犬を亡くしてペットロスになった体験談
母に大反対された2代目の愛犬 病院の寸前から鼓動のない暖かいカラダを抱きかかえはこぶ母の後ろ姿に瞼があつくなった
昨年の夏、我が家で家族の一員として14年一緒に連れ添った愛犬のゴールデンレトリバーのパルが亡くなりました。パルは我が家にとっての2代目のゴールデンレトリバーでした。パルの前のゴールデンレトリバーは10歳ときに原因不明の発作で突然亡くなりました。そのときの母親のショックは非常に大きく、毎晩泣いて涙が止まらない日々が続きました。我々家族はそんな母の様子をみて話し合い、次のゴールデンレトリバーの仔犬を家族として迎え入れることにしました。当初母は、パルを飼うことに大反対しました。死んだばかりの前の子が怒る、と言って、いらない、いらない、とくり返しました。我々家族は迷いましたが、毎晩泣く母に荒治療としてパルを連れてきたのでした。そうしてパルを迎え入れたものですから母のパルへの愛は前に死んだ子の分の気持ちも含めさらに強いものとなりました。ときには、甘やかしすぎで我々が叱るシーンもあるくらいパルを溺愛していました。食べ物や運動などの健康に気を使い、少しでもおかしいことがあると病院に連れて行きました。犬たちと触れ合わせるために頻繁にドッグランに行き、近所の犬と散歩をしました。パルのおかげで母はとても明るく健康になりました。パルは元気で愛想のいい子でした。母が相当甘やかしていましたから、いたずらもたくさんしました。そのたびにパルはみんなに叱られ、母の後ろに隠れました。母がパルをかばって、また次回は同じように叱られるということをコントみたいなことを繰り返していました。そんな日々を繰り返し、パルも母も一緒に年を取っていきました。気づけばパルは14歳、母は70歳になりました。母の口癖はいつのまにか、「パルちゃんがママの最期のワンちゃんだもんね」という言葉になっていました。確かに年齢的に、もう一度元気な仔犬のゴールデンレトリバーを飼うことは体力的にも難しいのは我々も感じていました。ある日、パルが高齢になり、少しずつ歩けなくなってきた頃、私は「パルがもし死んじゃったら、小型犬でも飼えば?」と言いました。パルには生きていてほしいけれど、その後のことも少しは母の頭の片隅に考えていてほしかったからです。しかし、母は「そういうのは考えたくない」と言って寝転んでいるパルを撫でるだけでした。15年前に前の子が死んだ日を思い出して、私はそれ以上何も言わずに話を終えました。パルが亡くなったのは冬の晴れた日の夕方でした。「パルが家で立てなくなった」と母から電話がありました。「病院に連れていってほしいの」。私は仕事を少し早く切り上げ、母の家に車で向かいました。途中「パルが歩いて行けるって言ってるから病院に一緒に行くわ、直接病院に来て」と電話がありました。病院は100m程度の距離にあったので、ひとまずほっとして私は病院に向かいました。しかし、病院に着いてもパルはいませんでした。私が母の携帯に電話すると、「途中でやっぱりしゃがみこんじゃって」ということだったので、私は迎えに行きました。途中の道の脇で尻尾を振るパルと母がいました。「パルが歩けるっていうから、ここまで来たけど動けなくなって」母が笑いながら言いました。パルは嬉しそうに尻尾を振って笑っていました。「抱えてあげて」母がいい、パルの頭を撫でました。パルは嬉しそうに目を細めました。「急いでいかなきゃ」といって母は歩き出しました。私はパルを抱えようとしましたが、うまく抱えることができませんでした。パルがふにゃふにゃで、抱えられないのです。そのとき、私はパルが亡くなったことを知りました。私は何か母に言おうとしましたが、母は病院に行かなきゃと急いで歩いていました。私はなんとかパルを抱きかかえ、母の後ろを追いかけました。パルの体はまだ温かかったですが、もう鼓動が感じられませんでした。急いで歩こうとしている母の後ろ姿をみながら、私は瞼が熱くなりました。なんて言っていいのか私は分かりませんでした。病院に着くと母がドアを開けて、早く早くと手招きしていました。私は何も言えず、そのまま病院に連れていき、お医者さんにパルを渡しました。母はずっともう亡くなっているパルに「大丈夫よ」「ほら、お医者さんよ」と声をかけていました。お医者さんもある程度状況を察し、ひとまず、奥に連れていきます、とパルを連れて行きました。母と二人で待っている間に、私は「パル、死んだかも」と母に告げました。母は「うん」とつぶやきました。きっと母はパルが亡くなるのを知っていて、覚悟していたんだな、と私はおもいました。パルがそうして亡くなった後、母は我々がおもっていたほど落ち込みませんでした。本当は心の中では落ち込んでいるのでしょうが、母なりに長い時間をかけて準備をしていたんだとおもいます。だから、パルが亡くなった時も、その後もそれまでと変わらない生活を送りました。パルがいなくなって、運動不足になるのを心配していましたが、定期的に散歩に行き、昔のパルの友達の犬たちと触れ合っているようです。母はパルを本当の最期のワンちゃんとして、思い出のなかで今も一緒にいるんだな、とおもいます。
去年老衰でなくなった愛犬 火葬をする瞬間悲しくなりみることができなかった 抑うつになったが今は戻ってきた
去年のお正月に愛犬のミニチュアダックスのチョコが老衰でなくなりました。彼との出会いは私が幼稚園のころ姉がペットが欲しいと言っていたので家族でペットショップに出向きました。しかし私はそこでたくさんの犬が興奮して私に向かってくるのを見て怖がりお店の前でずっと泣いていました。そのような私を気にかけてくれた男性店員さんが一匹の小さなミニチュアダックス連れてきて犬はこんなにもかわいい存在なんだと説明してくれました怖くなくてそれこそ愛犬になるチョコだったのです。15年ほど可愛がっていたチョコもなくなる前の年末ころ急に足腰が弱っていき何もないないところで扱けたり、後ろ足が立たないためお尻を地面につけていたため摩擦でこすれて痛々しくなっていました。それからはもう寝たきりになりつらそうな呼吸をしていました。正月にはいって私は心配でしたが大学生だった私は課題に取り組もうとしていたとき母親が涙にあふれた顔で死んだということを告げられました。死んだと聞いたとき頭の中が混乱しなんだかよくわからない状態でした。そして空っぽになったチョコの体を見たとき目の前に彼はいますが私の知ってるチョコではありませんでした。まだそのころは実感していませんでした葬式を行い火葬をする時に急に悲しくなりその瞬間を見ることができませんでした。死因が老衰だったため大往生だと思いますが、チョコは左ほほに穴が開いていました。その理由は私が彼に対して歯磨きをほとんどさせてあげなかったことに起因します。ですからもっときれいな顔のままお見送りしてあげたかったと後悔してます。さらに大学の課題なんかに集中せずずっと一緒にいてあげればよかったとも思います。それから抑うつ状態になりなにかやる気が起きないことは続きましたが気持ちはいつも通りに戻ってきました。ですが家に帰宅した後時にいつもチョコが猛スピード玄関に走ってくることが当たり前だったため今でも「ああ、そうだチョコは死んだんだ」と思う時があります。決して忘れることはできませんとおもいますが仕事や趣味に時間を費やせば気持ちは落ち着いてくると思いますし、たまに思い出してあげて悲しい気持ちになるかもしれませんがそのことによって愛犬が喜ぶのだとポジティブな気持ちを持っていければよいと思います。チョコと話せることができるなら私は彼が私にやられてうれしかったこと嫌だったこと10個くらい聞きたい。そしてチョコからありがとう言われたいし私は彼にごめんなさいと言いたい。
足を悪くしてしまった愛犬
私が小学生の頃、愛犬が足を悪くして動き回ることができない状態で生活しながら死んでしまいました。子供によくありがちで、私も最初の頃はよく散歩につれていったのですが、散歩の頻度も減ってしまっていた中、愛犬が足を悪くしてしまい歩けなくなってしまいました。子供だった私は、犬と散歩するよりも友達と遊ぶ方がいいと思ってしまい友達との遊びを優先させてしまっていました。私の親も自営業だったとはいえ両働きで、犬の世話あまりできている家ではありませんでした。愛犬は足を悪くしてからは、ほとんど動き回ることができなくなってしまい、下半身を車いすのようなものに乗せてどうにか動くことはできても家の敷地の中だけで、とってもとっても辛かったのではないかと思ってしまいます。そんな生活の中、愛犬は死んでしまいました。両親の話では、歩けなかったことで体の機能が悪くなってしまい、死んでしまったと聞かされました。私が小学校へ行っている間に死んでしまいました。愛犬を看取ってあげることができませんでした。またその時、足を悪くしたのも、何か犬にとって良くないものを食べさせてしまったのかもしれないと聞きました。私は今でも思い出すと、もっと一緒に散歩すればよかった犬と遊んであげればよかったとと時々思い出し、後悔してしまいます。当時の私は犬に対する知識も思いやりも全然足りなかったと思ってしまいます。もっとちゃんと世話をすれば、もっと長生きしてくれたのではないかと思ってしまいます。
子供がわりだった愛犬の死 老いに気がつかない振りをしていたのか 身がよじれるような苦しみもきっと幸せに変換できる
不妊治療が功を奏せず、ひどく落ち込んでいたとき、夫が前から欲しがっていたウェルシュコーギーを迎えようと言ってくれました。ブリーダーさんの元へ通うこと半年。やんちゃなルーを一目見てこの子と決めました。散歩が嫌い、家族以外にはシャイ、食いしん坊、可愛くて可愛くて、私には我が子でした。夫婦喧嘩をすると必ずルーが割って入り、夫に向かって唸りママを庇ってくれました。夢の中で、ルーが車に轢かれ後脚を失ったとき、ママの足をルーにくっつけてあげるから大丈夫、と本気で思い泣きました。子供を産めなかった引け目を忘れるほど愛して共に暮らし、ときに一家3人それぞれ怪我や病と闘い、瞬く間に15年が経ちました。もともとルーは運動が嫌いだったこともあり、その衰えや老化に、私は気づきませんでした。見ないふりをしていたのでしょう。だって耐えられなかったから。他人には犬でも、ママには我が子なのです。子供が親より先に死んでしまうなんて、あってはならない、そんな無茶苦茶なことを信じていました。理屈では犬の寿命をわかっていたし、自分たち夫婦がルーより先に死んでしまうほうが不幸なのだとも。大嫌いな梅雨の直前、ルーは旅立ちました。およそ一年かけて、少しずつ弱り悪くなって、ママに心の準備をさせてくれました。死の半年前からは、あんなに好きだったママのポトフもワンコ用ケーキも残すようになりました。ぽっちゃり愛らしい体を抱くと、残酷に骨を触れました。そして嫌がっていたオムツを受け入れてくれました。私の悲壮な顔を見たくなかったのかな。最期まで無理をさせてしまいました。最後のときが近づいたころ、気が狂いそうでした。ママの心臓も腎臓も肺も全部あげるから死なないで、置いていかないで、一緒に連れて行ってと、無理な願いを言いました。ルーは心臓と呼吸が弱っていく中、私の呼びかけに視線で応えてくれました。酷いママです。苦しむ我が子に最期まで無理をさせました。私の方が、身がよじれる辛さでした。我が子が死と直面しているのに、何故あんなくだらない職場へ行かねばならないのだ?何故職場の連中はこんなにも重大で貴重な時間だと理解しないのだ?何故夫は飯を食えるのだ?眠れるのだ?ルーの死の1週間前から、私は理不尽この上ない怒りを周りにぶちまけていました。自宅での注射や投薬など、時間も手間もお金も考えずできうる限りの手を尽くしました。それはとても恵まれていたのに、当時は気づけませんでした。そしてルーは私の異常な注ぎ込みを拒否しました。あのやんちゃ坊主が、とても静かに、顔を背けたり甘噛みしとりして、私が施す薬剤を受け入れませんでした。薬を飲み込まず、注射は逆流し、流動食を吐き出しました。最後の夜、目が見えなくなっていても、トイレに行こうして転ぶ姿は痛ましく、それ以上に愛しく思いました。うなされるような息遣いのなか、呼びかけるとわずかに声を出し、目を開けました。徐々に呼吸の間隔が開き、最後の最後に激しく痙攣して、それきりでした。劇的なことは何もなく、ルーはただ死にました。私はぼんやり見ていました。朝が来て夫が私たちを見つけたとき、ルーはぞっとするほど硬く冷たくなっていました。どうして涙が出ないのか、自分に腹が立ち、恥じました。後は機械的に、動物病院へルーを運び綺麗にしてもらい、動物葬儀の業者を呼びました。死後12時間で、我が家からルーは消えました。おもちゃ、毛布、ケージ、リード、フード、もう使い道のないものがたくさんあって、やっと泣けました。今思えば、私は生きがいを失う自分が可愛そうだったのです。我が子なんて口先だけで、何者でもなくなってしまうのが怖かったのです。なにもかもひっくるめて泣きました。一晩中夫に八つ当たりして、翌日は出勤しました。ルーが恥ずかしいと思うようなママであってはならない、その意地はルーのためか自分のためか、今もわかりません。同じ悲しみに苦しんでいられる方、泣きたいだけ泣いてください。残酷ですが、ペットの死後1週間しか、泣くのは許されません。他人には単なる犬猫なのです。思い切り泣いたら、たくさんの幸せな時間を思い出して、話してください。それが何よりの供養だとお寺で聞きました。私たち夫婦の心からルーが消えることはありません。あの子が好きな薩摩芋は一緒に食べていますし、旅先へも連れて行きます。奇妙なことがあると、ルーの自己主張だと笑っています。死は受け入れて乗り越えるしかないです。簡単ではなく苦痛に満ちたときを味わいますが、必ず幸せに変換できます。死別の悲しみより、出会えた喜びの方が大きいのです。焦って別の子で穴埋めだけはしないでください。いつも心は一緒、慰めとは思いますが、ご自身の最期まで一緒にいてください。
家族のトラブルを緩和してくれていたうちの愛犬が老衰で亡くなりました
今年の春、うちの子が亡くなりました。老衰でした。だんだん足腰が弱くなり、しだいに耳が聴こえなくなり、目も視えなくなってきました。うちの子は、生後60日で我が家にやってきました。犬を飼うのは初めてでした。とても活発な子で、物覚えも早い子でした。食欲も旺盛でした。身体が丈夫で、年をとるまでずっと健康だったので、手があまりかかりませんでした。うちに来たばかりの頃は、全く吠えなかったので、吠え方が分からないのかと思っていました。おもちゃを鳴らすと遠吠えをするのが面白く、つい何度も遠吠えをさせて遊んでいたら、要求がすぐに通らないときは吠える子になってしまいました。人間がやったら許せないような悪いことも失敗も、あの子だったら全部許せました。うちの家族は仲が悪く、常に言い争いをしているか、お互い関わらないように過ごしているか、のどちらかでした。しかし、あの子が来てくれたことで、それぞれの意識があの子に向かい、家族間トラブルが減りました。何かあっても、各々があの子に相談にいくか、一緒に遊んでもらうか、八つ当たりしているかでした。私は、あの子を抱いていると、過度のストレスで強張っていた身体の力が自然に抜けました。そして、あの子のあたたかい体温を感じていると、ほっとしたのか涙が頬をつたって流れ落ちていました。そんなあの子は、もういません。家の中を見渡しても、どこにもいません。それでも、何をしていても、ついつい目線は下の方をさまよってしまいます。まだ、身体の感覚は、あの子がいたときのままです。家のどこにいても、ここであの子はこんなことをしていたな、とあの子の姿が思い出されます。あの子が亡くなった喪失感は大きく、時々勝手に涙がこぼれてコントロールが効かなくなります。それでも、絶対に忘れたくない大切な記憶です。今は、時間とともにあの子の記憶が薄れていくのが、とても怖いです。忘れたくない。手放したくない記憶です。あの子が、今度生まれ変わるときは、人間に生まれかわり、好きなものを好きなだけ食べ、行きたい所に自由に行き、自分の思うまま自由に生きて幸せになって欲しいと思います。
愛犬の死 獣医選びの後悔 謝罪したい気持ちと感謝の気持ち 大好きだよってなぜてあげたい
犬の「げん」がうちにやってきたのは、私が高校生の頃でした。弟が『子犬の ロクがやってきた』という童話を読んで、親に「犬が飼いたい」とせがんだのがきっかけです。と言っても、「だめだめ、犬なんて飼えないよ」と父も母も言っていたのですが。ある日、父が「ペットショップに行って眺めていたら、こっちを向いてすごく愛嬌を振りまいていたから」と突然、子犬を買ってきました。やせっぽっちで見た目が良いとはいいづらい子犬。「たぶん、売れ残ってたんだろうなあ。安かったし」と父は言いましたが、私も弟も大喜びでした。「げん」はどんどん大きくなりました。シェパードのような体型なのに、日本犬のようにふさふさした巻き尻尾でした。散歩をしていると「お、立派な犬だねえ」と声をかけられて、誇らしい気持ちでした。大きいけれど気が優しい「げん」が大好きでした。「げん」の具合が悪くなった時、私はもう社会人でした。家族の中で、私だけが車の免許を持っていましたが、小さい頃から車に乗るように慣らしていなかったこともあり、近くの動物病院へは母が歩いて連れて行きました。手術をしたものの、うまくいかず、結局その後、私が職場に行っている間に死んでしまいました。母が「あそこはヤブ医者だった。手術室が汚かった」「手術したけど、きっと失敗したんだと思う」と言っていたのを覚えています。今でも、時々「げん」のことを思い出しますが(あの時、どうしてもっと良い医者を探さなかったんだろう)(車に乗りたがらなくて暴れても、タオルかなにかで巻いて乗せればよかった)(もう大人だったのに、なぜ父や母に遠慮して「げん」にしてやりたいことを言い出せなかったんだろう)(歩いて行くなんてきつかったろう)(私には「げん」を可愛がっていたなんて言う資格がない)と思います。なぜ、自分ができる精一杯のことをやらなかったのだろうと後悔でいっぱいです。たくさんの楽しい思い出があるのに「げん」のことを思うとまず一番に思い出すのは、この最後の時のことです。「げん」に会えたらなんて言おう? 「あの時はごめんね」とまずは謝りたいです。子供の頃を一緒に過ごしてくれてありがとうねとも言いたいです。父の気まぐれで家に来た「げん」のおかげで本当にたくさんの楽しい思い出ができました。ずっと大好きだったよと言って撫でてあげたいです。
10歳で亡くなった愛犬 星を見るたびに思い出す
私がそのワンちゃんとあったのは、父親が同じ職場の佐藤さんという人のワンちゃんがたくさん生んだので、引き取って欲しいという時でした。その時、前のワンちゃんがなくなったばかりだったので、ちょっと運命的なことを感じていたんですね。そのわんちゃんは、チワワです。佐藤さんから頂いたのでさとと名づけました。そのさとを引取りに行く時に星がとても綺麗だったのです。そしてまた可愛いワンちゃんをかえると思って、ワクワクしていました。我が家に来て、ミルクをのましたりして本当に大丈夫なのかと心配したのです。その結果、無事元気になりとてもすくすく育ってくれました。しかしやっぱり別れが来るんですね。そのさととも、その時がやってきました。それはさとが10歳の時です。病院に連れて行った時に、これが限界なのでよく生きた方と言うこと。その時、もっと一緒にいたいと泣きながらさとを抱っこしていた。しかしやっぱりさとは、その3日後になくなってしまいました。ずっと一緒にいられることはないと思っていたものの、赤ちゃんの時からずっとかっていたので、その愛情もひとしおです。どうしてこんなに早くなくなったの?そんな悲しみが押し寄せてきました。小さく可愛い目で、よく私を見つめていました。私が仕事から帰って来ると、足元に来て抱っこを迫ります。その光景を忘れることができません。天国で元気でいるのかな?星を見るたびに、どうしているのかと思ったりしています。
産後うつで何年もほったらかしにしていた愛犬 死ぬまぎわの2時間だけなぜかひざの上に。悪口でもいいから話を聞きたい
わたしには溺愛していたポメラニアンがいました。モモと言います。モモと初めて出会った時、「世の中にこんなに可愛い子犬がいるのか」と思った位です。あまり可愛いので、ドッグショーに出してみたところ、わずか1歳2ヶ月でチャンピオンを完成しました。散歩で近所を歩く度に、見知らぬ人から「綺麗な犬ですね」と声をかけられ、わたしの自慢の犬でした。ところが、わたしが結婚し出産した後、産後うつ病に罹ってしまったのです。我が子も可愛いと思えず、体調の悪さから寝てばかりいました。当然、モモの事も放ったらかし。自分がかばってやらなくてはいけない存在は、子どもだけで手一杯だったのです。そんなわたしを、モモはどう思っていたのか。そして、出産から3年経った頃、モモは心臓発作を起し倒れてしまいました。余命わずかと獣医師に宣告されましたが、それでもわたしはモモの面倒を見ようとはしませんでした。2月の寒い日だったと思います。本当に久しぶりにモモを抱っこする気になったのです。自分でも何故だか分かりませんでした。「モモ、おいで」と声を掛けても、モモは恨みがましそうな目をして、わたしに近寄っては来ませんでした。わたしは少し強引にモモを引っ張って、自分の膝の上に乗せました。すると、モモは急に大人しくなり、うつらうつらし始めたのです。その時、子どもは幼稚園に行っており、家族も全員出かけていて、家の中はわたしとモモの二人きりでした。モモは幸せそうな寝顔を見せていました。わたしもつられて、ウトウトしかけた時、突然モモが大きな発作を起したのです。何が起こったのか理解した時には、もうモモは息をしていませんでした。何年も見離していたモモを、最後の2時間だけ抱っこしていたのです。モモはわたしの事をどう思っていたのか、いつか会えたら聞いてみたいです。悪口でも何でも良いから、聞いてあげたいです。
家族同然として一緒に暮らしてきた愛犬の突然の死に数週間寝込んだ
3年前すごくかわいがって、家族同然として暮らしていたランが突然の死を迎えた。死因は心臓発作っだった、わずか寿命8年でランの人生は幕を閉じた。出会いはペットショップにたまたま入った時、目が合って、そのかわいくて無垢な表情に一目ぼれしたのがきっかけであった。その時はまだ小学生で飼うにしても親を説得しなければいけなかったが一週間くらいかけて親を説得し、またペットショプにいったのを今でも鮮明に覚えている。ランが初めてうちに来たときは母親がいつも座っているクッションにおしっこをして、母親が困り果てていたのが懐かしく思う。ランは賢い犬だったので、おしっこのしつけをしたらすぐに覚えたし、お座りやちんちんなどの芸も1カ月くらいで覚えたので我が愛犬はとても賢い犬だと思った。旅行に行くときにも、もちろんランが第一優先だったのでペットが泊まれる旅館を探してランが生きている間はペット可の旅館にしか宿泊しなかったほどだ。ランは散歩がとても大好きだったので毎日1時間くらいはしていた、時折、顔を見て様子をうかがうようにしながら歩いているランはとても愛くるしく散歩中にも関わらず抱きしめていたのを今でも覚えている。幸せな毎日が続いていたが8年目にして突然最悪の日が訪れた、ランはとても元気で毎日のようにはしゃぎまわっていたがその日も同じようにランは元気であったが、お散歩に行こうと合図した瞬間いきなりランが倒れだした、慌てて病院に連れて行ったが先生に診てもらう時にはすでに息をしていなかった、突然の死に感情がついていけなく数週間、寝込んだのを今でも鮮明に覚えている。今でもランは天国で幸せに暮らしているのかなどを考えると、涙が出てくる。
愛犬を失った悲しみでペットロスに5年たった今は回復 時が解決してくれる 動画や写真はとっておくべきだと
かれこれ20年前、アルバイトから帰ってくるとペペ(ヨーロピアンビーグル)がいた。母がペットショップでひとめぼれして衝動買いしたらしい。片手で十分持ち上げられるほどの大きさで異常に可愛いとしか言えなかった。このことは毎月シャンプーをお願いしていたペットショップの店員さんも同意見で、「稀に見るイケビーグル」とおっしゃっていた。それからペペは14年も生きてくれたが死ぬときの体重は20㎏だった。吠えてねだるともらえないので黙ってこちらを見る戦法に勝てる家族はいなかったのでペペはいつも食べすぎだったと思う。死因は急いで食べたときにのどを詰まらせ、そのときのショックで起きた心臓発作だ。今では「食いしん坊のペペらしい死に方だ」と笑って言うこともできるものの、死んでから4か月くらいは、食欲がなく、これまで楽しかったことなにやってもつまらなく、あぁ、これがペットロスなんだなぁ、としみじみ感たものだ。死んでひと月くらいは暇ができると動画を見て涙していた。喫茶店でそれをやった時も涙が止まらなくなりとても恥ずかしかった。もし私が外でそういう人を見かけたら「ペットロスかな?」と思ってしまうかもしれない。親が死んでもそこまで泣けない気もする自分の気持ちから照らして、外で泣き暮れる人はやはり私にはペットロスの人に見えるだろう。しかしながら時の力というのは偉大でどんな哀しみも癒してしまうようであり、死んでから5年ほど経つ現在、ペットロスの気持ちを再現してみようとしても難しい。もし自分がペットロスの人に何か言ってあげるとしたら時で哀しみが癒えた自分の経験を話すことくらいだ。あと、元気な時は実物と遊べればいいや、と、動画や音声(特に!)を積極的に残さなかったのを後悔していますいる。幸い、長めの動画が1つだけ撮ってあったのだが、その中では一回だけ鼻をスンと鳴らしてくれるだけだった。なので今はあの鳴き声(散歩連れてけ!)と騒ぐ声ががまた聞きたくて仕方ない。ワンちゃんは元気な時の姿や声の記録をたくさん残しておくべきですね!