鳥が亡くなってペットロスになった体験談
庭で出会ったインコ 人懐っこく飼う事にケガだと思ってたら病気で半年後別れ セカンドオピニオンつけていればと後悔
私が一匹のインコと出会ったのは、私が高校生の頃です。
自宅の庭にインコが現れるようになったのです。
最初は気にしなかったのですが、ずっと自宅の庭にいるので、扉を開けるとそのまま入ってきたのです。
たぶん、飼われていたインコが逃げたのか、もしくは元の飼い主が飼えなくなり逃がしたのかもしれないです。
とても人間に慣れていたのです。
鳥は飼ったことがなかったので、躊躇しましたが、凄く人懐こいのと、少し怪我をしていたので、家族会議の後でそのインコを飼うことにしたのです。
もちろん、元の飼い主が探している可能性もあるので、しばらくは飼い主探しをしていたのですが、現れなかったので私の自宅で飼うことになります。
飼う前から怪我をしていたインコです。
すぐに動物病院へ連れていったのですが、怪我でなく病院であることが判明します。
詳しい病名は忘れましたが、鳥がよくかかる病気で根本的な治療はなく、悪化すると死に至る可能性があるとは伝えられていたのです。
その不安は、飼い始めてたから半年すると出てきます。
自宅内を飛べていたのが、飛べなくなります。
食事の量も日に日に減っていきます。
鳥が食事をしなくなると危機です。
なんとか食べやすいように工夫をしましたが、どんどん弱体していきます。
ほぼ動けなくなるようになってからは、週に1度は動物病院へ通っていたましたが、獣医からは生き残れる可能性が少なかったのかあまり相手にされず悲しい思いをしたのを覚えています。
半年と半月が経った頃、そのインコは亡くなります。
出来ることはやった気でいましたが、もっと他の動物病院へもセカンドオピニオンで連れていくべきだったと今では後悔しています。
我が家を選んでくれたのかは不明ですが、何か縁があり、我が家で住むことを選んだインコです。
私達家族にすぐに懐いてくれましたし、癒しの存在です。
同じく悲しみにくれている人がいれば、ずっと悲しんでいるのはペットも悲しむと思います。
もう飼うのが苦しいのであれば、ボランティアでも良いので鳥と関われることをすれば気持ちが救われます。
私も今は時間があれば、たまに犬猫以外で保護されたペットのシェルターへ行って支援をしています。
野良猫に襲われなくなった文鳥 自らの不注意に後悔 しばらくは猫嫌いに
小学生の時に、親の知人から、鳥を飼わないか、と言われ、譲り受けました。
文鳥の4匹で、小さくてとても可愛かったです。
最初は突かれたり、なかなか慣れませんでしたが、しばらくすると、手から餌を食べてくれたり、手の平に乗せるとジッとしたままいてくれたり、だんだんとスキンシップ、触れ合いが出来るようになっていきました。
小学生の時に住んでいた家は、周りに野良猫が多く、天気の良い日は、鳥かごを外に出すのも注意をはらっていました。
でもあの日、親も外出していて、私も友人と遊びに出掛けてしまい、外に出したままの鳥かごを忘れてしまっていました。
自宅に帰ると、ベランダに鳥かご落ち、羽がたくさん落ちていました。
何より私が驚愕したのが、4匹の鳥は全部居なくなっていたのですが、2匹の頭部だけ、かごの中にあった事でした。
近くに猫の気配がありました。
わたしはあまりの衝撃とショック、きちんと鳥かごを家の中にいれないで出掛けてしまった事、後悔と申し訳ない気持ちで、しばらく立ち直る事が出来ませんでした。
しばらくは、猫も大嫌いでした。
動物は好きなので、今は猫も可愛く感じ、好きですが、やはり、ペットショップで文鳥を見ると、昔の記憶が呼び起こされ辛くなります。
鳥や犬など、飼いたくなりますが、飼う上で、きちんと責任を持って飼えるかを自問自答し、いい加減な気持ちでは飼えないと思い、躊躇してしまいます。
いつか、きちんと心構えができたら、飼いたいと思っています。
最後のセキセイインコ
私はセキセイインコを飼っていました。
私の家では私が物心がついた頃からずっとペットといえばセキセイインコでした。
いちばん最後に飼っていたセキセイインコが何代目なのか覚えてないくらいたくさん飼ってたと思います。
最後に飼っていたセキセイインコは結局ほぼ10年生きていました。
というよりもはや家族の一人というくらい長く一緒に生活をしていました。
最初は父親が飼いたいと言って飼い始めたのですがいつしか私もそのセキセイインコを可愛がるようになりました。
もう私も大人になって飼い始めたセキセイインコだったので子供の頃に飼っていた頃と違ってものすごく感情移入していて小屋の掃除や餌の入れ替えなど本当に一生懸命やっていました。
そしてある日、父親が亡くなりました。
自分で飼いたいと言ってすごく可愛がっていた父親がいなくなったあとそのセキセイインコを私は父親の忘れ形見のように今まで以上に可愛がりました。
飼い始めて8年くらい経ってそろそろ寿命かな、と思い始めました。
今まで飼ってきたセキセイインコは大体それ位で死んでいたのでそれからはもっと長く生きて欲しいと願うように飼っていました。
だんだん病気がちになりいつも死んでしまうことを考えそれでもいつものように可愛がっていました。
そして飼い始めてからほぼ10年経った頃、いつもなら体調を崩しても一週間くらいで良くなっていたのにまったく体調が戻りませんでした。
朝起きてみるとセキセイインコは小屋の床にうずくまるようにしていました。
息も絶え絶えで動くこともありませんでした。
私はセキセイインコを手のひらに乗せ最後を看取りました。
実は死を目前で見ることは初めてでした。
だからお別れを言うことも感謝を言うこともできました。
それから初めてペットロスというのも感じました。
たぶんもうペットを飼うことはできないかもしれません。
この子以上の子に会うことはないのではないかと思います。
天寿をまっとうしたセキセイインコ 悲しみはなく生きる勇気を残してくれた
私は今までの人生で合計8羽のセキセイインコを飼いました。
きっかけは確か20代前半だったと思います。
母が急に「インコを買いに行こう!」と言いだし、私は「お父さんが怒るんじゃない?」と言いましたが、母はなぜか強気で「お父さんが好きになる子を買ってくればいい」と言うので、ついていきました。
小さな小鳥専門店へ行くと、手乗りに出来る時期の雛は3羽しか残っていませんでした。
赤目種の黄色と白がつがいで1羽ずつ。
ノーマル種で全身が緑に頬毛が綺麗な青をして、黒い縞の入った子が1羽でした。
結果的に3羽全てを購入し、ケージも三つ買って、大荷物になってしまいました。
家に帰ると早速部屋を閉め切って、放鳥タイム。
怖がって出てこないので、自力で出てくるまで待っていました。
真っ白な赤目種の雄は「白ちゃん」
ベルベットのようなきれいな黄色の羽の赤目種の雌は「ぴーちゃん」
ノーマル種の緑の雄は「がおちゃん」と名付けて、早速お世話に忙しい毎日が始まりました。
この中で一番長生きしたのが「白ちゃん」。
姉が溺愛し「白にゃぁ」と呼んでいたので、自分のことを「白にゃぁ」と言うようになっていました。
白は、怖がりなのに一番人間に慣れてくれて、トウモロコシやイチゴやキウイを食べていると寄ってきて、もらいに来ます。
よくしゃべり、よく動き、よく遊びました。
肩に乗せると、私のまつげを毛づくろいしてくれたり、時には一緒に眠ってしまって、私の寝返りで潰しそうになったこともありました。
白ちゃんとぴーちゃんの間に3羽の子供が生まれことで、ぴーちゃんはエネルギーを使い果たしたのか、一足先に旅立ってしまいました。
その時の白の様子が見ていてとても辛かったです。
いつも一緒の木の枝にとまり、仲良く羽繕いをしていたのに、一番下の新聞紙の上で身動きをしなくなったぴーちゃんを何度もつつきながら、どうしたの?とでも言うように、聞いたことのない鳴き声を一日中あげていました。
臆病で寂しがり屋の白は、ぴーちゃんが先に亡くなったことで長くないと家族全員が思っていましたが、セキセイインコの寿命が最長でも10年くらいと言われている中、13年生きて寿命を全うしてくれました。
不思議なもので、インコは人間のように年をとります。
誰よりも曲芸のような動きが得意だった白が、段々と上の木に登れなくなり一番下の新聞紙の上を走って過ごすようになり・・・
眉毛かまつげにあたる部分の毛が長くなっていったり・・・
換羽期に羽が抜けても新しい羽根が生えなくなったり・・・
睡眠時間がどんどん伸びて最後は一日のほとんどを寝て過ごしていました。
私は白が天寿を全うした時、悲しくはありませんでした。
精一杯その命を生きて私たち家族に元気と癒しと笑いを与えてくれました。
私も白のように一生懸命に生ききりたいと思っています。
突然亡くなったセキセイインコ 大事な家族だからこそ一歩前に進もうと思った
私が飼っていたのはセキセイインコです!
私の家に来たのは中学2年生の冬でした。
亡くなったのはつい最近12月の頭でした…
夜勤の休憩中携帯を確認したところ母より「ピーちゃん死んじゃった」とメールが入っていました。
夜勤が始まってまだ数時間だったので仕事を真剣にしなければいけないしでも
早く会って頭を撫でてあげたいなぁという気持ちもっとああしておけば・・・
もっと遊んであげたかった…そんなことばかり考えていました。
夜勤が終わり家に到着し夜勤の緊張感から解き放たれたとき
自然と涙が流れてきました。
頭を撫でながら人生で初めて声を出して泣いてしまいました。
その日は何も手につかない思い出すだけで涙が出てきてしまうほどでした。
いつまでもそのままでは居られないのは分かっているのに中々立ち直れないでいる自分に
母親から
「ピーちゃんの為にも笑って元気に過ごそう」
この一言に少しだけ心がスーッとしたような気がしました。
何かの記事で見た気がしたのですが
ペットが亡くなるのには何か理由があるのだと。
「自分の役目が終わったとき」「家族が幸せになったとき」
色々あると思いますが私は結構信じています。
いつも見守っていてくれてたんだと思うと悲しい気持ちもありますが
心から「ありがとう」という気持ちでいっぱいになりました。
その人によって考えは違うと思いますが
その子のためにも一歩前に進んでいきましょう!
その先に新しい出会いやいいことが待っているはずです!
そして私はその子に「ありがとう」の気持ちを忘れずにこれからも元気に暮らしていきます。
アニメに夢中でなくしてしまったインコ 同じ季節がやってくると切ない気持ちに 大切な教訓に
小学3,4年生の頃だったと思います。
近所に住んでいた親戚のおじさんから、インコを1羽譲り受けました。
親戚のおじさんは、ペットショップの仲介という珍しい仕事をしていたので、自宅では血統書付の
猫や、小学校にあるような大きな檻にインコやオウムを数羽飼っていたりしていました。
その1羽をもらったと記憶しています。
そのインコは、「ピイ」という名前を付けました。
玄関先の軒裏に金具を親が取りつけてくれて、そこに50センチ四方のかごをぶら下げていました。
かごは朝方に自分で金物にかけて、夕方の暗くなる時間にその金物からおりを外し、屋内にとりいれて
いました。
当時夕方には面白いアニメが30分おきに放映されているという、子供にとってはゴールデンタイムで
あって、アニメの合間や、CMの間に外に出てかごを取り入れるのが日常になっていました。
秋から冬になる頃でした。
いつも通り夕方になるとアニメを観るために、ソファに座り、お菓子を食べながらアニメに集中して
いました。
母親から、「ぴいをそろそろ中に入れてあげて」と言われても、「まだ、早いよ」と返答し、
日が短くなって、すぐ暗くなることは分かっていても、アニメの区切りがつくまでその場から
離れたくありませんでした。
没頭していたアニメが終了し、窓から外をみるともう真っ暗でした。
いけないいけないと思いながら、玄関を出ると、ピイのいるかごの上に1匹の猫がかごの隙間に
手を入れていました。
「こら!」と言った声で猫は逃げていき、私はすぐにかごを下しました。
まさかまさかと、かごをみると、ぴいは、かごの底部に横たわっていました。
「お母さん!お母さん!」と声をかえ、その声に驚いたのか、母親もすぐにかけよってきました。
母親がかごの扉からピイを取り出すと、まだかすかに動いていました。
私は、混乱してしまって、母親に「すぐにお医者さんに連れていって!」と泣きながら叫んだこと
を今でも思い出します。
しかし、ピイはそのうちに動かなくなりました。
それからすぐに父親が仕事から帰ってきました。
泣きわめいている私を見て母親から事情を
聞いたと思います。
ピイを布で巻いて、かごの中に戻した私は父親と一緒にお風呂で話をしました。
その時はまだ泣き続けていて、話ながら涙が止まりませんでした。
大切なピイが襲われたこと、母親から何度も声をかけられたのに、アニメに
夢中でピイを中に入れることを後回しにしてしまったこと、もっとかわいがってやればよかった、
もっと遊んでやればよかった、など頭の中が混乱していました。
だんだん動かなくなるのを目の前で見たことは、衝撃的で今でも忘れることはありません。
秋から冬にかけて、日が沈むのが早くなるころ、ついこの間のように、あの時を思い出し、
とても切なくなります。
今は、教訓として、何にでも責任を持って命を大切にしていかなければならないと思っています。
私にも子供ができ、小学生になりました。
今では嫌いだった猫を子供の要望で飼うことになり、
猫が襲ったからとか思っていた自分を見つめ直し、全部自分の不注意だったんだなと、今の
猫をかわいがっています。
飼っていた小鳥が亡くなって想像以上に悲しく、小鳥の病気に詳しくなかったことに後悔した
私はいくつかの動物を飼った経験がありますが、小鳥を飼った事があります。
なぜ小鳥を飼う事になったのかというと、知り合いが飼っていた小鳥に子どもが沢山産まれたので、1羽もらった感じです。
最初は小鳥について興味というのはあまりなかったですが、いざ世話をしていくと興味が出てきて、時折こちらの声に反応してくれるようになったので可愛く思えてきました。
この小鳥は約5年から8年ぐらいは生存出来るみたいですが、2羽もらった小鳥のうち1羽は数年後に亡くなってしまいました。
どちらも元気でなついていたのでとても愛着が湧いていた中での1羽の死ですので、とても悲しかったです。
もう1羽も亡くなった小鳥を目の前にしてなんだか悲しい顔をしていたので、私以上に悲しかったと思います。
この件で後悔しているのは少しの症状の変化に気付かなかった事です。
小鳥が亡くなる少し前に小鳥の足が少し腫れているように感じたのです。
少しだったのでどこかぶつけたのかなという感じでしたけど、その数日後にまったく鳴かなくなってさすがに病院に連れていかなければいけないと思って、次の日に病院に連れて行こうと思いましたけど、朝みたら亡くなっていました。
つまり、対応が遅れたという事です。
この病気は、オスに多く見られる病気だと後から知って、小鳥の病気の知識がなかったという事で、その点に後悔しています。
病気について知識があれば、もしかしたら早めに対応出来たのかもしれないです。
これから小鳥を飼う人は、ぜひ小鳥の病気について調べてから購入するのがお勧めです。
小鳥が病気になると、少し今までと違った変化があるので見逃さない事が大事です。
卵詰まりで亡くなったインコ 相棒は泣き叫んで探しまわる、その後新しい仔をお迎え
2017年の8月に、手乗りセキセイインコのメスを5年足らずの若さで、卵詰まりが原因で亡くしたことがあります。
前日には大好きなミカンを私の手から美味しそうに食べて、直前まで自分の名前をしゃべりながら元気に室内を飛び回っていたのにです。
ちょうど運悪く日曜日で病院がお休みだったので、ペットヒーターで室内をあったかくして自ら産んでくれることを願ったのにダメで、翌朝9時には病院に行き、すぐに診てもらって詰まった卵を取り出して縫ってもらったので一安心したのですが、帰り道のバスの中で一声あげて亡くなってしまい、体温が奪われて死後硬直が始まって冷たくなるインコを触り、泣きながらお墓を作って土に埋めた経験があります。
卵詰まりは時間の経過と共に死亡率が高くなるメス特有の病気で、発症から約18時間程度で病院に行ったのにこの結果です。
排泄期間が奪われるため、腎不全を起こすそうです。
卵詰まりを気にしたインコが嘴でつついてしまうのを止められず、時間の経過と共に食欲不振になって元気がなくなり、翌朝は呼吸が荒いインコの症状の悪化を目前で見たのが今でも頭から離れないです。
平均寿命が8年と言われているだけショックも大きいです。
残されたもう1羽のインコが数日間、泣き叫んで相棒を探す姿が可哀そうだったので、それから2か月後に新たなインコをお迎えしています。
インコの栄養剤のネクトンSも購入し、できるだけインコが長生きできるようにより配慮しています。
愛嬌のあるインコの死に家族が意気消沈、新しいインコがきても代わりにはならなかった
それは高校を卒業して、グラフィックの専門学校に通いおこずかいを稼ぐ為に近所のフルーツパーラー店でバイトしてた時の事だった、滅多な事ではバイト先に電話などしてこない母からの電話、出ると、いきなり「ピーちゃんが!」と悲痛な悲しみの声で母が泣いている、
この所、可愛がっていたピーちゃんが調子が悪かった、棒に立っていられなくなっていた、餌も食べなくなって、鳥かごの床にへばりついて、弱っていく姿が痛々しく見てられなかった。
ピーちゃんは、インコなんです、とっても愛嬌があって、おしゃべりが上手でした、父はビールが好きだった、会社から買えると母はいつも「お父さんビール!」というのを覚えて、お父さんビール!お父さんビール!と言い、家族みんなを笑わせてくれたピーちゃん、母はピーちゃんによく話しかけ、ピーちゃんいい子ね!○○ちゃん駄目よ~!(○○ちゃんは私の事)それを覚えて、「ピーちゃん!いい子よ!○○ちゃんだ~め~ねぇ!」と、連呼して言っては、皆を笑わせてくれた、あのピーちゃんが、亡くなってしまった。
こんなに小さな鳥だというのに、ピーちゃんの存在は大きかった、ピーちゃんがいない部屋の中は静まり返り、寂しさしかなかった、母は苦労人でどんな事があっても、オタオタしない人だった、母のあんな姿は後にも先にも見た事がなかった、父も姉も私も、沈んでしまった、家族の一員だった、もう家に帰っても、「お父さんビール!」と言ってくれない、私の事を○○ちゃんだ~めぇ~ネェ!」と言う声も聞けなくなった。
淋しくてたまらなかった、家族全員が、たった小さなインコの存在に口数も少なくなってしまったのだ、あまりに悲しいのでまたインコを買おう!という事になった、でも何も語らないインコだった、新しいインコが訪れたので、少しは悲しみが薄れたけれど、あのピーちゃんの変わりにはならなかった、あのピーちゃんは家族の忘れられないピーちゃんとなった、それは面白い私達家族にピッタリのインコだったのだから。
小学生の頃の桜文鳥との日々に関して
小鳥が好きだった僕は小学生の頃、自転車で30~40分ほど走るとそこには郊外のペットショップがあり、桜文鳥のヒナを買いました。しかし、勝手に飼ってしまったことに親は激怒。でもそんな母も父も鬼ではなく、動物は好きな方なので、家族の一員として育てることにしました。名前はハッピーと名付けました。
ハッピー手乗り文鳥なのに指を差し出してもつつくばかり、でも手のひらを見せるとそこに着地し、くるまって眠るのです。
そんな不器用さも愛くるしくて、ハッピーは大人になりました。
すっかり家族の一員として、朝早くにハッピーの鳴き声で起き、カゴを開けると勢いよく家の中を一周飛び回って、肩の上に落ち着く。それはもはや家族にとって習慣化していました。
そんな日々も終わりの日がやってきました。
ハッピーは突然の病気で、獣医にも何度も通いましたがダメでした。
獣医の方も「小さい身体でこの子はよく頑張ったよ」と声をかけてくれました。
僕はハッピーがいなくなった毎日を実感するのにとても時間がかかった。
じわじわとこみ上げてくる悲しみ、それでも自宅でくるまってるわけにもいかず、学校の授業中に突然流れ出す涙。
辛かった。
ペットの話、しかも小鳥のことなど周りの人からしたら然程大したことではない。共有し合える人もいない、静かに悲しみに耐える時間が辛かったです。
しかし、子供の頃のこの経験で学んだことは、より動物たちを大切にしようということです。
僕は今子供もいまして、子供達はペットを飼いたいと言っています。この想いは僕から子供にも引き継いで行こうと思います。