下しました。
幸い、手術で石を取ってもらうことができました。
手術後、1-2日後にはリリーは元気を取り戻し、以前のようにたくさん餌を食べて遊ぶようになりました。

病気が治って良かったと安心していたのですが、手術から1週間後、突然またリリーの様子がおかしくなり、ぐったりして元気がありません。
トイレは普通にできているのですが、まったく餌を食べず、目を閉じて暗い所に何時間も小さく固まっていました。

不安になった私は、再び獣医さんのところへリリーを連れて行きました。
そこで言われた病名は、伝染性腹膜炎でした。

実は、尿路結石で獣医さんのところに連れて行った時、私の前の人が獣医さんと話しているのが聞こえ、その方の猫が伝染性腹膜炎という病気であると知りました。
なんだか大変そうな病気でお気の毒だなと思っていたのですが、まさか自分の猫が同じ病気になるとは思っても見ませんでした。

獣医さんは毎回診察台を消毒液で拭いているようでしたが、今思えばその時に病院で感染したとしか思えません。
なぜなら、私はリリー1匹しか飼っていませんでしたし、室内飼いなので外で感染することは有り得ないからです。

私はこの病院を選んだことをひどく後悔しました。

その後、リリーは日に日に衰弱していき、何をあげても食べなくなってしまいました。
そして完全に元気がなく、ぐったりしていました。

どうしたらいいかと獣医さんに相談しました。
しかし、この病気は治らない病気で死を待つだけとなり、猫はずっと死ぬまで毎日苦しみ続けるので、安楽死も一つの選択であるとアドバイスされました。

すぐに決断できなかったのですが、苦しんでいる様子のリリーを毎日見ていて、死を待つだけのために苦しみ続けるのなら、安楽死の方がリリーにとってもいいという気持ちになってしまい、最終的に安楽死を選びました。

獣医さんの話では、注射で苦しまないから大丈夫との話で安らかに天国に行って欲しいと願っていたのですが、安楽死処置後にリリーを引き取りに行ったら、それはもう今まで見たこともないようなとても苦しそうな形相の死に顔でした。

その顔を見て、私は涙が止まりませんでした。
この獣医さんを否定するつもりはないですが、この病院を選んだこと、安楽死は苦しまないという言葉を信じて安楽死を選択してしまったこと、見取り看護という選択を考えなかったことなど、不運と自分の愚かさを悔やみました。

20年以上経つのに、リリーの壮絶な死に顔はずっと忘れられませんし、今でも思い出すと涙が溢れてきます。
安楽死は安易に選択すべきではありません。

また、私は獣医さんに対してこのことでクレームなどは一切出していませんが、動物病院の選択はとても大事であるとつくづく思い知らされました。
知り合いから評判を聞くなど情報収集をして良い病院を探すことは、こうした私とリリーのような不幸を避けることにもなるだろうと信じています。

リリーが亡くなってから10年ほど猫を飼うことができませんでしたが、寒い冬の夜空で途方に暮れていた子猫を拾ってから、再び猫を飼うようになりました。

幸い、その猫はほとんど大きな病気をしたことがなく、10歳を過ぎても元気です。
今はその猫にリリーの分まで愛情を注ぎ、大事にしています。

渡米し14年共にすごした愛猫。トイレもできなくなり、動けなくなったので安楽死させてあげた。墓標をみるたび今でも思い出す。

 うちの昔飼っていた猫のことです。この猫は、メイクーンの雑種で、ものすごくふわふわした毛並みの茶色い猫でした。この猫は、うちの大学でぶらぶらしていた、なんとも人懐っこい猫で、みんなから、”のぶこ”と呼ばれて、大学のいろんな人から愛されていた猫でした。

 当時、ぼくは大学を卒業したばかりだったのですが、来年の大学院に行くために一年、アルバイトかつ勉強という名目で、卒業した研究室に研究員として残っていました。ある夜、仕事も終えて家に帰る途中で、自分の車に戻る途中でした。何かが自分の車のタイヤの真横に佇んでいるのに気がついて、ハッとしました。うちの大学は山の上にあったので、狸とかイノシシとか、たまに見かけていたので、一瞬、狸かと思いビクッとしました。でも、すぐに、”みゃー”という、鳴き声を聞いて、のぶこであることに気がつきました。少し、のどをぽみゅぽみゅしてあげた後、車のドアをあけて、車の中に入ると、のぶこが、ひょんっと僕の膝に乗ってきました。あまりにもかわいくて、なんだかそのまま今日はうちでお泊まりさせてあげようと思い、なにげなしに車を発信させました。

 ひょんなことから、うちに来ることになったのぶこが、このまま僕とともにアメリカに渡ることになり、ワシントン、ミシガン、そしてペンシルバニア州に住むことになりました。渡米後、約14年間、ぼくの家族とともに生活しました。ものすごく人なつこい猫で、だれにでもすぐについていく浮気性な猫でしたが、いつでも家に帰る度に僕を迎えてくれた忠義のある猫でもありました。そんなのぶこも、20歳をすぎて、毛並みも悪く、目も半分開かなくなっても、いつもプルプルしながらでも僕のもとにやってきた可愛い猫でした。最後は、おトイレもできなくなり、動けなくなったため、安楽死させてあげました。獣医で火葬して、その灰を家の裏庭に埋めました。今でも、墓標を見るたびに、のぶ子を思い出します。

庭で出会ったインコ。人懐っこく飼う事に。ケガだと思ってたら病気で半年後別れ。セカンドオピニオンつけていればと後悔。

私が一匹のインコと出会ったのは、私が高校生の頃です。自宅の庭にインコが現れるようになったのです。最初は気にしなかったのですが、ずっと自宅の庭にいるので、扉を開けるとそのまま入ってきたのです。たぶん、飼われていたインコが逃げたのか、もしくは元の飼い主が飼えなくなり逃がしたのかもしれないです。とても人間に慣れていたのです。

鳥は飼ったことがなかったので、躊躇しましたが、凄く人懐こいのと、少し怪我をしていたので、家族会議の後でそのインコを飼うことにしたのです。

もちろん、元の飼い主が探している可能性もあるので、しばらくは飼い主探しをしていたのですが、現れなかったので私の自宅で飼うことになります。

飼う前から怪我をしていたインコです。すぐに動物病院へ連れていったのですが、怪我でなく病院であることが判明します。詳しい病名は忘れましたが、鳥がよくかかる病気で根本的な治療はなく、悪化すると死に至る可能性があるとは伝えられていたのです。

その不安は、飼い始めてたから半年すると出てきます。自宅内を飛べていたのが、飛べなくなります。食事の量も日に日に減っていきます。鳥が食事をしなくなると危機です。なんとか食べやすいように工夫をしましたが、どんどん弱体していきます。

ほぼ動けなくなるようになってからは、週に1度は動物病院へ通っていたましたが、獣医からは生き残れる可能性が少なかったのかあまり相手にされず悲しい思いをしたのを覚えています。

半年と半月が経った頃、そのインコは亡くなります。出来ることはやった気でいましたが、もっと他の動物病院へもセカンドオピニオンで連れていくべきだったと今では後悔しています。

我が家を選んでくれたのかは不明ですが、何か縁があり、我が家で住むことを選んだインコです。私達家族にすぐに懐いてくれましたし、癒しの存在です。

同じく悲しみにくれている人がいれば、ずっと悲しんでいるのはペットも悲しむと思います。もう飼うのが苦しいのであれば、ボランティアでも良いので鳥と関われることをすれば気持ちが救われます。

私も今は時間があれば、たまに犬猫以外で保護されたペットのシェルターへ行って支援をしています。

苦しみながらなくなった愛犬。安楽死をえらんだほうがよかったのか自問自答。

4年前に愛犬を亡くしました。

もう18歳だったので、亡くなる1年前から認知症のような症状が始まり、最後の方は、ほとんど寝たきりの状態になりました。

寝たきりの状態はかなり長く続きました。足をバタバタさせたり、夜中に苦しそうに鳴いたりして、こちらもどうしていいかわからず、ただ膝に抱いて撫でてやることしか出来ませんでした。見ているのもせつなく、あまりにも可哀そうだったので、獣医さんに相談すると、「安楽死」という選択肢もある、というようなことを言われ、とてもショックで傷つきました。

その時は、「まだ生きているのに、飼い主の勝手で死を選ぶなんて」と思い、そんな発言をした獣医さんを恨んだりしました。

結局、安定剤、睡眠薬や痛み止めなどで、なんとか症状を抑えながら、けれど、次第にその薬もあまり効かなくなって、愛犬は苦しみながら、亡くなってしまいました。

愛犬が亡くなった後は、とても悲しくて、仕事や家事も手につかない状態が長く続きました。他の犬が散歩をしているのを見ると、自然と愛犬を思い出し、涙が出ました。テレビなどで犬の特集をしていると、愛犬を思い出すので、極力見ないようにしていました。

あれから4年経ちます。時々、写真を眺めては、愛犬のことを思い出します。そして、私たちの選択が正しかったのかどうか、自問自答しています。

あの頃は、「安楽死」なんてとても考えられず、獣医さんを恨んだりしました。けれど、結局、私たちの選択は、愛犬を最期まで苦しませてしまいました。「本当は、獣医さんが正しかったのではないか?私たちは自分たちのエゴで、愛犬を苦しませたのではないか?」答えはわかりませんが、そんなことを考えると、今でも涙があふれてきます。

1年命が延びるはずが、1ヵ月で天国へいった愛犬。痛い手術は必要だったのか?

もともと、家には1匹2歳のミニチュアシュナウザーのももちゃんがいました。
その子はとてもおてんばで可愛かったのですが、お友達が欲しいのかなと思い、たまたま父の会社で同じ犬種を飼っている方に子犬が産まれるということでメスの子を譲っていただきました。
名前はまつ毛が長くぱっちりとした目がお花のようだったので「ハナ」と名付けました。

初めて我が家に来た時から、ももちゃんとすぐに仲良くなり遊ぶ時も寝るときも歩きだすタイミングも全て一緒なくらい仲良しで我が家は一層明るくなりました。

モモが12歳、ハナが10歳の時です。
ハナは前日、いつものように父のベットで寝ていました。朝になっていつも軽快にベットから飛び降りるハナがヘェヘェと舌を出して震えていました。
ハナを抱きかかえると触れないぐらい体温が熱く目はうつろでした。
田舎に暮らしているため休日に動物病院はあいてるわけもなく、とりあえず熱さましのまくらの上にのせ
なで続けました。
隣町の病院で応急処置をしてもらい、次の日いつもの病院へ。レントゲンをとってもらうと「肺がん」

もういつもの動物病院では見れないとのことで大学病院で入院することになりました。
私たちは普段ハナが寝ているときのイビキに癒されていたのですがこのイビキは病気の合図だったそうで全く考えもしませんでした。いつも元気に走り回っていたので「ぐっすりねている」そう思っていたのです。

大学病院では「うちに来たら安心、手術をすれば1か月の命を1年に延ばします」そう言われました。

1年でも一緒にいれたらそれまでに心の整理をつけて見送ってあげようと思いました。

しかし、
手術後1か月もしないうちにハナはガンが転移し天国へ旅立ちました。
私は仕事を終え、玄関で家族の泣き声が聞こえました。恐る恐る家に入ると生暖かいハナが横たわっていました。
私が仕事に出てる間に、ハナは息ができなくなり急いで病院に連れていくと「このまま生かしておくのはハナちゃんは辛いはず。楽にしてあげるほうがこの子の為です」

ハナは母と病院へ行ったときいつもの治療だと思い、診察台で母をじっと見つめていたそうです。
ですが先生が打った注射は安楽死用の注射。
ハナは診察台で横たわりました。私はその最期に立ち会うことができず家で号泣しました。

次の日午前のみの仕事で午後はハナのお葬式でした。
午前の仕事は全く身に入らず涙で全く仕事が手につかなかったことを覚えています。

あの時、ハナに痛い思いをさせてまで手術を受けさせたことは最善だったのか、
3年経った今でも悩んでいます。

そしてハナが死んで、ももちゃんは一気に老けました。グレーだった毛色は一気に白くなり寝てばっかりの
生活になりました。
ときどき寝ているのにワンワンと寝言で吠えているのです。
それを見てももちゃんへの心のケアも必要、私たちの寂しさも残ったまま。
気づいたらペットショップへ行き、ハナに似た同じ犬種の子を探していました。

そして我が家に新しい子犬が来ました。
ももちゃんは驚くほど元気になり、私たちも毎日ハナの話題はしつつも新しい子犬ナビちゃんに癒されています。

ナビという名前。

私たち家族は花火をみるのが大好きです。

ハナ
から名前をもらいナビに。

そしてナビという名前にはもう一つ由来が

ナビ=道しるべ

私たち家族、そしてももちゃん
家族全員の道しるべになってね。そんな意味を込めてナビという名前を付けました。

ハナが死んでから一度もハナを忘れたことはありません。毎日ハナの話をします。いつまでも姿は見えないけどももちゃんとナビと家で走り回っている。そんな感じをしながら家族に笑顔が戻りました。

愛犬の病死。安楽死を選択しなかった事に後悔。しかし時が癒してくれた。

7年前に飼っていたハナというダックスフンドの雑種を亡くしました。元々は、弟が神社の下で拾ってきた犬です。弟は可愛がっていましたが、結婚したため実家を離れなくてはならず、引き継いで私が面倒を見ることになりました。

私は面倒なので動物を飼うことが好きではありませんでしたが、残されたハナが少し不憫でしぶしぶ私の犬にしました。
毎日の餌やりや散歩は正直面倒でしたが、だんだんハナもわかってきたのか私を見ると嬉しそうに尻尾を振るようになりました。そんなハナが可愛くなってきて、毎日の散歩も嫌ではなくなってきました。

元々大人しい性格の犬だったので、穏やかな時間が一緒に持てる癒しの犬となっていました。

しかし、数年経った頃から散歩の様子がおかしくなり、病院に行ったところ心臓が悪いと言われました。
呼吸も苦しそうで、見ていて辛かったのですが、ある日獣医さんから安楽死も選択の一つと選択を迫られました。

薬もだましだまし餌に混ぜて飲ませたり、毎日さすったり、暖めてみたりできる事は一生懸命やっていましたから、安楽死は選べず、ハナを最後まで頑張らせてしまいました。
毎朝仕事に行くのが怖くて、仕事が終わると急いで帰りました。そしていよいよ亡くなる前日、家に帰ると、ハナが私のパジャマに包まれていました。ハナの様子の変化を見て、私がもう間に合わないと思ったようで、私の匂いの付いたものと咄嗟に考えたらしいです。本来動物が苦手で触ることすらできない母がパジャマでくるんでいたのを考えたら、本当に最後なんだと泣けてきました。
幸い次の日は日曜日だったので、一日中ハナの側にいれました。そして私に看取られて逝く事が出来ました。
母は、日曜日まで貴方を待って頑張ったんだよと言いました。

しばらくは、ハナのいつも居た場所を見るたびに悲しかったですが、時間とともに苦しさも和らいでいきました。
時ぐすりって本当だと思います。無理に忘れようとしても無駄です。逆に辛い。毎日の自分の生活を淡々とこなしていく内に少しずつ、和らぎます。悲しい時はそれで良いと思います。
必ず思い出しても、辛くなくなる時という日が必ずきます。
人間の仕組みはうまく出来ていると本当にその時思いました。
だから、今苦しい人もきっと大丈夫です。時間が、思い出に変えてくれます。