ペットロスを克服した体験談
41歳女 彼の死を生かして生きていく
17年間家族の一員だった愛犬が亡くなりました。その最後の数年、私は実家を離れていたので、帰省するたびに彼に会えることをとても楽しみにしていましたし、半面で、会っていない間の老化も目の当たりにし、胸が苦しくなりました。晩年は、白内障もあって、あまり見えていないとのことでしたし、数年前までは散歩に行くと、こちらが引っ張られる風だったのに、そんな勢いもなくなっていました。自分の半生を共に過ごしたわけで、いつのときも一緒にいました。庭で飼っていたので、夜中に雷がなると、くぅくぅという鳴き声で目が覚め、パジャマのまま外に出て、彼を玄関先に連れてきては、翌朝母に怒られたり。それは、母が一番世話をしていたので、玄関が臭くなるということと、はしゃいで玄関を汚してしまう掃除を母がしていたからでした。私がやれば良かったのに、その頃はかわいがるものの、掃除や散歩などは母任せにしていたのです。母もキャリアウーマンなので、朝はとても忙しく、散歩は5分くらいでした。本当に、心底後悔しているのですが、なんで私がちょっと早く起きて十分な散歩に連れて行ってあげなかったのだろうと、何でもっと外で走り回らせてあげなかったんだろうと、今でも後悔で後悔で、申し訳ない気持ちになります。あっちに行きたいのに、リードを引っ張ったり、もっと走りたいのに家に帰ってきたり、あの頃の私をぶん殴りたいような、そんな気持ちになります。最期のときは、誰も側にいてあげれなかったのです。残暑の夕暮れ、仕事から帰ってきた母が倒れていた彼を見つけました。それを聞いて、涙が止まりませんでした。あんなに長く一緒にいてくれたのに、私はもっとできることもあったのにしなかった、後悔と懺悔の気持ちで胸が張り裂けそうでした。あれから数年経ちますが、未だに思いだすと涙が出てきます。でも、彼が亡くなってしばらくして、私の妊娠が分かり、今母になって、愛情を注ぐことの大切さを身をもって感じています。子供のトイレの始末もなんてことありません。だって愛する子供ですから。時を戻して、もっと彼を大事にしてあげたいという思いは募りますが叶いません。でも、彼の存在を忘れずに、一生反省しながら、彼が教えてくれたことを大事に心に留めて前に進んでいます。
31、女性、夜間ウォーキングで、月のうさぎとお話をするのがペットロス解消法
はじめまして。私は都内で一人暮らしをするOLです。私の住まいはマンションですので、基本ペットが禁止されています。しかし、小動物であれば問題ないとのことでしたので、一人暮らしの寂しさを紛らわすために、うさぎを飼っていました。もともとハムスターか亀でも飼おうかなとペットショップを訪れたのですが、その時まだ生まれたてで店頭には出されていない、段ボールに5、6羽もぞもぞ動いている子ウサギを見て一目ぼれし、その場で即購入を決めました。当時うさぎの購入価格は7000円程度で、飼育道具一式を購入してもそこそこの金額内で納めることができたのも魅力的な点でした。家に連れて帰ってからは、家中のあちらこちらを噛まれてしまい、大変だった記憶があります。特に、コンセント類はほとんどだめになってしまいました。正直、ウサギの飼育道具一式より、コードをかまれてしまい壊れてしまったドライヤー等の器具の買い替えの方が、お金がかかったような気さえします。しかし、どんなことでも許してしまうほど、私は彼女に溺愛をしており、家に帰ることが何よりの楽しみになっていました。一緒に生活をしてから2年ほどのこと、いつも通りトイレの清掃をしようとしたところ、血の塊のようなものを見つけました。女の子なので、さては生理がきたのかと思っていたのですが、ネットで検索しても、うさぎに生理のような現象はないと書いてありました。いてもたってもいられず会社を休み、そのまま動物病院へ駆け込みましたが、血尿がでてしまうと、小動物、とくにうさぎなどは体力が持たず、手術をする方がかわいそうだと説明を受けました。目の前が真っ白になったような気がして、何をしていても気が気でなく、現実を受け止めることがどれだけつらかったか、今でも思い出します。そして、その1週間後に、突如お別れとなってしまいました。彼女がなくなってからは、何をしていても力が入らず、生きることとはなんなのか、そんな哲学的なことを慢性的に考えるようにもなりました。四六時中涙もとまらず、泣ける曲を聴いてとにかく好き放題泣いていました。仕事帰りの雨の日に、何の気なしに少し遠回りして帰ってみようと思い、のんびりと歩いてたどり着いたのが、皇居でした。気づいたら、1週ぐるっと約5キロ、苦も無く歩いていました。疲れ切って、ぐったりと疲れて寝ることが、その時の私には、何より頭を休ませるいい時間だったように思います。それからというもの、よく皇居へ足を運び、ゆっくりとウォーキングをするようになりました。そこでは、本当に多くの人がウォーキングやランニングをしていました。夜になれば、夜空に満点の月を観ることもできました。月を見ながら彼女とお話をするのが、しばらく日課になっていたように思います。私が彼女とお別れをしてから、もう7年がたちますが、今でもたまに、皇居をウォーキングしています。月が見える日には、今でも彼女とお話をしています。
37歳男性 においの染みついたタオルでペットロス克服
現在37歳の男性です。高校1年から大学4年まで飼っていたプレリードッグが虹の橋を渡った時の体験です。高校生になるまでは金魚やカエルといった水槽で飼育できる生き物を飼っていました。母はインコを飼っており、休みの日になると近所のデパートまで餌などを買いに行っていました。デパート内に魚や犬猫、ハムスターなどを扱っているペットショップがあり、動物を見るのも好きだったので、よくついていきました。すると今まで見たことのない「プレリードッグ」というげっ歯類の赤ちゃんが売られていました。犬猫のように大きくなく、手のひらで可愛がれるくらいの赤ちゃんプレリーに一目ぼれし、母におこずかい交渉を行いその日のうちに家族になりました。プレリードッグは小型犬のように「キャン」と鳴くのが特徴で非常に活発で、大人になりきるまでは発情期の攻撃性があったりと大変苦労しました。しかし大人になって落ち着いてくると、母の飼っていたインコを背中に乗せたまま室内を散策したり、リードをつけて近所を散歩したりと、多くの思い出を一緒に作ることができました。特に思い出深いのは、私が夜寝る時に部屋の電気を消すと騒ぎだすようになったことです。暗いことが怖いわけでもなさそうなのに何で騒ぐのかとある日ケージの扉を開けたところ、ケージから私のベッドまで真っすぐと向かってきて、私の枕もとで寝始めたのです。最初はそのまま寝て、つぶしてしまったりどこかへ逃げてしまうかと不安でしたが、朝になっても枕もとや枕の下敷きになっても伸びて寝ていたり、私の脇に潜り込んで肩枕で寝てたりすることが増え、次第に一緒になるのが当たり前になりました。そんな日々を送りながら大学に入学し就職活動をし始めたくらいの時、だんだんと元気がなくなってきているように感じ、近所の動物病院へ行きましたが、当時はプレリードッグを診察してくれる病院がなく、リスだったらわかるけど、こんなに大きなプレリードッグは責任が持てないと診察を受けることもできませんでした。今ならネットでいろいろ検索できるのに、当時は家庭にパソコンが普及し始めた矢先、裕福でもなく興味もなくパソコンを買っていない家庭では、どうすることもできませんでした。餌をふやかしてあげたり、鼻が詰まって息苦しそうなときは吸って取ってあげたりとすることしかできず、家族で弱っていくのを見守り、手が空けば撫でてあげることしかできませんでした。そしてある日家から電話があり、もうそろそろと言われ、慌てて帰りましたが間に合わず、虹の橋を渡ったばかりでまだ温かい体を一晩中抱きしめて一緒に寝たのを鮮明に覚えています。悲しくて泣いたりするというよりは、喪失感から心にぽっかりと穴が開き、その穴が大きな存在感を発しているような感じでした。翌日家族で冥福を祈り、これまで魚やインコがなくなった時に埋葬していた庭の一角にプレリードックも土葬しました。ケージなどはその日のうちに処分をしました。大きな悲しみが迫ってくるような恐怖感があったからです。でも一緒に毎日のように寝ているときにかけてあげていたバスタオルだけは洗濯や処分をする気になれず、いつも寝る時は枕もとにおいて匂いを嗅ぐように寝ていました。心とは裏腹にいろいろなものを早く処分したのに、いなくなった喪失感を埋めるために匂いだけは失いたくなかったのです。土葬した庭に行くのも当時は不安や恐怖から避けていたのを思い出しますが、それでもバスタオルの匂いだけは離せませんでした。当時私はなぜかバスタオルを何枚もベッドに持ち込む癖があり、枕もとには枕と同じ大きさくらいのまるまったバスタオルが積んでありました。母が勝手に持っていき洗濯をするのですが、匂いが染みついた一緒に寝ていたバスタオルだけは何も言わずとも洗わずにいてくれました。そんな日々が続き半年もすると、母が「もう大丈夫ね」と私に話し始めたので不思議に思っていると、匂いのついたタオルもこっそりと洗濯をし始めていることを話し始めました。洗濯されたタオルと混ざり匂いがなくなっていくのに気が付かず、徐々に洗濯された匂いをプレリードックの残り香と勘違いしているようでした。そんな特に何をしたわけでもない、自分の認識が変わっていくことに気が付き、ふと寂しさと悲しさが押し寄せてきてしっかりとした喪失感を味わったのを覚えています。そして泣き止んだ時には、なぜか前向きに、自分を自分で励ませるようになっていました。そして一枚だけ残していた写真を額に入れて部屋に飾り、心で語りかけられるようになりました。動物の話になると泣いてしまうよくあるペットロスというよりは、死に直面して受け入れることができず見ないふりをし続けていたペットロスだったのだと思います。時間の解決とも言えますが、その間常にに残り香と共に生活し心が壊れるのを救ってくれていたのだと思います。逆に匂いが残るほうが長引きそうなイメージもありますが、心で亡くなったペットにすがるより、物に感情を移したほうがもしかしたら何かのきっかけで回復することがあるのかもしれません。あれから15年、今は4年前からフェレットを飼っています。やっとまた動物を飼う心が整ったのだと思います。そして今回はしっかりと世話をして調べて何かあったら治療し、笑顔でお別れができるよう頑張っています。そしていつもテレビの隣に置いてあるプレリードックの写真を見ては、当時一緒に寝てくれた姿を思い出し、フェレットと一緒に寝るために奮闘しています。
32歳女 最愛であるデグーマウスとの死別から立ち直ったブログ
私がペットロスを解消した内容としまして、私は、30代前半の専業主婦であるのですが、私は、ハムスターやデグーマウスなど、掌サイズのペットを飼うのが非常に好きで、毎日ハムスターやデグーと掌に乗せて遊んだり、楽しく話しかけたりしております。中でもハムスターよりも一回りか二回り大きいデグーマウスにつきましては、寒冷地の高原に生息する生き物であるのですが、暑いのが大の苦手で色々対策もさせて頂いているとこなのですが、まず名前を付けて呼んであげるとすぐにゲージごしに、鼻をクンクン擦り付けて餌をねだるポーズをするのです。これがたまらなく可愛くて毎日名前を呼んで餌を上げるような形で、名前を呼んでおります。時にはゲージから出たい素振りを何回もするのですが、その度に定期的に部屋の中を閉め切って遊ばせるようにしております。糞も全然気にならない位の草の臭いで、ペットとして飼うには自分の中でかなり上位の生き物であると思っております。そんな愛用のデグーマウスですが、非常に可愛がって毎日話しかけていたのみも関わらず、突然息絶える形になってしまいました。私はそれが悲しくて溜まりませんでした。家族同様で接してきた形でありましたので、急に居なくなられるような形で、家族を亡くした失意に陥れられた感覚に失意のどん底に陥ってしまいました。そんな急なペットロスにより私を窮地から奮い立たせてくれたのは、とあるWEBサイトの閲覧内容でありました。私以上に、赤ちゃんの頃から触れ合ってきた愛犬と急に死別するような形でペットロスになってしまった方でも、悲しんでいるだけでは何も始まらないとまた、同じ犬種の犬を飼うことでまた再び愛せるようになったと言う記事を見て感涙ものでありました。ここから再起してまた新たに新しいデグーマウスを飼わせて頂く形になり、同様に愛せるようになり、ペットロスから解消される形になり、ブログを作って下さった方には大変感謝しております。
25歳男性 自分がペットの存在価値を高める
私は、25歳男性です。当時、16歳の頃にハムスターを飼育しておりました。元々は、私の3歳下である妹が飼いたいとのことで、飼育することになりました。私は、生き物が大好きですし、ハムスターが飼われる以前にも私自身がカブトムシを毎年飼育しておりました。ハムスターは大人のメスのサファイアブルーのジャンガリアンで気が強かったです。よく噛んできましたが、可愛いハムスターでした。2年ほどで亡くなりました。亡くなった状況としては、私が学校から帰宅した時に母から教えてもらい、ハムスターを見に行ったら横になって死んでおりました。その時の心情は、「そっか。死んでしまったか」という感じでした。その時に涙は出ませんでしたが、夜はベッドの中で泣いてしまいました。翌日は、家の前の土に埋めました。それ以降、毎年命日にはお参りをしておりました。亡くなる直前は動きがヨボヨボしており、毛もよく抜けていたので、予感はしておりました。病気でも事故でも無いし、ハムスターとしては、長生きしたかなと考えたのですが、もっと改善できることは無かったかと数週間は悩みました。何よりも、うちに来て幸せだったのかが1番気になりました。やんちゃなハムスターだったので、少し厳しく躾けてしまった時もあり、後悔といえば後悔の念はありました。もしも、あなたが生き物を育てているとしたら、その生き物の死後に感じるあなたの想いまで想定して育てて下さい。今の育て方であなたは後悔しませんか。何よりも、その生き物は幸せそうですか。お互いが幸せになる生き方を貫きましょう。それと、もし、既に飼っていた生き物が死んでしまっており、自分の飼い方などに後悔があって悩んでいる方は、飼っていた生き物に是非とも感謝をして下さい。大切な者の死に直面する事は、そうそうありません。あなたには、これからも大切な他者が増えるはずです。あなたの感情を後悔の方向へ揺さぶる経験は、1度だけで良いはずです。その経験が大切だと思えれば思えるほど、亡くなったペットの存在は報われるでしょう。生き物という相手を操作して、完璧な思い出は作れません。お互いの相互作用でより上を目指しましょう。あなたがより良くあろうとすれば、あなたの存在価値とともにペットが死んだ意義も自ずと高まります。
30歳女 一緒にいてくれたウサギに感謝の気持ちを込めて前を向く
私は30代の女性です。私の家族は人間が4人とネザーランドドワーフの雌ウサギさんが1羽が一緒に住んでいました。ウサギさんとの出会いは彼氏さんが一目ぼれして彼氏さんのアパートに連れて帰ってきたのがきっかけでした。合鍵でアパートに入るとすでにゲージがあり、私が入ってきた為か小屋の後ろに隠れていました、丸見えでしたが。どうしたら良いのか分からずでしたが怖がりなのは予想が付いたので彼氏さんが帰ってくるまで放置したのを今でも覚えています。彼氏さんはウサギさんがビビりなので名前を「ビビ」と名付けました。はじめはゲージの扉を開けても出てきませんでしたが、少しづつビビの世話をし餌をあげ掃除をする中で少しずつ慣れたのか扉を開けると自分から出てきて部屋の中を探検していました。月日も過ぎて彼氏さんが旦那さんへと変わってビビも私の本当の娘になりました。その後、人間の子供も生まれ、そのたびにゲージを襲われて怖い思いをしてきたであろうビビ、一緒にお昼寝したり子供がお世話係になりブラシをかけてもらったり時には噛んだり動物に優しくしなくてはならないと人間の子供は覚えました感謝しかありません。夜になると夫婦の晩酌相手にもなってくれて良く旦那さんとじゃれていました、癒されました。どんなになれてもビビは自分から人間の膝や手には乗ってくれませんでしたが頭を撫でろと手の下に良く入り込んできたのを覚えています。ビビと出会い8年がたった頃、私は病気になり入院することになりました。家族のことが気がかりでしたが仕方がありませんでした。半年が過ぎた頃。夜、旦那さんから電話がかかってきました。普段はメールばかりだったので慌てて出ると泣いていました。「ビビが死んでしまった。弱弱しくてビビが自分から俺の膝に乗って動かなくなった」っと言ったのです。すぐに涙が沢山でました。すぐにでも会いに行きたかったけど、それは叶いませんでした。私の事は待てど暮らせど帰ってこないとビビは思っていたかもしれません。旦那さんは朝になったら庭にお墓を作り子供たちと一緒に埋めると言いました。その夜は持っているビビの写真を眠れずに眺めていました。その後、少したって私は退院することが出来ましたビビが私の病気を一緒に連れて行ってくれたのかもしれません。もっと相手してあげればよかった、入院しなければビビの異変に私が気づいて病院に連れて行けたかもしれない。沢山の後悔が頭の中を過りましたが、もう撫でてはあげられないので「ありがとう」を沢山考えたいと思っています。彼らは人間より早くに死んでしまいますが人間に沢山の事を教えてくるパートナーです、どうぞ出来だけ寄り添ってあげてください。
39歳女性 猫友達の優しさに癒されました
猫好きで以前に3匹猫を飼っていました。3匹とも捨てられていた子達でした。今はもう3匹ともいなくなってしまいましたが、特に最後の子について書きたいと思います。やはり猫好きの友達が「子猫生まれたから見に来て~!」と連絡をくれたのが、そもそもの出会いでした。すでに2匹拾っていたので(今回は見るだけ!)と心の中では決意していそいそと友達の家に出かけていきました。可愛い子達が4匹ヨチヨチと歩いている姿を見ただけでも幸せを感じていましたが、そのうちの1匹が正座をしていた私の膝にヨジヨジ登ってきたあげく、寝てしまったのです。膝で小さく丸まって寝ているその姿を見たら、先ほどの決意はあっさりと崩れ気づいたら「もらって帰るね!」と家に連れてきてしまったのです。とにかくすごい人懐い子で、家族にも他人にも愛想よくみんなから愛される子でした。ただ、子猫の時から先輩猫と比べて水を飲むのが少ないなあとは思っていたのですが、やはりそれも原因となり尿結石が重くなっていったのです。だんだんと血尿になってしまい、トイレに行っては苦しそうにしている様子を見て本当に可哀想でした。病院に行っても何度も再発し、結局少しずつ弱っていく姿は辛かったです。最後は自宅で静かに亡くなりました。まだまだ若くて、元気だったのでまさかこんなに早くいなくなるとは思わずにしばらくは呆然としていました。トイレにもついてくる、お風呂にもついてくる、猫ながらまるで忠犬のような子だったので、寂しさはひとしおでした。そんな寂しさを癒してくれたのは近所の猫友達です。猫はペットと頭ではわかっていますが、それでもかけがえのない家族の一員です。近所の猫友達は共に涙してくれて、手紙やちょっとしたプレゼントを届けてくれたりしました。「あの子は本当に可愛かったよね…」と思い出話をしてくれたのも助けになりました。共に泣き、悲しみを共有してくれる仲間を見つけることが大きな支えになると実感しました。もし近所に猫友達がいないと言う方ならSNSなどで猫好きな方と思いを共有されたらいいかもしれません。1人で悲しむのもたいせつですが、誰かに慰めてもらうのもペットロスを解消していく大きな助けになると思います。
28歳女 老犬になって気づいた愛犬の大切さ
去年の夏、愛犬が旅立ちました。その愛犬とは小学生のときに出会い、親に頼み込んで迎え入れました。ずっとワンちゃんを飼いたかった私はとても嬉しくて、迎えてからいつも散歩やご飯をあげるなどをしていたと思います。でも、中学生になると、部活なども始まり愛犬の世話などはほとんど親に任せっきりになってしまいました。大学進学を機に家を離れ、一人暮らしをするようになったのですが帰省するたびに嬉しそうに迎えてくれる愛犬の姿を見て、今まで以上に愛犬を愛するようになりました。とはいえ、大学を卒業し実家に戻ってからも仕事などで世話をあまりすることはありませんでした。だんだんと老犬になり、元気も食欲もなくなっていく愛犬の姿を見てようやく「世話ができる当たり前の状態がどれだけ素晴らしいことなのか」を意識しました。それからというもの、できる限り世話をするようになりました。あまり与えていなかったおやつや缶詰もあげるようにしました。そして迎えた去年の夏。とても暑い日でした。外飼いだったので家の中に入れようとしたのですが親に反対され、外に出したまま外出して帰ると亡くなっていました。今思えば怒られてでも家の中に入れるべきだったと、とても後悔しています。朝は元気だったのに、帰ると動かない状況が理解できずただ泣くことしかできませんでした。愛犬が亡くなって一年が経ちましたが、思い出さない日はありません。ただ、気持ちは少し変わりました。今は「心の中に愛犬は生きている」と思っています。そう思うことで悲しさは和らぎましたし、実際心の中で生きていると思います。今、ワンちゃんを飼っている方、これから飼おうと思われている方、ワンちゃんの一生はあっという間です。一日一日を大切に、ワンちゃんの世話をしてほしいです。そして、夏の暑さはワンちゃんにとっても大敵です。動物だから大丈夫ではなく、熱中症にならないように工夫をしてあげてください。また、悲しいですがいつ亡くなるか分からないので、慌てないように火葬場を調べておくことをおすすめします。
42歳女・愛猫の突死から3年、救ってくれたのは野良猫たちでした
我が家は大人ばかりの3人家族です。ここ10年は障害を負った父の介護に追われ毎日があっという間に過ぎていく生活を余儀なくされています。そんな人間ばかりですと心も体も疲弊してしまいますが愛猫(チャム・女の子・10歳)がどんな時も寄り添ってくれたおかげで会話の無い父とも猫の話題でコミュニケーションを取る事が出来ていました。我が家の周囲は山に囲まれていますので飼い猫と言えども家の中でじっとしていることは無く朝日が昇るとチャムは元気に野山に駆け出して遊ぶのが日課でした。3年前のある夏の日、チャムが家に昼ご飯を食べに帰って来た時の事です。私の目の前でクタクタと足腰が立たず倒れ込んでしまったのです。タダならぬチャムの様子に私も母も驚き慌てて街の獣医さんへ連れて行きました。獣医さんが居る近隣の町まで車で20分。あっという間にチャムの息が激しくなり私の腕の中で苦しそうにしている様子が本当にいたたまれなかったです。病院に到着した頃には失禁し体温が下がっていくのを感じました。診察を受けるなり点滴をしてもらいましたが「多臓器不全です。今夜が峠です。入院出来ますがお家で看取った方がチャムちゃんの為には良いでしょう」と結局調子の悪いチャムをバスタオルに包み帰宅しました。チャムは一晩中苦しみ翌日の明け方、「ウォーン」と今まで聞いた事の無いような声で鳴き天国へ旅立ちました。前日の朝まで元気だった子がなぜこんなに苦しんで死ななければならなかったのか?もっと早く不調に気づいてあげる事は出来なかったのか?と悔やんでも悔やみきれませんでした。死因は先生の見立てではおそらく殺鼠剤や除草剤を口にしたんだろうとの事でした。チャムの死は完全室内飼いだったら防げたことです。自分の認識の甘さに呆然としました。それから気分が落ち込み毎日悲しみに沈んでいました。チャムが我が家にとってどんなに重要な存在だったのかを思い返すたびに涙が出て止まりません。そんな日々を過ごしているうちに2年が過ぎました。そして昨年の春、庭に野良猫の親子5匹が遊びに来るようになったのです。地域のボランティアさんに協力を仰ぎ野良ちゃんたちを捕獲して不妊去勢手術を施し地域猫としてリリースする事にしました。この活動に奮闘するうちに少しずつ心が軽くなってくるのを感じました。今思うとペットロスから回復するには時間が必要だったと感じています。大切な子をなくした悲しみと後悔は今でも消えてはいませんが徐々に受け入れる事が出来たんだと思います。そして地域猫活動と言う新たなミッションに一生懸命取り組む事で心が前向きになれた気がします。今は庭をフェンスで囲い安全な場所で元野良ちゃんたちを室内とお外で世話をしています。全く懐いてくれませんがそれでも猫達の健気で可愛い姿に元気な頃のチャムの姿を重ね癒されています。
52歳女性 新しい家族を迎えて罪滅ぼしする毎日
五十代の女性です。私の父親は日本犬が好きで、子供の頃から犬はほぼ途切れず飼っていました。そんな父が病に侵され苦しんでいた時、長年飼っていた老犬も父と同じような症状になってしまいました。父はその時は幸いにも快方に向かったのですが、入院先から外泊を認められ帰る予定だった前日に、犬の方が天に召されてしまったのです。次の日に帰宅した父は息絶えた犬に寄り添い、肩を落としていました。まるで、父の身代わりのように天国へ旅立ってしまった老犬・・父親の落胆ぶりは凄まじく、子供達で相談し、父親が退院した時に、仔犬を新しい家族に迎える事にしました。そして、良心的なブリーダーさんから一匹の豆柴犬が我が家にやってきました。名前は当時デビューしたての人気アイドルグループ「嵐」からいただき、アラシと名付け、庭で一緒に遊ぶ事が父にとってのリハビリになっていたのですが、その父もアラシが一才になる前に他界しました。以後、アラシの飼い主は私になり、そして人間ひとりと犬一匹の生活がはじまりました。父は犬を玄関までしか入れませんでしたが、私はアラシを室内で飼う事にして座敷犬にしてしまい、夜も一緒に寝ました。当時私はまだ30代で、親戚にアラシを預けて長期海外旅行に行ったことで、アラシは「分離不安症」になり他人にはなつかない犬になってしまいました。それからは出来るだけ寄り添って暮らし、どこに行くにもほぼ一緒という生活でした。あまりこだわってはいなかったのですが、アラシは血統書つきの犬でしたので、機会があればお見合いをして仔犬を生ませたいと考えていたので去勢をしなかったのですが、残念ながらその機会は訪れませんでした。年月が経ち、アラシが10才になったころ、健康診断で睾丸に腫瘍ができている事がわかり手術したのですが、手遅れだったようで間もなく再発し、11才になってすぐの頃に再手術をしましたが、心臓が持たず、そのまま息を引き取りました。私も手術中に亡くなるとは露にも思わず、突然の別れにしばらくは呆然としましたが「家に帰ろう!」と毅然として、自分で運転してアラシの亡骸を家に連れて帰りました。私が去勢させていればと本当に後悔しました。この年は東日本大震災が起こった年で、東北ではない私の地元の動物保護施設にもたくさんの被災犬が避難していて、被災犬ではなくとも一匹でも譲渡してもらえれば、間接的に役に立てるのではと考え、施設にいた柴犬を迎えました。あえて問題有りの犬を選び、この仔の面倒を見る事でアラシを長生きさせてあげられなかったせめてもの罪滅ぼしになればと今でも思ってます。