ペットロスを克服した体験談
28歳女 デグーとの別れを育児が癒してくれた
現在31歳で都内のマンションに夫・2歳の娘と3人で生活しています。行動した経緯や時期2015年ころにデグーを購入。私が小さい頃ハムスターを飼ってかわいがっていたことがあり、何か動物を飼いたいと思っていました。ペットショップでハムスターを見ようとしたところ、偶然デグーのケージがあり、その愛くるしい姿に一目ぼれ。またかしこくて飼い主を覚えるという点も魅力的でした。携帯で飼い方や特長を調べて、ごはんやケージなどの必要品を購入してタクシーで連れて帰りました。体調不良の原因2016年秋に私が娘を出産したころから、ペレットフードを主に与えることにしましたが、これが衰弱の原因でした。本来乾燥したチモシーなどの牧草を食べて生きるデグーにペレットフードのみを与えると、齧歯類は歯が伸び続けてしまい、咀嚼ができなくなります。私は出産直後で体が回復しておらず、デグーの飼育方法を十分理解しないままペレットフードのみを与え続けてしまいました。脱毛と衰弱娘が自宅にきてから、デグーは自分の足の毛や体の毛を必要以上にむしり取ってしまい、体のあちこちが痛々しいほどに?げていきました。赤ん坊が生まれたことによる強いストレスが原因だと思います。できるときはケージの外に出したり、なでたりしましたが、以前と比べてデグーとの関わりは減っていきました。またチモシーを食べなくなりペレットばかりを食べるために歯が伸びすぎてしまい、食事量が目に見えて少なくなっていきました。それに伴って体重が減り始め、毛で覆われた体を触ると指先に骨があたるようになりました。病院通いと別れ体重が半分程度になり脱毛もひどかったため、動物病院に何度かいき、ペレットの種類を変更したり、歯を強制的に折る処置もしてもらいました。硬いペレットは食べられないため軟らかくしたものもあげましたが、衰弱が激しくなり最終的に何も食べなくなりました。息をするのも苦しそうで、体を揺らしながら呼吸していました。最期は私の手のひらでしばらく苦しんだ後、天国に召されました。8年~10年の寿命といわれるデグーなのに、我が家にきて2年も一緒にいることができませんでした。その後子供の育児が忙しく、同時に救いでもありましたが、今もペットショップでデグ―を見ると胸が痛みます。私の知識不足と無責任な対応で、大切な家族を長く苦しめる結果となったことを今も強く後悔しています。当たり前ですが、ペットを飼うためには責任感が何より大切です。特に最近は日本では見かけない小動物や爬虫類がペットショップに並び、珍しさやかわいらしさで、つい衝動買いしたくなると思います。私もまさしく衝動買いだったのですが、希少なペットは動物病院での対応事例が少なく、デグーの場合は診察を断られることも多々ありました。ペットを飼う前には正しい知識をみにつけ、近隣の動物病院で受け入れ可能か、長期的に飼育が可能かなどをしっかり見極めて頂きたいと思います。
37歳 男 8年の愛猫 姉の喝で立ち直る
私は37歳の会社員です。以前8年間22歳から30歳のときくらいまで実家で飼っていた猫がいました。この猫は私が県外の学校へ行っていた時に、バイトもしていて、バイト先の酒ケースを置く場所に捨てられていたのが出会いでした。へその緒も付いたままの子猫で、その日は5月でしたが、小雨が降り続いていてとても寒かったのですが、その子猫は雨でできた水たまりのなかで目も開かない状態で必死に「ニャーッ!ニャーッ!」と鳴いていました。最初はどこで泣いているのかわからなくて、しかもその声量はもう少し大きい猫が鳴いているのかと思うくらい大きい声でした。するとまるで親指より少し大きいくらいのみのむしみたいな生き物を水たまりで見つけ、それを触って初めて子猫だとわかりました。お腹がパンパンに膨れて鳴いていたので、死に物狂いで助けを求めていたのでしょう。学生寮でしたが、寮長に「面倒みれるんなら、特別に交渉してみるよ、どうせお前あと半年で地元へ帰るんだもんな」ということで、特別に許可をもらえました。子猫用の哺乳瓶と粉ミルクを急いで探して買いに行きました。大きめのペットショップに売ってたので買って、3時間ごとにミルクをやって、なんとか元気になり、少し大きくなったときに学校卒業と同時に実家へ戻りました。その後、実家の私の部屋で飼い始めました。なんとか実家の環境にもなれてくれて、でも他の部屋へはなかなか行こうとはしなくて、私の部屋がベースでした。私が仰向けで寝ていると、お腹の上に乗ってきて、私の顔にお尻を向けて座るんです。いつも「顔こっち!」と私の顔の方に向けるのですが、すぐにきびすを返してあっちを向いてすわり、でも私のもとを離れませんでした。よくなついてくれました。名前は「ちょべ」ちょっと変わった名前ですが、実家に帰って子猫を見たとき母さんが「ちょべたんかい?」と方言なのかなんなのかわかりませんが、そう言ったので「ちょべ」と名づけました。性別はオスです。8年位生きましたが、晩年は苦しかったです。突然餌を食べなくなり、ゲッソリと痩せていきました。動物病院へ連れていくと、もう手遅れだと言われました。呆然として、ずっといるものだと思っていたので、写真もろくにとっていなくて、慌ててその時はスマホとかなかったので、使い捨てカメラを買ってきて、何枚も撮りました。でも、写真にうつるちょべはまだまだ元気そうな顔なんです。切なくて悲しくて。最後の日の前日の夜にトイレから出られなくなってうずくまっているちょべを見つけ、ベットに寝かせてやりました。姉と母と私が泣きながら見送りました。ペットロスの解消は、正直しばらくはなにもできませんでした。いっそ私も自殺しようかとさえ思いました。ちょべは私に拾われて本当に幸せだったのか、本当に私でよかったか、いろいろ後悔してメソメソしていました。姉が見かねて「そんなに悲しいなら一緒に天国へいけよ!」と怒鳴り、きっと姉なりの愛のムチだったのでしょう。確かにメソメソしていては天国のちょべが可愛そうだ、こんな情けない父ちゃんだったのか、って。そう思い、踏ん切りをつけました。きっかけは姉の泣きながらの喝!でした。それがどんな方法であろうと、姉の思いがちゃんとあったから、私も立ち直れたのだと思います。また苦しい境遇の動物がいたら、自分が救うことを許されるのであれば、育てて一緒に生きていきたいなと思います。
30代男 生きていた証を見てもらいたかった
15年くらい前に飼っていた猫の話です。近所にケガをした猫があらわれ数日間うろついていたため、自宅の庭にて保護したところ、そのまま居着きました。その時猫は4歳くらい、ケガ自体はそんなに重いものではなかったのですが、動物病院の先生曰く、身体があまり強くなさそうだという風に言われました。事実、ケガが直ったあとも吐くことが多く、他の猫との喧嘩で傷を負って家に逃げ帰ってくるということもよくありました。当時は今ほど室内飼育が強く推奨されていなかったこともあり、自由に家に出入りできるようにしていたのですが、身体が弱いことがわかっていたなら外に出られないようにしたほうが良かっただろうなと今でも思います。数年後のある夏休みの朝、隣家の庭で息絶えていました。 前日の夜には与えた餌をいつもどおり食べていたし、はっきりとしたケガなどもなくどうして死んでしまったのか全く原因がわからなかったので、もう二度と動かなくなってしまった体を抱いて自宅に連れ帰ったときはとてもショックでした。朝早くの出来事だったので、その日のうちにペット葬儀屋に連絡してお別れと火葬を済ませました。その夜は悲しみを振り払おうと歌番組やバラエティを見て声を出して笑おうと努めたのですが、やはりふとした瞬間に悲しくなりました。 その後数週間は喪失感が唐突にやってきては涙が出ました。気分が落ち着くようになったきっかけは、ホームページ(当時はまだブログが無かったので)に猫の写真をまとめたページを作ったことです。今はいなくなってしまったけど、たしかに生きていた。 そういう記録を残すことと、それを誰かに見せて知ってもらうこと。それまでは、存在がすべて無くなってしまったように感じましたが、自分の思い出の中だけではなく、誰かに見てもらえる形で残すことで、存在した証をずっと残せると感じられたことが、喪失感を和らげるきっかけになりました。ただ、当時はまだ動画撮影できるデバイスを持っていなかった上に、写真もそれほど撮っていなかったので、もっと残しておけばよかったなと今でも思います。今はSNSで日常的にペットの様子を記録することが当たり前になっていますが、誰かと思い出を共有できれば、その分だけ存在した証を「長生き」させられるんじゃないかなと思っています。
50歳女性 ペットロスは自分ではどうしようもなくただただ時間が癒してくれました
自然いっぱいの田舎で育ち、子供の頃から番犬としての犬の存在が途切れることはありませんでした。親がもらってきたり、捨て犬に見込まれて飼うことになったりと出会いのいきさつはいろいろでした。そんな犬との過去の中で、初めて自分の犬としてお金を出して飼った犬がいます。ダルメシアンのものすごい美犬でした。その頃の自分は今思えばファッションみたいに犬をとらえ、自分でもダメだろ!と首をかしげるようなおかしな愛犬家だったことを認めないわけにはいきません。人間の身勝手な思惑に巻き込まれて来たにしてはもったいない、姿も性格も最高の彼女が、生活の中心になったのも当然です。できることはすべてしてあげたい、犬として最高の幸せをあげたいと思い、オフ会に参加して内気な彼女のダル友になってくれそうなわんちゃんを探したり、川に行って泳ぎを教えたり、海端の公園で何時間も散歩したりと子供を育てるような情熱を傾けました。でも時には散歩が面倒くさくてトイレだけですませたり、雷に怯えて膝の上に乗ってくる彼女に何時間もつきあえないと突き放したりとずいぶんひどいこともしてしまいました。それがすべての後悔の根幹にあります。本当にいつも愛情を注いであげた、と胸を張っていえないから辛いのです。死別はいつかくる仕方のないことだけど、もっとできるはずだったことをしなかったから、別れてこんなに悲しいんだと思います。生きている時に一緒にすごせる貴重な時間を、もっともっと大事にするべきだった。ぴったりくっついて、一秒たりともはなれずにいるべきだった。そんな思いがいつまでもぐるぐると頭に渦巻き、出口がない暗いトンネルを歩いているようでした。結局時間がペットロスをいやしてくれ、心の痛みもずいぶんましになりましたがやっぱり痛いです。これからもたぶん痛いでしょう。死ぬまでもっていきます。忘れることができなくていいんだと思っています。最後に「こうすればよかった」と対策がわかっている後悔をひとつあげます。16歳で老衰のため彼女が亡くなった時、取り乱してしまい、遺骨を引き取ってくることができませんでした。まったく知らないところで土にせず、楽しく走り回った庭に埋めてあげればよかったと、迷いなくいえます。もう自分の犬を飼うことはないけれど、同じ気持ちの方に。
35歳男性、ゴールデンレトリバーを失ってから 再び弟を
40歳男性です。今の犬とその前にゴールデンレトリバーを飼っていましたがそのゴールデンが亡くなった時、母と私はペットロスになりました。ガンで余命、1か月と聞かされてからほぼ1か月で天国へ旅立ちました。いままでいた事が当たり前すぎて、隣に犬がいない虚無感に母も私に打ちひしがれそうでした。 父が早くに亡くなり、ゴールデンを母は息子の様に、私は弟のように思っており、家族が一人増えていた事で心から救われていたと思います。犬は話しかけても返事はしないし、会話にはなりませんが心の思いを母も私もお互いがいない時に語り掛けたりしていました。犬がいない現実をなんとかしたかったのかもしれません、母も私も里親募集のインターネットを見てました。母は1FのリビングのPCで私は2Fで自分のIPADで見ていて、偶然にも今の犬(雑種)のページをお気に入りで見ていた事が夕飯時に会話していてわかりました。「この犬、かわいいとおもうねんけどな」「お母さんも? オレもやわ」早速もらいにいこうか、でもゴールデンが死んで、まもないのにすぐに次の犬をもらいにいくのはゴールデンにとっても失礼なのかな。と思ってました。うちの近所で母と親友の方に相談しましたが。「失礼とか考えずにこうどうすればいいのよ」そのアドバイスがあって次の雑種をもらいに行きました。 最初のゴールデンをもらいに行く時、「絶対に死ぬまで可愛がろう」そう決めてもらいに行きましたが、雑種をもらいに行ったとき、「ゴールデンと同じようにかわいがろう」そう決めました。ペットを失ったとき、どうしてよいのかわからないと思います。私の場合、次の雑種をもらう決断をしてよかったと思います。 前のゴールデンと性格も違う犬ですが、ゴールデンと同じようにかわいがろうと思っています。みている人にアドバイスがあるとしたら、どうしようか決断を迷う事があると思います。犬を飼っていた母の友人の言葉が私たちに響いたように同じ悲しみを持った人のアドバイスを参考にされればよいと思います。私の文章が貴方の一助となれば幸いです。
44歳女 家族みんなで振り返ることがペットロスからの解消になった
我が家は夫、私、息子、娘の4人家族です。今から10年前に初めてペットを飼いました。日曜日に家族で出かけたホームセンターのペットコーナーでネザーランドドワーフとホーランドロップのミックスウサギと出会いました。生まれて3ヶ月ほど経っていて大人に近いためか、あまり目立たないところにいました。私はその子がどうしても気になって、その場を離れることができなくなり、それを見ていた夫が見兼ねて飼うことを許してくれました。その日から彼女はうちの三番目の子供となりました。それから7年間は私たちの家族として、私達の心の支えとなり安心を与えてくれる大切な存在に成長していきました。家族4人が出かけて長い時間一人にされた際には、私達に背中を向けたままでいたりとすごく甘えん坊さんでした。7年後、乳がんが見つかりました。かなり進行していて、すぐに緊急手術をしましたが、余命2ヶ月と診断されました。何も知らないように私を見つめる姿が今でも忘れられません。それから毎日のお薬の時間は私と彼女の格闘の時間となり、関係がギクシャクすることもありました。噛みつかれることもなかったのに噛み付かれたり引っ掻かれたり。涙が止まりませんでした。元気な時は、どちらかというと食いしん坊な方でしたが、日に日に食事の量も減り、痩せ細っていく姿を見るのは本当に彼女にとっても私達家族にとっても辛い時間でした。でも毎日頑張っている彼女に元気をもらい、治療を続けることができたのは本当に感謝です。余命宣告から3ヶ月後に彼女は私達家族に見守られ亡くなりました。抱っこを嫌がり、ちょっとすました彼女でしたが、亡くなる瞬間に今まで聞いたことのないキーキーという声で私達にお別れを告げ、初めての抱っこをされたまま息を引き取りました。「お別れを言ってくれたんだね」みんなでそう話し涙を流しました。「いい子だったね」「頑張ったね」「私達も頑張らなきゃ」と子供達から自然と出てきた言葉に彼女の存在の大きさを感じました。やれる事を精一杯やったと思った看護も今となっては少し後悔しています。余命が長くはなかったので、「あの時、手術をせずに少しでも痛い思いを減してあげたらよかったのかな」「長く生きて欲しくて手術したのは私達の勝手だったのかな」と思うことがあります。ですが、7年も一緒に居たんです。私達の気持ちは届かないわけがありません。彼女は賢くそして礼儀正しい子です。親バカですね。それでいいんです。彼女との別れが辛ければ辛いほど、幸せな時間だったことは間違いないのです。私達の不器用な愛情もきっと届いているはずです。毎日、彼女の話をしないことはありません。彼女のことを忘れるのではなく、楽しいことと共に振り返ることができるようになれたのは、最後まで一生懸命に生きようとした彼女に恥ずかしくないように毎日を前向きに生きて行こうと家族で話しているからです。
あの子ほどカワイイ猫はいないなあ
専門学校で知り合った友達が猫を飼っていて、その猫が赤ちゃんを産んだ話を聞きました。そして最後の黒猫が貰い手がないということでした。親の仕事柄、猫は飼えないと諦めていましたが、なぜかその時は、飼えるんじゃないかとの確信が強く、「その子私が欲しい」と友達に宣言していました。得意の事後承諾、強引に、ケージに入ったその子を自宅に持ち帰ると、両親は今考えても本当に不思議なほど怒りませんでした。一人っ子の我が子に、何か自分たちには出来ない教育、与えられない経験、そんなものをこの黒猫が与えてくれるんじゃないかとでも思ったのかもしれません。それは当たっていました。心の底から愛おしいと感じる、感じることがどれほど無敵なことか知りました。無償の無敵、いるだけでいい。何があっても「ああ、出会って良かった」という100パーセントの愛情を経験できたことは幸せでした。それほど唯一無二の宝物であっても、それでも私は死に目に立ち会えませんでした。その日、職場へ母から連絡が入り、急ぎ帰ると、泣き顔の母の腕の中で亡くなっていました。泣きながら「なんでもっと早く帰ってこなかったの?!」と責める母に言葉は出ませんでした。死の数週間前、弱った身体を横たえることが多くなりました。そんなある日、急に身体を起こして階段のほうへ歩き出しました。驚くことに階段を昇り始めたのです。ゆっくりゆっくり。昔はもの凄い勢いで上り下りしていた階段。昇り切ると部屋の奥に進んで窓際に横たわりました。2階に来るのは久しぶりだね、話しかけると眠そうにゆっくりと瞬きし、窓から注ぐ柔らかな陽の光を黒い毛並みに受けていました。私はその姿があまりにも神聖に見えたので、カメラで撮らずにいられませんでした。私が初めて家に連れてきてケージから出した途端に、狂ったように滑りながら走り回った、この2階の部屋。専門の葬儀社に連絡を入れたのは母でした。電話口で号泣しています。何年生きたのか問われて、23年ですと答えたところ、「偉かったですね、褒めてあげてください」と言われたそうです。本当に偉かった。同じような経験をして、何かを求めて今この文章を読んでいる人に言えることは、私でさえあなたのかなしみを理解できないかもしれないということです。それはあなただけの貴重な経験だからです。あなたにしか乗り越えられない体験になるからです。正直当時のことを私は憶えていないのです。もうずいぶん経ちます。甘えん坊だったあの子も今は私の心の中に居場所を移しています。そして、時々、猫を見るたびに、「あの子ほどカワイイ猫はいないなあ」と思ってしまうのです。
37歳男性どのようにペットロスを解消したか
私は以前犬を飼っていました。シベリアンハスキーの雑種犬です。中学3年生の時に友達の飼っていた犬に子供ができてそれを貰ってきたのがはじまりでした。まだ生後3か月ほどで小さく自転車のかごに入れて家まで連れて帰ったのですが何度もかごから出ようとしてて結局自転車には乗らずに押して帰った事を覚えています。私の家ではそれまで飼った事あるペットがリスなどの小動物ばかりだったため最初はわからない事だらけでした。こんなちっちゃな子犬時代から散歩連れていくのかな?とか餌はどんなものを上げたらいいのかな?とか夜になると寂しそうに鳴いてるので一緒にいてあげたほうがいいのかな?とか思う事は色々ありました。さすがにシベリアンハスキーの雑種という事もあり大きくなるまではとても早かったです。元気いっぱいに育ってくれました。お気に入りの玩具はテニスボールで「投げて投げて」って感じで人さえいれば手元にボールを持って行ってました。甘えん坊という事もあってやっぱとてもかわいかったです。そんな幸せな時を長く過ごしていましたが14歳のとき突然下半身が一切動かなくなってしまうという出来事がありました。まったく血が通わなくなり下半身だけ冷たくなってました。動物病院につれていっても埼玉にある動物病院でしか手術はできないと言われ、血が通わないまま放っておけばやがて下半身が腐ってしまって死に至る、と(ちなみに当時は高知県に住んでいました。)結局手術は断念せざる得ず、でも下半身が腐ってしまってそのまま死ぬのを黙って見ている事もできず、下半身を揉んだりして何とかできないかと藻掻いていました。少しずつ足が腐り肉片が落ちたりすることもあり骨が見えてる部分も少しありました。ある時ずっとマッサージを続けていると下半身が血まみれになってしまった事がありパニックになって動物病院へ連れていくと「おや?血が通い出したんだねぇ?」と血が出始めたのは下半身はもう動かなくてもこれ以上腐ることもなくこれから身体を再編させる準備との事、これによる死は回避できました。でもシベリアンハスキーの平均寿命は11歳前後と言われています。すでに14歳を迎えており、一時的に足を引きずりながらも前足だけで動いたりと元気になっていましたが、1年後のある日、朝からずっと遠吠えを続けていておかしいな?とは思ってたのですが夕方あたりから足先からどんどん冷たくなり夜遅く、すでに遠吠えする力も残っていないのにそれでも少しでも「ワフ・・・ワフ・・・」と吠えてて最後はその声もなくなり・・・息を引き取りました。それから翌朝ペット霊園にて火葬をしてもらったのですが母が「全部煙になってしもうた・・・」と言った時涙がこらえられなくなりました。それからはずっと悲しいままずっと火葬された山の方向を見ては溜め息をつく日々でした。当時働いてた職場はその山の近くにあったため毎日山が見える位置であったため他の方よりペットロスを解消するまでには時間がかかったかもしれません。ある日、仕事から帰って玄関をあけると・・・中で子猫が待っていたのです。え?なんで?と思いながら家にいたお祖母ちゃんに聞くとお祖母ちゃんが買い物に行った帰りにそのままついてきてしまったんだとか・・結局その猫をそのまま飼う事になったのですがそれも最初はわからない事だらけで大変でした。でもペットロスはそこで解消されたのだと思っています。ただ今もこの記事を書きながら涙しているのでペットロスは今も少しはあるのかもしれません。最後ですがペットロスは何か夢中になることがおきれば少しずつではありますが自然と解消されるものと思ってます。何かを思い出す時はペットロスの悲しみより、そのペットと暮らした楽しい日々を思い出してください。自然と悲しみではなく楽しかったなって思えます。あまりまとまった文章ではありませんでしたがこれが私と飼っていた犬エルとの思い出でした。ありがとうございました。楽しい日々を思い出として
10歳、女 時間の経過とともにいい思いでとして思えるようになった
40代の専業主婦です。この子は初めて飼ったペットでした。セキセイインコを2羽飼いました。黄色い子と、青色の子です。父親が知り合いから譲りうけたそうです。ペットは飼ったことが、なかったので本当に嬉しかったのを覚えています。餌をあげたり、鳥小屋の掃除をしたり何でも世話をしたくてしょうがなかったです。そんなときに黄色い鳥は、病気でなくなりました。家にきて半年も経っていないときでした。小学生と言う子どもだったこともあり、すごくショックでした。ずっと一緒に遊んだり出来ると思っていたので、そのときはすごく落ち込みました。しかし、落ち込んでばかりはいられません。青色のセキセイインコの世話を一生懸命頑張りました。病気になっては嫌だと思い、自分なりに一生懸命お世話していました。見た目もかわいかったですが、とても人懐っこくて可愛い鳥でした。その子も、2年経ったころ病気になって亡くなりました。生まれて初めて飼った、鳥たちでした。可愛かったし、いろいろとお世話もしてきました。病気なのでしょうがないことは、今ならわかります。しかし、子どもの頃だったのですごくショックでした。いつもいた鳥小屋がなくなり、鳥の鳴き声もしない。まえは、それが当たり前だったのに急に聞こえなくなるとすごく気持ちが落ち込みました。今まで味わったことがなかった気持ちを知った時だったと思います。あの時は落ち込んで、暗くなったり、泣いたりすることがありました。しかし、時間が経つにつれて徐々にいい思いでとして考えられるようになったと思います。一緒に過ごした時間は、確かに楽しかったし、すごく充実していました。それは時間がたってきちんと気持ちの整理ができたから思えるようになったと思います。しかし、たまに何かもっとしてあげれたかなと考えるときもあります。それはきっとペットを飼った事があるかたなら感じた事があるかもしれません。どんなにいろんなことをしても、後悔することはあるのかも知れません。
42歳女性、家族でペットのエピソードを思い出し、笑い合っています
愛犬が亡くなって気付くともう3年ほどが経ちます。活発でしたが、気が強く、自己主張の強いタイプの子でした。犬種はミニチュアダックスで、その中でもわりと小柄だったので、見た目はかわいらしかったのですが、媚びを売る様子もなくドどしんと構えているような真の強さを持っていました。亡くなった時はもう高齢で、犬年齢では18歳間近でしたが人間での年齢でいうと80歳も超える年齢でした。彼女が一切になる前から家族として一緒に過ごしてきていたので、日々に感謝することもなく、ただ、当然のように年老いていうのが当たり前のようになっていたと思います。毎年できないことが増え、寝ている時間が多くなっていき、痴呆気味な部分も見えていました。そんな夏のある日、家族で海水浴に出かけました。もちろんペットも一緒に連れていきましたが、あまりの楽しさに急遽一泊して帰ろうということになり、私たちは小さなホテルへ泊まり、彼女を近隣のペットホテルに預けたのです。いつもだったら、事前にどんなところなのかチェックしてお泊りをさせるのですが、その時は、近隣にホテルもあまりなく、目についたところに連れて行ったのです。結果的には、そのホテルが管理がずさんなところで、その日以来調子が悪くなり4日後に亡くなりました。あの時、迎えに行くと水を浴びるように飲んでいたので、熱中症だったのかもしれません。その時の事を思うと今でも後悔が襲います。ずさんなペットホテルに対しての憤りではなく、なぜ、あの日に限って急遽泊まることにしたのか。なぜ、下調べもしていないようなホテルに彼女を預けたのか。あの時、体調を崩してなくても遅かれ早かれ老衰していくことは明らかでした。それはわかっていますが、やはりあの時、私の軽い判断で彼女を苦しめる結果となってしまったことはとてもつらく感じました。その後悔は今でも消えませんが、今は、元気に走り回っていた彼女の思い出を思い出すようにしています。もうどうにもならないのだから、一緒に出掛けた楽しかったことを笑い話にして家族で思い出しています。今、ペットが元気いっぱいでも、いつかは必ず見送ってあげなければならない現実がやってきます。それは仕方のない事ですが、どうか、常に言葉を話さない家族の事を気にかけ、後悔のない毎日をペットと過ごしてほしいと思います。