鳥が亡くなってペットロスになった体験談
4歳で亡くなったセキセイインコ、仕事の忙しさであまり構ってあげれなかった後悔
セキセイインコのぴーちゃんが亡くなったのは4歳の時でした。
突然、籠の中で冷たくなっていた姿を見たときは、目の前が真っ白になり、まるで時が止まったようでした。
ぴーちゃんが我が家にやってきたのはまだ幼い雛の時でした。
大学生だった私は講義の休憩の度に家に帰っては毎日スプーンで餌をあげました。
数ヶ月が達ち、すくすく育ったおてんば娘のぴーちゃんが空を飛ぼうと羽をバタバタさせ、飛んでは落ちを繰り返す時には床や壁にぶつからないかヒヤヒヤし、布団やクッションを敷き詰めたのを覚えています。
また、ぴーちゃんが私が不注意で開けていた窓から逃げ出してしまった時、あれほどヒヤヒヤしたことはありません。
しかし、ぴーちゃんは暫くすると窓から自分で我が家に戻ってきました。
私は安心と罪悪感で涙が止まりませんでした。
ぴーちゃんが4歳の年。
私は社会人1年目となり、初めての仕事や人間関係に日々疲労困憊。
毎日餌やりや部屋の掃除は欠かさずやっていましたが、中々ぴーちゃんと一緒に遊んであげたり、構ってあげることが難しくなってきました。
ある日家に帰ると、いつも私を迎えてくれる鳴き声がせず、おかしいなと思い籠を見ると、そこにはゲージの端で冷たくなっているぴーちゃんがいました。
一般的なセキセイインコの余命である5~10年より短い4年。
ぴーちゃんは亡くなりました。
忙しさにかまけず、もっと良く見てあげていれば、何か異変に気がつけていたのではないか。
病院などにも定期受診させてあげていればよかった。
私に飼われていなければもっと長生きできていたのではないか。
とかなり落ち込みました。
また、ぴーちゃんが平均寿命より短く亡くなってしまった負い目から当時はぴーちゃんが亡くなったことを人に話せず、悲しみを誰かに打ち明けることもできませんでした。
ぴーちゃんが亡くなって一年後久しぶりに会った大学の友達と話し、そこで初めて人に打ち明け「でもぴーちゃんはきっと幸せだったよ」と言われた時、涙が止まりませんでした。
今でも思い出すと気持ちが沈みますが、ぴーちゃんとの楽しかった日々も私の大切な思い出です。
悲しかったことも楽しかったことも、これからも大切な思い出として持ち続けていきたいです。
子供が動物アレルギーのため外で飼う事になったてんかんのダック 台風の日に庭の水たまりでなくなっていた 後悔が止まらない
約一年前の台風の日に、ダックは死んでしまいました。
その日はとても大きな台風がきており、風や雨がすさまじく家の中にいても怖いくらいでした。
普段、ダックは家の外で飼っていました。
台風の影響をうけないよう、屋外の大きな倉庫の中に小屋を移し、雨風をしのげるようにしました。
家の中に入れることも考えましたが、動物アレルギーの赤ちゃんがいるためあきらめました。
ダックはてんかんという病気を患っており、時々泡を吹いて倒れることがあります。
薬を飲ませ治療をしていましたが、治る見込みはないと言われていました。
子供が中々できず、辛い思いをして暮らしていた私をダックはいつも癒してくれていました。
子供ができるまでは、家の中で毎日一緒に暮らしていました。
何年もかかりやっと子供を授かったのですが、産まれた子供は動物アレルギーをもっており泣く泣くダックを外で飼い始めました。
今思えば後悔しかありません。
なぜてんかんを持っているダックを外に出してしまったのか。
台風の次の日、庭を見た私は息がとまるほどのショックをうけました。
倉庫の中にいたはずのダックが庭に倒れていたのです。
大きな水たまりの中にダックが沈んでいました。
なぜなぜどうしてこんなことに。
頭の中が真っ白になりダックの所へ走っていきました。
水たまりの中にいたダックは息をしていませんでした。
それからの事はよく覚えていません。
何日も何日もないて暮らしました。
ダックが死んでしまうなんて。
辛くて辛くて死にそうでした。
立ち直れない日が続きましたが、私が辛いときダックがいつも慰めてくれていたことを思い出しました。
私がこんなに泣いていてはダックが安心して天国に行くことができない、心配をかけてしまう。
死んでしまったダックに心配をかけたくない、安心して天国にいってほしいと強く思うようになりました。
大好きな飼い主が悲しんでいる姿はみたくないと思います。
たかがペットと思われるかもしれませんが、ペットを飼っている方からすると、家族が亡くなるのと同じくらい辛いのです。
すぐには立ち直れないと思いますが、大好きなペットは飼い主の幸せを願っていると思います。
笑って暮らすことが、ペットへの一番の供養になるのではないのでしょうか。
すこしそばを離れた瞬間、野良猫に襲われ姿を消したインコ 自分のせいだと激しく後悔
ピーちゃんがいなくなったあの冬。
インコのピーちゃんは初めて我が家にきたペットでした。
アパート住まいだったため、犬や猫は飼えず、ずっとペットが欲しいと願っていました。
その願いが届いたのか従妹が飼っていたインコを譲り受けることになりました。
我が家はひとたびにぎやかになりました。
何年も大切に育てていた時、遠くにいる祖父母の家に遊びに行くことになり、ピーちゃんも一緒に連れていくことになりました。
祖父母の家はとても広かったので外の庭に鳥かごを出してあげたりお世話をしていました。
我が家は狭かったのでピーちゃんも外の世界でのびのび過ごしているようでたくさん鳴いていました。
何日か過ごしたある日、縁側で座ってピーちゃんを眺め、少しそばを離れたときです。
ガチャガチャガターンとものすごい大きな音がなりました。
何事かと表に出ると、野良猫がピーちゃんのかごを襲っていたのです。
かごは地面に落ちてしまい、扉は開き・・。
あの元気なピーちゃんの姿は見る影もありませんでした。
野良猫を探そうと走っておいかけましたが追いつけず、ピーちゃんが食べられてしまったのかもしれない、痛い思いをしているかもしれない、いや、もしかしたらどこか近くの木に逃げたのかもしれないと様々な思いがあふれ出ながらあちこち走り回りました。
ピーちゃんは見つからずに鳥かごだけがもぬけの殻となっているのをみるといたたまれない思いになりました。
あんな小さなからだで、猫に襲われてしまっては怖くて怖くてたまらなかったはずです。
痛かったかもしれない。
私が縁側から離れなければ、猫を追い払ってやれたかもしれない、自分の責任だと胸のうちがざわざわするのがわかりました。
たった1年で亡くなったインコ、もし会えるならまずは謝りたい
2年前に亡くなったオカメインコの話しです。
購入したのは3年前でたった一年しか一緒いる事ができませんでした。
私結婚しているのですがなかなか子供が出来ず落ち込んでいる嫁の為に少しでも気が紛れればと購入しました。
雛の状態で餌付けしていったので凄くなついてくれて家に帰るといつも私の片の上で毛繕いをしてたまに私の頬に顔を擦り付けてきて本当に可愛かったです。
オカメインコは話しはしませんが口笛が上手でトトロの曲をよく吹いていました。
羽根を切っていなかったのでよく飛び回りそこら辺に糞をするのがやっかいでしたが。
ある日帰ると飛ぼうとするのにまったく飛べなくなっているしいつもは帰らない小屋にすぐにかえるのでおかしいなと思っていましたが仕事もある為、3日後に病院につれていく予定でした。
そして前日の夜、いきなり体調が悪化しいきたえました。
最後寄り添ってくるすがたと早く異変に気付き病院に、つれていってあげれなかった後悔で泣きました。
あれから2年たちますがトトロをみる度に思い出します。
犬や猫より悲しくないように感じると思いますが鳥も同じ家族なので新しい鳥はまだかっていません。
もしもう一度会う事が出来たら、まずは謝りたいと思います。
平均寿命の15年どころか1年しか生きさせてあげれなかった事や変化に気づくのが遅かった事など。
そして、少しの間だけど家族として楽しませてくれてありがとう。
最後に思うのはあのときのようにトトロを歌っている姿が見たいです。
私が二回目の手術で入院中に亡くなったセキセイインコ 身代わりになってくれたのではと思いました
10年一緒に生活した、セキセイインコのきみちゃんが死にました。
きみちゃんは、黄緑色の雄のインコです。
おとなしくて、他のインコは本気で噛みつくのに、きみちゃんは、怒っていても甘噛み程度で、気を使ってくれるインコでした。
ただ、羽根の調子が悪く、他のインコが部屋を縦横無尽に飛び回るのに、比べ、小屋の中で一人で静かにしていることが多い鳥でした。
そのため、籠の扉を開けていても、いつも小屋の中にいるきみちゃんが、ある日、私の足元に来て、私のズボンのすそを二、三回、引っ張ったのです。
外に出てくることも、あまりないきみちゃん。
何か、様子がおかしいと思い、観察してみると、フンが肛門の周りに固まっており、便が出ない状態であることが分かりました。
糞は、2センチ位の塊で、全然気が付いてあげられず、とても後悔しました。
糞をするとき、一生懸命いきむのですが、ぐ―という音がするだけで、出ず、とても苦しそうに見えました。
すぐに翌日病院に連れていきましたが、高齢のため、特に何かするよりは、他の仲間の鳥と一緒にいたほうが、本人のためにいいだろうと、連れて帰ることになりました。
ただ、糞の塊は取っていただいたので、だいぶ元気になったようでした。
どうして、こうなるまで気が付かなかったのか。
私が入院、手術後で、鳥の細かい状況まで気が付かなかったのです。
そして、私が二回目の手術で入院している間に、きみちゃんは死んでしまいました。
夫から、その話を聞いたとき、私は、きみちゃんが身代わりになってくれたのではと思いました。
のんびりやさんで、マイペースな男の子でしたが、きっと私の病気が重いことを知り、代わりに背負って旅立ってくれたのだと思いました。
その後、家に帰り、きみちゃんがいないことを実感しました。
あまりに寂しさに負けて、新しい雛を一羽購入しました。
この子のお世話で、自分の術後の痛みと、喪失感を紛らわしています。
きみちゃん、ありがとうね。
なにものかに襲われていなくなった十姉妹 食欲も減り、遊びも楽しくなくなった 25年経っても飼いたいと思えない
今からもう25年程前の話になります。
私が小学生の時、十姉妹を6羽飼っていました。
それは、休日に父親と姉と私と三人でペットショップに行ったときに、姉が十姉妹をみて、父親に飼いたいねだり、根負けした父親が飼ってくれたものでした。
オスとメスのつがいの十姉妹。
オスの方は、雪のような白いまだら模様で、吹雪となづけました。
メスは、真っ白で、朗らかな感じだったのでのどかと名付けました。
それが、我が家で飼育した初めてのペットでした。
父親に買ってとねだった姉は、最初の2~3か月、吹雪とのどかの世話を頑張ってしていましたが、鳥の世話というのは、特に鳥かごについた糞の掃除が結構手間がかかるのと、飽きやすい性格だったこともあり、やがて、世話をほとんどしなくなり、結果、弟の私が世話をすることになりました。
当時の私はそれほどペットを飼いたいという願望はありませんでしたが、世話をしていくにつれて、段々愛着が湧いてきました。
庭で採ったはこべらをあげると、鳥は空腹が満たされることがないのか一杯になと思うくらいパクパクと食べる様子に癒されていました。
やがて、のどかが卵を産みひな2羽が生まれました。
ひなが生まれ、吹雪やのどかも子育てをするようになると、その様子を見たり、ひなが成長していく姿を見て、さらに、癒されていました。
飼い始めて2年もしたころには、生まれたひながすべて育ったわけではありませんが、我が家の十姉妹は6羽の家族になり、たいそうにぎやかにしておりました。
しかし、悲劇というのは、突然やってくるものです。
学校から帰った私が見たものは、無残にも倒れて開いた鳥かごと、散らかった羽毛と血だらけになって動かなくなった吹雪と1羽の子供の死骸でした。
蛇が食べたのか、野良猫がやったのかはわかりません。
私は戸締りをせずに家を空けた母親を責めましたが、亡くなったものが帰ってくるはずもなく、ただ、そこにある吹雪と1羽の子を庭先に穴を掘って葬ることしかできませんでした。
いつもそばにいたものがなくなるというのは、それが動物であっても悲しいものです。
2年以上続けてきた餌やりと鳥かごの掃除という毎日の癒しの日課が、その日を境に突然なくなって、徐々に自分の心の中に喪失感が実感として湧き上がってきました。
それから、半月ほど、吹雪、のどか、その子たちへの申し訳なさからか、食欲も減り、友達と遊んでいても楽しめなかった自分がいたのを覚えています。
ただ当時、思春期を迎えつつあった私は、直に、好きな女の子のことやクラブ活動等に関心を奪われ、その悲しみを長く引きずるありませんでしたが、その経験からか、それ以来、私はペットを飼っていません。
飼うことに強い抵抗があるわけでもなく、唯々、飼いたい気が起こらないのです。
今、体験談を書いて昔の話を思い出しましたが、改めて思うのは、あの日、死骸のなかったのどかと残り3羽の子が、その時、無事に逃げていてくれればということです。
大切にしていたインコが亡くなってから、定期的に見る鳥が死ぬ悪夢 心に負い目を感じる
昔から、セキセイインコや文鳥等の小鳥が好きで、ずっと飼っていました。
怪我をしていた野鳥(図鑑で調べたところカワラヒワだと思います)を飼っていたこともあります。
小鳥は犬や猫と違い、逃げてしまったり、他の動物に襲われてしまったりでお別れになった小鳥たちも少なくはありませんでした。
中でも私はセキセイインコが大好きで、歴代可愛いインコちゃんたちを飼育しました。
写真も残っています。
セキセイインコの愛くるしいところは、ちゃんと飼い主になついて呼べば飛んでくるところ。
しかもちゃんと指先に止まってくれるんです。
それに、ピロピロ♪とごきげんな鳴き声。
毎日教えれば言葉も覚えるんですよね。
一番思い出のあるインコは、学生時代に飼っていた全身レモンイエローの男の子です。
「俊太」という名前を付けましたが、結局「チュン太」と呼んでいました。
地方から東京に出てきて初めての一人暮らし、やはり寂しかったのでしょうか。
チュン太が今まで飼った小鳥たち以上にかわいくて仕方なく、帰省の時は一緒に帰ったし、病気の時は大学に連れて行ったこともありました。
大学卒業後、そのまま都内で就職し、一人暮らしは継続。
社会人四年目の頃でしょうか、俊太が息をひきとりました。
季節は春。
自宅アパート近くに桜並木のある場所に住んでいました。
こんなこと、ばれたら怒られてしまうかもしれませんが、俊太は桜の木の下に埋めました。
俊太がいなくなってからは、小鳥は飼っていません。
飼いたいけれど、何だか飼えなくなってしまいました。
それから、3ヶ月に一度くらいのペースで、「飼っている小鳥たちが死ぬ夢」を見るようになりました。
ゲージの中にたくさんの小鳥がおり、ガリガリに痩せ細っていて、一部はすでに息絶えている…という。
夢の中で私は、早く餌をあげなきゃ!水をあげなきゃ!と焦っているのです。
いまだに定期的にそんな夢を見てしまい、悲しいことに俊太を亡くした負い目がかなりあるのだと思います。
人懐っこい愛嬌のある姿で家族を癒してくれたセキセイインコ 過失で水死しさせてしまい後悔
私は以前セキセイインコを飼っていました、くちばしの上の部分が青かったのでオスだったと思います。
一羽だけしか飼えませんでしたから名前は特に必要ではありませんでしたから、ここでは便宜的に「トリ君」と呼ばせていただくことにします。
トリ君との出会いは、父が偶然外出中に見つけて保護し、家に連れ帰ったことから始まりました。
何処かの飼い鳥が逃げ出して家に戻ることが出来なくなったようでした。
トリ君はとても人懐っこく、見知らぬ家の見知らぬ私達に対しても全く警戒せず、昔からの関係であるかのように振る舞ってました。
取り敢えず食パンをちぎって与えましたが、喜んでついばんでいました。
よほど空腹だったのでしょう。
いちおう満腹になったと見えて、トリ君は親愛の情を示しすためか、順番に私達の肩に飛び乗り頬ずりをしてきたのです。
我が家ではそれ以前にジュウシマツを飼っていましたが、トリ君のように積極的に慣れるという仕種を見せませんでしたから、その愛嬌のある姿に家族全員が感激をしたのです。
それからはトリ君が家族の中心であるかのようになりましたね。
ジュウシマツ達はその当時の家へ転居する際に親しくしていた人達にかごごと譲っていましたので(表向きはペット禁止でしたので)、新品を購入するまで取り敢えずヒマラヤスギの鉢植えを寝床とさせていたのですが、トリ君はそこを気に入ったようで、が我が家として受け要られたようでした。
鳥類を屋内で放し飼いにする際に困るのは糞をまき散らすことですが、トリ君はきちんと鉢の土の部分の同じ場所で糞をしていましたのでそういう心配はせずに済みました。
家に戻るとトリ君が真っ先に迎えてくれるのはとても嬉しいことでした。
かごが設えられても家族が家にいる間は外へ出して、実に狭い空間でしたが自由気ままにその飛ぶ姿を飽きもせずに眺めている日々が続きました。
思い返すとトリ君にとって一番幸せな時期だったと言えるはずです。
ペットを飼っている人が必ず迎える悲しいできごとは、そう、愛する彼らとの別れの時です。
もちろん、トリ君も例外ではありませんでした。
その日は突然訪れたのです。
いつもは外へ出すと外出する家族の後ろをつけてくるのですがその日は別段そういうことをしなかったので、普段は家中の扉を閉めてから鍵をかけることをつい怠ってしまいました。
それがいけなかった。
私が家に戻るといつも出迎えてくれるトリ君の姿が何処にもなかったのです。
気になって広くもない家の中を探してみると風呂場の浴槽の中に浮かんでいました。
慌てて拾い上げてももう手遅れでした。
私は自分の失策を攻め続けました。
どうしていつものように全ての扉を閉めておかなかったのか。
自分の手で家のドアの鍵をかけるまでにそのことに気付くべきでした。
心の中で何度も詫びましたが、トリ君が動くことは二度とありませんでした。
私は帰って来る家族全員にトリ君が私の過失で命を落としいたことを告げて詫びました。
全員が愛嬌のあった彼の死を悲しみましたよ。
そしてトリ君を死なせた張本人である私の手で彼の亡骸を葬りに行きました。
父がトリ君と出会った場所が当時は大きな団地の森であり、そこへ葬るのが最も相応しいと判断して、太陽が沈んでから人目につかないように注意して移植ごてでトリ君を入れられるだけの穴を掘り、途中で手折った花を上下に乗せて葬りました。
最後の別れとして頬ずりをした瞬間、涙が止まりませんでした。
俺のせいでトリ君が死んでしまった。
その自責の念だけがしばらくの間この身から離れませんでした。
徐々に体力が落ちて死期が迫っていることを悟れるのならその覚悟を前以ってすることも出来るでしょう。
トリ君の死は突然でしたので、全く予想外でした。
トリ君の死を受け入れるまでしばらくの間我が家の空気が重く淀んでいたことを覚えています。
様々な別れの形があるでしょうが、私は自分なりに考えた形で彼を送りました。
そのことについては後悔はありませんが、生命を全うさせてあげられなかったことに胸が今でも痛みます。
トリ君ごめんなさい。
我が家の鳥かごが使われることはもうありません。
突然なくなった大好きだったカナリア 暖かでやわらかいなきがらは一生わすれることができない
子供のころ、ペットのカナリアが亡くなった体験談をお話しします。
レモンカナリアのピーちゃんは、羽の色がその名の通りレモン色で本当にきれいな鳥でした。
正確に言うと、ピーちゃんは兄のペットでした。
私のペットの小鳥は、茶色くてがさつで、あまりかわいいとは思えませんでした。
兄が私の誕生日プレゼントにと買ってきてくれた小鳥です。
見たこともない鳥で、種類を訪ねたら、兄は「ヘキ鳥」だと答えました。
文鳥、十姉妹、セキセイインコと我が家では歴代、数種類の小鳥を飼っていました。
それらと比べると、ヘキ鳥はあきらかに落ち着きがなく、人間が近づくと異常なまでに鳥カゴの中でバタバタと逃げ回ります。
ヘキ鳥のお世話は欠かさず行っていました。
エサや水を清潔なものに取り換え、フンをしたトレイの広告の紙を取り替え、トレイの水洗いも。
しかしながら、お世話をしていても、愛着がわかず、私は次第に兄のカナリアの方に心惹かれていきました。
カナリアのピーちゃんは私が付けた名前です。
兄は名前など付けません。
ピーちゃんはおとなしく、鳴き声も可愛らしかったです。
鳥カゴの端に寄ってきてくれ、懐いてくれるのです。
お顔や瞳も可愛らしく、じっと私を見つめてくれ、時には笑っているようにさえ見えました。
忙しい兄に代わって、ピーちゃんのお世話も私がしていました。
ピーちゃんはある日、突然亡くなりました。
理由はわかりません。
真夜中に息を引き取りました。
ピーちゃんを看取ったのは私だけです。
両親も兄たちも(兄は二人いるのですが、二人とも)ピーちゃんのことは、ほったらかしです。
私は手のひらの中で、横たわって動かないピーちゃんを何度もやさしくなでました。
今、こうして思い出すだけでも涙があふれて止まりません。
ピーちゃんの亡骸は自宅の庭の深い所に埋葬しました。
墓標も私が立てました。
我が家の裏山にはイタチがいて、十姉妹たちが被害を受けたことがあります。
隣家の猫がよくうちの庭に来ていたこともあり、決して掘り返されないように細心の注意を払いました。
突然亡くなったので、病気なのか何なのかわからなかったのですが、お水が汚れていたのかなとかエサにばい菌が入ったのかなとか、もっとこまめにお掃除をすればよかったのかなと子供心に後悔したのを覚えています。
もっともっとお世話をしてあげたかったです。
ピーちゃんが亡くなってからは、朝起きて学校に行くのもおっくうで、また下校してからも「ただいま、ピーちゃん」という楽しみもありません。
ショックを受け、寂しく思っているのは私だけで、両親も兄たちも全く悲しむ気配はありませんでした。
我が家は、お盆などは両親の里に帰省するので、家を留守にするため、犬や猫は飼うのはNGでした。
小鳥や魚はOKで、それも私ではなく、両親や兄が積極的に飼っていたにも関わらず、今にして思えば家族はあまり愛情をかけると言うか、かわいがっている風ではなかったなと思います。
ピーちゃんが亡くなってからは、小鳥を飼っていません。
ちなみにヘキ鳥はピーちゃんが亡くなる前に、お掃除の時に逃げて行ってしまって既にいませんでした。
手のひらの中の、ピーちゃんの軽くてやわらかくて暖かな亡骸は一生忘れることはできません。
ピーちゃんが天国では、鳥カゴの中ではなく、自由に羽ばたいている姿を想像すると少し気持ちが癒されるのです。
庭で見つけた飛ぶことのできない3匹のスズメの子 1月と少しで絶命してしまい、己の無力を思い知る
私が小学校4年生の時のことです。
私は自宅の庭の木の下にまだ飛ぶことができない雀の子を供三匹見つけました。
雛というには大きくなりすぎていて、毛の色もしっかり茶色くなり、羽ばたけば空に飛んで行けそうな気さえしました。
しかし飛ぶことはかないませんでした。
成熟する少し手前で巣から落ちてしまったようです。
庭には猫が侵入し、毎年のように蛇が出ます。
彼らをエサとする生物ま我が家の庭にはたくさん出入りします。
放っておけばまず食われると思い、私が保護しました。
山にいけばミミズをすぐ捕獲できました。
私はそれを火バサミで切断し、三匹の雀に食べさせました。
ちゃんと食べてくれるところを見ると何とも嬉しい気持ちになりました。
学校から返っては雀の世話をする日が続きました。
その内に2話は一週間も立たずに死んでしまいました。
やはり自然の中でないと暮らしていくのがむずかしいようです。
しかし残った1匹は一月経過しても行きていました。
ゆで卵を粉々にして上げると、喜んで食べていました。
元気になってこのまま大空に帰ってくれたらどれだけ良いだろうと想っていました。
死の前兆はありませんでした。
ペットとして飼い始めてから1月と少しが経過したある日、最後の一羽も遂には絶命してしまいました。
この時私は自分がいかに無力かを思い知りました。
短い付き合いではありましたが、世話をした喜びと命を失った悲しみの記憶は今でも強く残っています。