犬を亡くしてペットロスになった体験談
愛犬の介護と私の後悔
二年ほど前に17年以上一緒に過ごしてきたミニチュアダックスフンドのジュリアが亡くなりました。あと一か月も生きていれば、18歳の誕生日を迎えることができたのに・・・。女の子でありながらも気が強い子でした。『忠誠心がある犬』というよりはあたしについて来いと言わんばかりの気性でお留守番にも手こずり、不満も態度で示すような可愛げのない子でした。若いころには出産も経験し、もし人間ならば、結構肝のすわった強い女だったんじゃないのかな、なんて思ったりもします。私もジュリアも、あまりベタベタすることは好まず、もしかしたら猫なの?と思うほどあっさりした関係だったけれど、毎日を当たり前のように過ごしていました。歳をとってくると、マニュアルでもあるみたいに寝てばかりいるようになり、節分の豆にも興味が無くなり、隠れて残飯を漁ることもしなくなりました。更には、歩いてもつまずき、ご飯を食べたかも忘れ、狭い隙間に体を押し込め、自力で脱出できなくなりました。皮肉な事に、老後になってからジュリアと私の心が通じ合うような関係になっていくのがはっきりと感じ取れました。そういう経過を経て介護になり、一番大変だったのはトイレです。一晩トイレを我慢できず一緒に寝ている布団に漏らしてしまうので、私の就寝前に外へ行き用を足してから寝ていましたが、毎日のことでイライラすることもありました。楽しく話しかけながらの日ももちろんありますが、無言で事務的に用だけを済ませていたことがどうしても私の中でクローズアップされてしまいます。面倒だと思いながらの私の行動が今でも私の大きな後悔となっています。やれることはやったような気もするし、そこには確かに愛情もありました。でも私はもっと優しさを持って、もっと何かができたのではないかと考えてしまうのです。誰に話をしてもどんな風に慰めてもらっても自分の問題だとわかっています。最後は目も衰えて見えてはいなかっただろうけど、夜空を見上げると、一緒に見た星空を思い出します。
廃業した父親の心を支えた愛犬の死 本物の家族だったと実感
親の努力を知らずに、自分は裕福でもなく、貧乏でもない、何の不自由もない高校生であった1999年。父と母と姉と自分のごく普通の4人家族。父は自宅を工場にして、業務委託を受けて仕事を行っており、母は当時の国家公務員で共働きであった。日本の経済は平成3年にバブル崩壊してから、平成不況の真っ只中。今でこそ、私自身が社会人で働いているからこそ分かるが、日本経済に何の興味も関心もなかった高校生には、この時代の大変さはわからないであろう。その日本経済のあおりを我が家はもろに受けた。威厳と自信に満ちた父が廃業したのだ。仕事に追われ、朝から夜まで働いていた父が仕事がなく、これまで母親が行っていた洗濯や洗い物などの家事を行っている日々。「なぜ父が働かないのだ?」と日本経済に何の興味もない高校生の思春期の時期に、無責任にも怒りを覚えていた。そんなある日。父の様子を気遣って、姉が友達から白毛と茶毛が混ざった生まれたばかりの雑種犬をもらいうけてきた。当時飲料水のQuuが流行っていたことや、よく「食う」ことからクーちゃんと名付けた。もともとペットを飼うことに反対派であった母も、このときばかりは認めた。クーちゃんの世話は父が行った。散歩もエサやりも、シーツ替えもすべて。外は寒いため、父の判断で、部屋の中で飼うことにした。これが今でもよかったと思う。ご飯のときは一緒に食卓を囲み、私がご飯を食べようとすると、クーちゃんに横取りされたこともある。これが楽しくて、毎食一緒に食事をすることにした。クーちゃんが来てくれたおかげで、我が家には父の廃業による暗いイメージから、楽しく笑いのある日々が続いた。そのおかげか、父も定職に就くことができた。父は単身赴任となったため、その後は母と私が世話をした。たまに父が帰ると本当に喜び、家族の中で1番好きなんだとすぐにわかる。そんなクーちゃんも、老いには勝てない。食欲もなくし、歩くとぜぇぜぇしている。辛そうな様子はすぐにわかった。動物病院に連れて行くと、もう時間の問題だと言われた。私が大学の友達と旅行中に姉からメールが入る。「クーちゃんが亡くなったよ」と。「死んだ」という言葉ではなく、「亡くなった」という姉の言葉からも家族全員がクーちゃんのことを「家族」だと感じていたのだと思う。そのメールを見て私は号泣したが、それを理解しない者もいるものだ。え?ペットが死んだんだよね? 違う。ペットじゃない。いつかは死ぬから仕方がないよね。 違う。そんな問題じゃない。立ち会えなかったことの後悔や、これまでの感謝のこと、どれだけ楽しく生活ができたか、どんなに笑いのある日々だったか、最後に一言言いたかった。ありがとうクーちゃん。姉からのメールの翌日。家に帰ると、冷たくなったクーちゃんがいた。私が帰るまで埋葬するのは待っていたらしい。家族全員で祖父と祖母が眠る墓地の近くに、クーちゃんを埋葬した。今でもクーちゃんが我が家を見守ってくれる気がする。ありがとうクーちゃん。この絆は、正直分からない人がどう感じようがどうでもいいと思うようにした。誰が何と言おうと間違いなく、私たちの「家族」だったのだから。このときは父も少し泣いているように見えた。誰よりも感謝していたのは、父だったのかもしれない。
想像妊娠した愛犬 不妊手術をしたところ歩けなくなりその後衰弱死 後悔と怒りの感情が入り混じる
私が小学生4年生の時、友だちと習い事の帰りに公園に立ち寄ったら段ボールの中に黒い子犬が三匹捨てられていました。ちょうど3人いたので一人一匹ずつ持ち帰り親に飼うことを許可をとりました。最初は反対されましたが、このまままたあそこに戻したら死んでしまうと思い泣きながら頼んだらやっと許してもらえました。黒いメス犬だったので名前をクロと名付けました。飼い始めた当初は母親を恋しがってかずっと寂しそうな声で鳴いていました。学校が終わるとすぐ帰ってクロのそばにずっといるようにしました。クロは臆病でしたがお利口でお手や待てを簡単に覚えてくれました。外で飼っていたので番犬にもなりました。ある日、クロのお腹が大きくなっていることに気がつき、おっぱいをおしたらミルクが出ました。妊娠してしまった!?っと思い犬はこれ以上飼えなかったので急いで病院で診てもらったところ想像妊娠と言われました。ビックリしましたが妊娠していないことに安心しました。そのまま不妊手術の予約をとってクロの手術をしてもらいました。…がクロの不妊手術が終わり家に連れてきたら後ろ足が歩けなくなっていたのですぐに手術をした病院にその事を言いに行きました。医者はそんなことは絶対にない、手術のせいではないと。クロが頑張って歩こうとしても歩けず何回も倒れてしまうのを見て心が苦しくなりました。そのまま徐々に衰弱していって看病のかいなく亡くなりました。しばらくは落ち込んで学校でも泣いてしまったり立ち直れませんでした。なんで不妊手術をしてしまったのだろうという後悔、病院をあそこにしてしまったのだろうと怒りさえありました。今自分の子供が犬を飼いたいと言っていますがあの悲しみを我が子に体験させたくはありません。でも子供が拾ってきたら自分も犬が好きなので飼ってしまうかもです。
脱走し電車にひかれ亡くなった愛犬 もっと注意していればと後悔ばかり
私が昔から動物が大好きでした。小学生の頃に、両親におねだりして犬を買ってもらいました。いつも顔をペロペロと舐めてくれるのでペロと名前をつけました。毎日学校が終わるとペロに会いたくて走って帰りました。ペロはいつも尻尾をブンブン振ってすごく喜んで出迎えてくれていました。学校で嫌なことがあったりするといつもペロに愚痴っていました。ペロはいつも黙って聞いてそして私の顔ペロっと舐めて慰めてくれているかのようでした。私はそんな優しいペロが大好きでした。それから14年が経ちました。私は社会人になり、彼氏ができたり仕事をしたりと日々忙しくなりました。家に帰る日が遅くなったりする日もありなかなかペロと触れ合うことも少なくなってきていました。でも外出する時は行ってきます、帰ったらただいまの挨拶は必ずしていました。そんな中、ペロとの別れは突然やってきました。朝方掃除をしている祖母が少し玄関のドアを開けた隙にペロは脱走してしまいました。家族で探しましたが見つからず夕方になり、家のすぐそばを通っている電車が警笛を鳴らしました。それはとてもとても大きな音でした。嫌な予感がしました。おじいちゃんはすぐに線路の方を見に行きました。ペロは電車にひかれて亡くなっていました。あの警笛の音はペロに対しての音だったのです。でもペロは歳をとって耳が全く聞こえ無くなっていました。おじいちゃんは農作業で使う一輪車にペロ乗せて家まで運びました。私には見ない方がいいと言いました。本当に突然ペロはいなくなってしまいました。仕事に行く時帰ってきたときついペロを探して声をかけようとしてしまいます。でももういないのです。犬の寿命は15歳だと言われています。14歳のペロともうと一緒にいるべきでした。犬は話さないしいつも元気で変わらず可愛いけれど、確実に歳はとっていたんですよね。もっと注意をしていればこんな事故にならなかったかもしれない。社会人になって自分のことで精一杯になって、でもペロはいつも私のことを待っていてくれたのに…その後毎日泣じゃくりました。後悔ばかりでした。後悔してもペロはいない、でとずっと忘れないようにと写真を飾っていつも話しかけることにしました。ペロが寂しくないように。その後何年かして両親が犬を飼いました。その犬も今15歳になります。過去の教訓を生かしてじゃないですけど、大切に育てています。
寝たきりで老衰に近い状態でなくなった愛犬 毎日涙がでて何もする気がおきず辛かった
「いつ帰ってくるの?」と母から電話があり海外から帰国した時はチビは寝たきりの状態でした。マルチーズの雑種のチビは18歳まで長生きできたものの、腫瘍もありほぼ老衰に近い状態でしたが、私が帰るまで母が毎日点滴を打ちに獣医さんまで連れて行って私の帰りを待っていました。耳も聞こえず、目もほとんど見えず茶色の毛も大部分白くなって大好きな鳥のササミも食べられずただ横になって時々手足を動かすだけでした。粗相をしてもいいように古いシーツを引いて時々水を口元に近づけて飲ませてあげるのが精一杯のことでした。ずっと犬を飼いたい!と小さい頃から願っていたことが叶ったのが私が小学校の高学年頃でした。動物が大好きでテレビも動物に関する番組を見るのがいつも楽しみにしていた子供時代。願いがかなってチビが我が家に。まだ産まれて3ヶ月くらいの小さな子犬は本当にぬいぐるみのようでした。自転車のカゴに乗せてミルクを買いに行ったり、ただひたすら歩いて散歩したり。絨毯に粗相を何度もしたり、鳴き声で叱られたり。初めてのことだらけで失敗続きでした。でも子犬のお世話と介護とは大違い。チビは段々衰弱して水も飲まなくなり、体温が低くなり、獣医さんももう点滴は必要ないと言われて自宅で介護して数日経った夜中でした。体が痛いのか時々「キャン!」と悲鳴をあげました。あまりに痛そうなので翌日痛み止めを獣医さんに相談しようと思っていましたが、翌朝冷たくなり天国へと旅立ちました。たかがペットと言われる方もいますが、ペットも家族の一員です。失った人しか分からない悲しみはとても深いと思います。私も毎日ただただ涙が出て来て何もする気が起きず、時間がかかりました。ただチビとの思い出は忘れることなく、いつまでも心に残っています。
徐々に弱っていった亡くなった愛犬 大人になった今もショックから飼うことができないでいる
小学生の頃に、飼っていたシェットランドシープドックが亡くなりました。7年くらい飼っていて、家族同然に可愛がっていたのでとてもショックを受けました。亡くなる前は、徐々に弱っていく姿を見ることは子供心にとても辛かったことを覚えています。小さい頃に家にやってきて、犬種の割には少し小太りだったのに、亡くなる前は徐々に痩せていき、子供から見ても具合が悪いことが分かりました。近くに、祖父母が住んでおり犬が弱っていることは知っていましたが、昔の人だったので動物病院にかかったり、亡くなった後に火葬するというような習慣が無かったのか「庭に埋めなさい」と言う衝撃的な事を言われたことをよく覚えています。結局は、動物病院にかかって、動物病院で息を引き取り、火葬をして貰いました。その頃はまだ自分も子供だったので、散歩が嫌だったり、少し吠えたりして怒ったりしましたが、今になれば、もう少し可愛がってあげればよかったなぁと後悔をしています。動物は具合が悪くても喋れませんし、どこが辛いかも言うことが出来ません。子供なりに亡くなったことが辛く、あれ以来、動物を飼ったことはありません。今では、自分も大人になり、子供たちが「犬を飼いたい」と言うことがありますが、亡くなった時のショックが辛かったことから、動物を飼う気にはなりません。家族同然で可愛がったペットが亡くなることはとてもつらい事です。元気なうちに、精一杯可愛がってあげてください、と動物を飼う全ての人に伝えたいと思います。
うつ病になった私をささえてくれた愛犬 その後娘をさずかる しぐさが愛犬に似ており、もしかして生まれ変わりなのか
3年前の6月に18歳になる目前に愛犬のコロンは旅に出ました。小さい頃から犬が好きで近所の仔をよく散歩させてもらっていました。それをみかねて母が父に説得をして小学校6年生の時に父の仕事のお客様でペットショップをしている方がいたので、そのお客様のお店から実家が近いこともありそちらでコロンと出会いました。たまたま、母とどの仔にしようかお店に行った前の日にトイプードルが産まれたと言われて見せてもらいました。まだ片手の手の平にすっぽり入るくらいの大きさでした。少し小さい仔を最初に持たせてもらいました。その仔がコロンでした。まだ目も開いていないのに母犬を探しているような素振りをしていて一目惚れしてしまい即決で決めました。まだ産まれたばかりだったのもあり、直ぐには連れて帰れないので3週間後に引き渡しになりました。待ちきれない私は毎日学校が終わると直ぐにペットショップに行き店内の門にしゃがんで1時間ほど抱っこさせてもらっていました。そのときのことは今でも鮮明に覚えています。毎日行っているのに毎日成長が感じられました。やっと3週間がたちコロンが我が家の家族に仲間入りしました。しかし父との約束で、人が食べるものは絶対にあげない。散歩はサボらず毎日行く。人と同じ布団に入れるな。でした。でも、どうしても毎日一緒に寝たかったので土下座をしたのですが許してもらえませんでした。でも、ゲージは寝室に置いてもいいとのことでその頃祖母の部屋で祖母と2人で寝ていたので昼間は居間にいて寝るときは祖母の部屋へ運んでいました。そのうちにコロンも聞き分けが良くなり、決まったぬいぐるみか私の服以外はなめたりかじったりしなくなったので、祖母が夜遅くに父が帰ってくるので帰ってくるまで2人の間にコロンの場所を作り寝ていました。初めて横に寝てくれたときらたまらなくいつも以上に可愛かったです。でも、それが半年ほどでたまたま早く帰って来た父が祖母の部屋を開けてしまいバレてしまいました。まずは私が怒られ、コロンも怒られてしまい祖母が父を説得というか逆に怒っていました。それからは毎日祖母と私の間にはコロンの場所ができました。性格はとても大人しかったです。自分のドッグフードとサラミみたいなお菓子以外は食べたそうにもせず、つまみ食いもしていませんでした。しかし、どんなに小さい犬でも吠えられると震えて私の後ろに隠れたり抱っこをせがんだりしていて、少し怖がりな仔でした。高校生になっても散歩の為に一度帰ってからまた仲間と遊んでいました。あまり散歩ができなくなったのは高校を卒業して就職してからです。美容師になるために美容室に就職をし、通信制の美容学校に行っていたので、朝早く夜は遅いというか毎日終電ギリギリでした。それでもコロンとの日課だったその日の出来事をコロンに話すことは忘れなかったです。しかし、コロンには話せるのですが人に相談できない性格だったのと、今でいうパワハラを職場の人達からされていて、いつの間にかうつ病になっていました。家族にも職場にも内緒にしていました。コロンにだけは言えるのになんでほかの人に言えないのかと辛い日々でした。結局、日課だった今日の出来事を言うのもいつの間にか出来なくなり、職場も辞めてしまいました。病気は悪化するだけでただ誰ともしゃべられない日々が続きました。夜中一人で辛くて泣いているといつの間にかコロンが私の横に来て手をなめてくれていました。そのときが一番安心できて落ち着きました。コロンが死んだらどうしよう、、、本当に一人になってしまう、、、結局、うつ病を家族に伝えても理解してもらえず1人ぼっちコロンがいなくなったら全くしゃべらない日々が続くのかとふと考えてしまい、それから毎日のようにコロン死なないでね!ってお願いしていました。しかしコロンは元々心臓が弱かったのもあり13歳くらいになったときから急にお散歩も時間が短くなり目も見えなくなって耳も聞こえなくなってきて、、、と色々と重なってしまい一気におじいちゃんになってしまいました。オムツも外せなくなり、お散歩も1日10分を2回。それでも5年ほど頑張っていました。そして、お別れは突然でした。その日の夜ご飯のときにコロンはいつもよりみんなに甘えていました。くっついたり手をなめてきたり。どうしたのかな?と思いながらいつも通りに寝ようとしたら1:00頃急に発作が始まり目も開かなかったコロンが一度だけ私とハッキリ目が合ってからゆっくり目を瞑ってそのまま旅立ちました。最後は私の膝の上でした。朝になるまで下ろすことができず涙も止まらずでした。本当に一人ぼっちになってしまいました。コロンがいないなんて考えたくもない。死にたい。結局、次の日まで泣きくずれて過呼吸になりながらも自殺行為をしてしまいました。それでも死ねなかった。コロンが来たらダメって言っているのかもしれない。でも、辛い。家族とはそれから半年は話さなかったです。わかってもらえるなんて思ってもいなかったし、30近いのに結婚もせず仕事と心療内科の通院以外は外に出ませんでした。そんな生活が一年くらい続いてたまたまコロンの話をわかってくれた方がいてその人と付き合うことになり、子供を授かりました。もう、1歳半になる娘ですが家族だけでなく近所のコロンを良く知っている人からも含めみんなに娘の仕草やふとしたときの目がコロンにそっくりと言われます。そんな娘を守らなくてはいけないので死ぬ気は全くなく、娘にもコロンのことを伝えていこうと思いました。もしかしたら、娘はコロンからのプレゼントかもしれません。思い出せは辛くて泣いてしまうときもありますが、娘の為に立ち直りました。
骨肉腫でなくなった愛犬 10年たっても忘れられない 天国に行ったら一緒に遊ぼうね
私が中学2年生のとき、初めて飼った愛犬ゴンが亡くなりました。ゴンは、母の会社の同僚の家で生まれ、我が家にやってきました。アラスカンマラミュートというハスキー犬のような大型犬で、力が強く、散歩の時は引っ張られて転んだり、タオルの引っ張り合いで負けたり、私は完全にゴンより下に格付けされてました。(笑)よく兄の友達とゴンと私で運動場で走り回って遊んでました。ある日、ゴンが片足を上げて歩いていることに気づきました。病院に連れて行くと、走り回って捻挫したところを何回も挫いたことによって骨折してしまったということでした。手術が必要だったので、手術してもらいました。普段は外で飼っていたのですが、退院後から家の中でしばらく飼うことにしました。その後、回復し、普通に走り回っていたのですが、突然フラフラとし、その場にしゃがみ込んで立ち上がれなくなりました。病院に連れて行くと、骨肉腫と診断されました。すでに手の施しようがなく、私たちは弱っていくゴンを見守ることしかできませんでした。寝たままでもご飯は食べれていたのに、徐々に食べれなくなっていきました。排尿も自分ではできなくなり、寝たきりなので床ずれもでき、とても痛々しく見ているのも辛かったです。両親は仕事しており、私と兄は中学生と高校生だったので、日中はゴンは1人ぼっちでした。きっと寂しかっただろうな。ある時、私がたまたま部活が休みになり、早めに帰宅しました。いつものようにゴンに呼びかけると反応がありませんでした。いつもであれば、耳を動かしたり、目で追ったり、調子が良いと尻尾を動かすのに、その時はただ呼吸しているだけでした。これはまずいと思い、泣きながら両親に電話をかけました。「ゴンが死んじゃう。早く帰ってきて!」と。私はゴンの側を離れませんでした。徐々にゴンの呼吸がゆっくりになっていき、私はゴンに呼びかけ続けました。するとゴンが顔を上げたのです。そして口をあけ、声にならないような声で鳴き、そのまま息を引き取りました。その日は家族みんなで泣きました。翌日、両親は仕事へ、私は学校へいきました。日直だったのですが、涙が止まらず、席から立つことができずにいると、事情を知る友人たちが励ましてくれ、保健室でずっと泣いて過ごしました。家に帰るとやはり寂しさがこみ上げ、やはり泣いて過ごしました。日が経つに連れて、徐々に涙は止まり、寂しさだけが残りました。ゴンが亡くなってからもう10年以上経ちました。ゴンを看取った日のことは今でも忘れられませんし、まだ泣きそうになります。でも今は、看取ることができて本当によかった、もしかして帰りを待っててくれたのかな?などと思えている自分がいます。走り回ることが大好きだったので、天国でたくさん走って遊べてるといいなーと思ってます。まだ先になるけど、私がそっちに行った時は、たくさん遊ぼうね。
病気もないのに突然の愛犬との別れ 受け入れれずに反省の毎日 ありがとうと伝えたい
我が家の愛犬でトイプードルのモカとの出会いはショッピングセンターのペットショップでした。愛くるしくゲージの中で愛嬌を振りまいていた可愛い子犬でした。長女がモカを見てすぐにこのトイプードル飼ってみたい言い出して、結局、その日のうちに飼うことを決定しました。お店で可愛い箱に入れられて我が家にやって来た時のことは未だに鮮明に覚えています。すぐに我が家に慣れて、無邪気に室内を駆け回っていました。そんなモカが亡くなったのは昨年12月末でした。特に病気をしていた訳ではなく、前日までは元気に走り回っていたのですが、昼間に突然、ゲージの中で横たわり、苦しみ始めました。すぐに、近くの動物病院に連れて行きましたが、すでに亡くなっていました。先生によるとごく稀に突然死で亡くなる飼い犬がいることを知りました。心臓か脳が原因だと説明を受けましたが、突然の死を受け入れることが出来ませんでした。 自宅に連れて帰り、家族で手を合わせて成仏をしっかり祈ってあげました。翌日にはペット葬儀社にお願いして、火葬してもらいペット霊園のお墓に入れてもらいました。 家族が嬉しい時、悲しい時、いろんな場面を共に過ごしてきました。会社の人間関係で深く悩んでいた時も、会社から帰ると何もかも分かっているみたいに、ずっと私に寄り添ってくれて慰めてくれました。そんな優しいモカは家族にとってアイドルでした。 あまりペットを飼った経験が無い方には気持ちはわからないと思いますが、10年ほど一緒に生活すると家族同然で、私は精神的に参ってしまい会社も2日程休みました。 今でも脳裏に元気なモカが思い出され、辛い毎日を過ごしています。「もっと、いろんなことをしてあげたら良かった」と反省の毎日です。 もし、モカともう一度会えるなら、しっかり抱きしめてあげて、「ありがとう」って伝えたいです。
残された者の現在
今年の4月、愛犬が14歳で亡くなった。性格は穏やかで、とても優しく、家族や親しい人には絶対に噛みつくことなく、でもちょっとオチャメでかわいらしい子だった。ただ優しいだけでなく知らない人が来るとしっかり番犬をし、家族の知り合いだったときは説明すると、吠えるのをやめ、吠えてゴメンねと言っているかのように頭を下げる、今までいた先住犬とは一味変わった子だった。仲良くしていた近所のワンちゃんとは、塀越しで2匹は毎日お互いを呼び合い、おやつの物々交換をするのを楽しみにしていた。それが愛犬の死により、ぱったりと途絶え、近所のワンちゃんは1ヶ月塀を覗くどころか、近づきもしなかった。犬同士でも、そんなことがあるのだと感心した。また、自宅から遠く離れた大学に私は車で通学しているが、毎日朝6時に家を出発し、23時近くに帰宅していたが、見送りと、出迎えを必ずしてくれた。愛犬のおかげで、大変だった日も、落ち込んで帰った日でも、元気になれた。それがなくなった今は、日々疲れも溜まり、体調を崩す日も増えた。当たり前ではなかったことをとても痛感させられている。現在、私は大学4年で、卒業論文を書いている。この愛犬の死を乗り越え、新しい生活をするためにも、ペットロスについて研究しようと思った。そして、自分自身の心の支えとなるようなもの、そして誰かが私の論文を見て、少しでも役に立てるようなものを作成することで、私と愛犬の成長日記の最後とできればいいなと思う。それと、愛犬と仲良しだった近所のワンちゃんと言うと、自宅だけでなく、我が家の番犬も務めてくれている。物々交換の儀式は愛犬に変わり、私とするようになった。彼におやつを渡すと、暑い日はアイスやジュースを持ってきてくれたり、お煎餅を持ってきてくれたりする。玄関に愛犬の写真を飾り、違う形で、これからも家族を見守ってもらうことにした。残された者同士、愛犬との思い出を大切にしつつ、新たな生活に向けて少しずつ歩き始めた。14年間、一緒に成長してくれてありがとう。寂しくなって、すぐに会いに行くけど、いつもみたいにめんどくさいなって顔しながらでいいから、慰めてね。たまには夢の中に会いに来てね。愛してるよ