猫が亡くなってペットロスになった体験談
私を強くしたちゃあすけ
ちゃあすけは、私が高校2年生の夏に家にやって来ました。やって来たというよりも、連れてきました。電気工事士をしている父がある夏の夜に「今日の昼に子猫が近寄って来たよ。周りを見ても親猫もいなくて、ごはんをあげたら美味しそうに食べていたよ」という何気ない会話に、猫が苦手な私が気になってしまい詳しく聞いたことを覚えています。その子猫のいた場所は、何もない山奥に建設中の建物があるだけで、そんな場所に1匹でいるのかと思うとかわいそうに思えて、気づいたら「探しに行こう!」と言っていました。時刻は20時で、車で向かうと30分かかる場所になります。到着すると辺りは真っ暗で、何も見えません。父と妹2人と4人で探していると、父の足元にまとわりつく何が見えました。懐中電灯を当てると、生まれたばかりの小さな茶色い子猫がいました。タオルに包んで家に連れて帰りました。本当はあまりよくないのですが、温めたミルクを出すとあっという間に飲み終わりました。とても可愛いものの、私は怖くて近寄れなかったことを覚えています。お風呂に入れると綺麗な金髪に近い茶色の子猫だったので、名前を「ちゃあすけ」にしました。家の近所には、猫がたくさんいたので、首輪にひもをつけて家の中で飼うことにしました。玄関と裏口から外に少し出ることが出来るようにしました。毎日、一緒に遊んだり、一緒に寝たり、たくさん一緒に過ごしました。おばあちゃんのことが大好きだったちゃあすけは、いつの間にか年をとり動きもゆっくりになってきました。大好きだったおばあちゃんも病気のため、ベッドの上で過ごすことが多くなりました。ちゃあすけは、暗い所やお風呂場の蓋の上で過ごすことが多くなりました。「猫は亡くなる時に、人から見えないところに行くんだよ」という言葉を思い出して、死が近いことを感じ取りました。今からちょうど13年前に、ちゃあすけは大好きなおばあちゃんのベッドの上で亡くなりました。私は死を意識していたものの、いなくなったことへの寂しさ、そして後悔ばかりが募り辛かったことを思い出します。ちゃあすけは私に、苦手なものやことでも自分で向かってみれば案外大丈夫なものだということを教えてくれました。2人で色々な経験をしたからこそ、今の私の気持ちがあるんだなと思います。『茶亜助(ちゃあすけ)』ありがとう!
家猫ではなく 怪我や病気の多い外猫で幸せな人生だったのか?と今も思う
6年前、愛猫の「チョロ」が亡くなりました。享年13歳でした。猫の寿命としては少し早いですかね。私が高校生の時、実家の庭に迷い猫として現れたチョロは、ゴージャスなグレーの毛並みをした毛長種のオス猫で、人を恐れることなく「にゃー」と寄ってきて人馴れをしていました。どう見ても高級そうだし、どこかで飼われていた猫だろうと、飼い主探しをしましたが見つかることはなく、結果実家の庭に居ついてしまいました。当時、まだ家を建てたばかりだったため、両親はどうしても家猫として迎えることは躊躇し、庭で放し飼い状態でした。それでもチョロは元気に走り回り、毛が長いので毎日そこら中の葉っぱやゴミを体にくっつけて帰ってきました。チョロの毛繕いをしてあげたり、共働きの両親の帰宅が遅い時は夕方のご飯をあげたりするのが、私たちの日課でした。今思えば家猫ではなかったことで、チョロにはたくさんの怪我や病気をさせてしまいました。若い頃は、どこかの野良猫とやりあって負けたのでしょう、太ももに骨が見えるほどの傷を負って、命からがら帰ってきたこともありました。すぐに病院で手術をして痛い思いをさせてしまい、その後おとなしい性格になってしまってように思います。チョロがおじさんの歳になった頃でしょうか、車用だったガレージを改装して猫部屋を作り、チョロはそこで生活するようになりました。それまで自由に出入りできていた空間に、透明なガラスを入れ部屋を作ったため、初めてチョロがその部屋に入ったときガラスの存在に気づかず、おもいっきりガラスに向かってジャンプし、顔面を強打しました。そこからチョロの体調がどんどん悪くなっていきました。目や鼻から膿を出し、綺麗な緑色の目は次第に色が変わっていきました。気分が悪いのかご飯もあまり食べなくなり、体もどんどんやせ細っていきました。病院の見解は、顔面をぶつけた時に脳に衝撃があって、病気を発症したのではないかということでした。年齢も関係しているから一概には言えないが、と。チョロは緑内障と白内障を発症し、毎日目薬をさしましたが、数年かけ、失明してしまいました。亡くなる寸前は、自分が動けるだけの小さなテリトリーに、トイレとご飯のトレイとベッドを置いてやり、そこをヨタヨタと歩いて生活しました。チョロが亡くなった日、私は定時で会社を出て、チョロの亡骸に一晩中寄り添いました。チョロはガレージではなく、私たちが生活する部屋の中に一晩置いてやりました。最初から家猫だったら、もっと違う人生だったのかな、チョロは幸せな人生(猫生?)だったのかなと今でも考えます。当時、友人に励まされた文章を載せます。
・みんなに可愛がってもらえてたもんねぇ。きっと幸せだったよ?絶対幸せだった!
・私がチョロの事を忘れずに、たまに思い出して「あんときチョロこんな事してたよな~」とか懐かしむ事がチョロの供養になるんじゃないかな。
・うちも去年の暮れにネコが死んだ。
青春時代を一緒に過ごした分、本当につらかったけど、今年、甥っ子が生まれて、最高にかわいい。きっと生まれ変わってまたうちにきてくれたんだと思う。そういう出会いがきっとあるよ♪
小学生から12年間私を癒してくれた愛猫 腹水でなくなり10年間ペットを飼わなかったが今は欲しい気持ちで複雑
私が小学校1年生から高校3年生までの12年間飼っていた猫は腹水で苦しんで亡くなりました。我が家に来た時、私の両親はとても仲が悪くて家庭は荒んでいたんです。母親が家出をして帰ってこない時もあり、そんな時にオレンジ色のかわいい子猫を「飼ってくれないか」と親戚からもらったのがきっかけでお迎えをしました。家の中はぐちゃぐちゃで、学校に行ってもいじめられて本当に生きることが辛かったあの時、私の心の支えは猫のミルクだけでした。ミルクは猫なのに本当に人の気持ちが分かる子で、私が泣いている時は膝にのってペロペロとなめて慰めてくれたり、寝る時は必ず布団の中に入ってきて一緒に寝ていました。食べ物を2人でわけあって食べたこともあったし、寒い冬は帰ってこないお母さんを待ってストーブのない部屋で暖めあったこともありました。本当に思い入れが強く、ペットは家族だというと今よりも笑われて馬鹿にされていた時代だったので亡くなった時は理解してもらえず辛く苦しくご飯も食べれなくなってしまいました。家の中がぐちゃぐちゃだったのでミルクも安心して過ごせなかったのだと思います。ある時お腹が膨れてきているのに気づき、病院に連れて行くと末期で腹水があり、もって数日だといわれました。亡くなる1日前に一度瞳孔が開き、このまま。。。と思っていたのですがその後2日間手足を動かし散歩をするかのようにして息を引き取っていきました。小さな命で私を一生懸命支えてくれたミルクを今でも思い返します。私はその後10年ペットは飼いませんでした。しかし最近気持ちも落ち着いてきてペットを飼いたいとも思います。とても複雑な気持ちです。
野良猫を保護したものストレスで病気に 私が死なせたんじゃないかと後悔
昨年の1月に保護していた雄猫のジェイ君を亡くしました。正直に言ってしまえは私が死なせてしまったと思っています。前の年の秋に野良猫だったジェイ君を保護し地域猫として外で過ごせるよう去勢手術をしていただきました。保護した当初、家の中で過ごせるなら家猫にしたいと思ってトレーニングをし始めたのですがやはり生粋の野良ちゃん。野性味あふれる子で抱っこは勿論触ることも出来なかったジェイ君。せっせとお世話をしてコミュニケーションを図ろうとあれこれ試行錯誤しましたが彼が人間に心を開いてくれることは有りませんでした。そしてこの家猫トレーニングが彼に重大な病気にかからせてしまう原因だったとは当時は思ってもみなかったのです。狭い家の中で過ごすのは自由気ままに生きてきた彼に大変な負担を強いていたようです。そのストレスが元で尿路結石が出来、私が気づくのが遅かったせいで獣医さんに見て頂いた時には血尿が出るほど進行してしまっていました。獣医さんに適切な処置をして頂きほっとしたのもつかの間翌日の夜、食事も水も取らずに息を引き取りました。病気の発覚からあっという間に天国へ行ってしまったジェイ君。まだ生まれて2年も経たない若い猫を私が死なせてしまったのです。あれからずっとジェイ君の病状からすると彼はとても苦しかったんじゃないか?何か私に訴えていたんじゃないか?おせっかいにも自由な猫を人間が勝手に保護したんじゃないか。と後悔してもしきれません。この苦しみを私はずっと忘れてはいけないと思っています。
家族と子猫が運んできた絆
2年前の夏、4歳の息子と散歩していた時のことです。いつも行く公園の手前の空き地から『ニャーニャー』とかすかに小さく弱々しい鳴き声が聞こえました。私には全く聞こえずに息子がそれに気づいたそうです。そこの空き地は草が生えっぱなしで整備されてなくゴミ、粗大ゴミと捨てられて足の踏み場もないところでした。息子から『あそこら辺から鳴き声が聞こえる』と指を割いてある所に私がゆっくり近づき辺りを見回すと、そこには一匹の子猫がいるじゃありませんか!しかもその日は38度の猛暑です。鳴き声もか細く体力もなくなってる模様。まだ目も開いていません。目視判断で生後数週間でしょう。このままここに放置しとくか、連れて帰るか判断にとても迷いました。親猫、他の子猫の様子も全くなくここに一匹でだけ捨てられてたんだろうなと判断し息子と子猫と一緒に帰宅しました。帰宅時に一番びっくりしていたのは妻です。そのあとに娘も。妻『連れてきてこれからどーするの?』私『外を暑いし弱ってるから連れてきた』妻『飼うの?』私『そうするつもり』やはり女性の考えはしっかりしてるなといつも思います。男性はその場の判断でいいだろうと決めてしまいがちだが、女性は細かいところの判断もするので筋道が通っていて話し合いになると必ず論破される。妻『とりあえず動物病院に連れて行って具合を見てもらって』妻の言われたとりに動物病院に行きました。先生「小さいわねーまだ目も開いてないじゃない?ただ毛並みもいいしダニもいない見たいね』私は安堵の気持ちになり、帰宅時に妻に子猫を育てたいと熱弁して飼えることになりました。子供達もとても喜んで名前をつけました。『さくら』さくら公園近辺にいたので子供達が『さくら」と名付けてくれました。そこから、毎日数時間ずつミルクをやり様子を見て排泄しての繰り返しで夜の睡眠もままならず1週間が過ぎました。夏なのにその日だけ、朝方ものすごく涼しくなり起床して子猫の様子を見に行ったら冷たく固まって死んでいました。本当に一生懸命育てたのに気温の変化のミスで子猫の命を奪ってしまった悲しみと後悔で久々に声をあげて泣きました。家族も泣きました。子猫に出会った思い出は家族の一生の思い出になるでしょう。
生まれてからずっと一緒にいた猫との別れ 老衰で衰弱する姿はみるのが辛かった
私は数年前、自分が生まれてからずっと時を同じくしたミルクと別れを告げました。ミルクは猫でした。私の母が私が生まれる少し前に拾った猫で、母はいつもミルクとの出会いは運命だったと言っていました。ミルクはとにかく母が可愛がっていたのですが、私が生まれた時からずっと一緒にいたわけであり、愛着を抱かないはずがありません。私は幼い頃から母親と二人暮らしで、ミルクはまさに家族の一人でした。ミルクが亡くなった原因は、老衰でした。ミルクは20年近く生きたので、猫の方では長生きだったと思います。常に活発な猫だったというわけではないのですが、徐々に病弱になって餌も食べなくなり動かなくなっていく様を見るのは辛いものがありました。私はミルクがなくなる瞬間に立ち会うことはできませんでした。私は高校の部活で合宿に行っており、ミルクは母に看取られて息を引き取りました。くしくも、その命日は母の誕生日でした。ミルクは私にとてもなついてたわけではありませんでした。私が物心もつかないうちに何かとちょっかいをかけたりしたこともあり、母ほど仲良くはありませんでした。しかしミルクは確実に私の家族であり、癒やしでした。私自身学校での友だちが多いほどではなかったのですが、毎日家に変えるとミルクがいることでなんだか安心感がありました。直に触ってやると暖かくて、毛並みがフサフサで、餌をやったりトイレを片付けたり面倒だと思うことはありながらも、世話すること自体は嫌いではありませんでした。私自身はペットの死に対し著しい悲しみを抱いたりはしませんでした。むしろ私は母の心情のほうが心残りでした。母は文字通り目に入れても痛くないほどミルクを可愛がっていたので、ミルクがいなくなることで気に病んでしまうのではないかと心配しました。一応、母もなんとかやっているようです。ミルクが亡くなる少し前に新たな猫が我が家にやってきて、今度はその猫を可愛がっています。それでも、ミルクのことは忘れられないようです。出会いがあれば必ず別れがあります。人であれペットであれ死に直面することは人生でそうないので衝撃は小さくありまえん。ただ、この世からいなくなったとしても出会いがあったということは私たちの心の中に残り続けます。出会えてよかったという思いこそを糧の一部としてその生命をも背負って生きていきたいということを学ばせてくれました。
原因不明でなくなった愛猫 ふさぎこみ写真ばかりみていたが、今は見守ってくれていると考えるように
旦那さんの職場で生後3ヶ月前後の子猫を拾いました。旦那さんいわく子猫は5日前からいたそうです。初めのうちは親猫が迎えに来るだろうと思いそのままにしていましたが親猫は迎えに来る様子は無く、子猫も動かなくなりうずくまっていたそうです。子猫を保護してからだを洗ってやると、水が真っ赤に染まったそうです。寒い日だったのでその日は少し身体を綺麗にしてご飯をあげてお部屋を作ってあげたそうです。次の日に私は初めて子猫に出会いました。体はノミだらけでピンセットで一匹ずつとっていきました。その後どんどん大きくなって、私と旦那さんは猫の避妊手術について凄く悩みました。自然が多い職場なのでこのまま野生を忘れないで自由に生活をさせるか、手術をして狭い部屋に閉じ込めて生活させるか悩んだ末、手術はしないで自由な生活をさせる事にさせました。猫は自由で首輪もしない状態でしたが、旦那さんが職場に着くといつもお迎えをして犬のように聞き分けが良かったそうです。自分の名前もわかるみたいで、名前を呼ぶとどこにいても出てきて顔を見せていました。時々牛乳をあげてたのですが安い牛乳は飲まないで、高い牛乳しか飲まなかったです。ある日夜遅く、猫の歩き方おかしく、旦那さんいわく職場の外では色々な農薬やネズミなどを殺す薬剤が沢山ある。今日が山かも知れない。動物病院に連れて行ったのですが原因が分からないと言われ点滴をやってもらったのですがそのまま天国へ行ってしまいました。それから私は塞ぎ込み以前の猫の写真をいつも見ていました。今は時が経ち、近くで見守ってくれていると考えるようになりました。
もう猫との別れを経験したくない でも消えそうな命に手を差し伸べるのも悪くないかも
10年程前になりますが、実家で16年共に暮らして来た愛猫を看取りました。私が幼少期の頃、親の知人が連れてきた捨てられたオスの子猫を引き取ることになりました。はじめは慣れない動物に抱っこするのも怖かった記憶がありますが、いつのまにか大切な弟のような存在になっていました。元気な頃は一緒に走り回って遊び、兄弟のように共に育った愛猫と私。こんな幸せな日々がいつまでも続けばいいなと、そう願っていました。月日は流れ愛猫の白髪混じりになった毛に、ごわついた触り心地に、あまり動かなくなった身体に、老いを感じるようになりました。段々と別れの時が近づいていることは理解していましたが、なぜかこのままずっと一緒に居られるような、そんな気持ちでいました。そんなある日急に元気がなくなり、病院へつれていくと、獣医からもう長くないことを知らされました。”どんなにつらくても最後まで沢山愛情を与え、絶対に息を引き取る瞬間まで、誰かがあの子の瞳に映るよう、近くにいてあげよう”家族でそう決めました。亡くなる当日、すでに息も荒く動けなくなっていたはずなのに、その日は朝からのそのそと体を引きずり、仕事へ行く父の見送りをし、その後も他の家族一人一人にすり寄って来てくれました。今までありがとう、ありがとう、そう言ってくれているようでした。ペットとの別れは非常に耐え難いもので、もうこれで最後にしよう、そんな気持ちになる方が多いと思います。実際に私自身もそうでしたが、結婚してから偶然にもまた子猫を拾いました。”猫は毛皮を変えてまた飼い主の元へ戻ってくる”という話を聞きます。もしかしてあの子が帰ってきたのかな?そんなことを考えながら、また新しい家族に沢山の愛情を注いでいます。ガリガリにやせ細っていた身体はすっかり大きくたくましくなり、今も元気に駆け回って遊んでいます。なくなる命もあれば救える命もあります。別れを恐れて塞ぎ込んでいる方がいるとしたら、勇気を出してまた一歩踏み出し、その消えそうな命に手を差し伸べて頂けるといいなと願います。
最後まで娘の部屋の前で出て来るのを待って亡くなった愛猫
妻と娘がペットショップに行って目が合ったので買って来ました。私が帰ると小さな箱の中にペルシャ猫の小さいのが入っていてニァーニァーと鳴いていました。直ぐ家族の一員で皆で可愛がっていたのですが何故か娘になついていました。14年一緒に居て最後は腎不全と診断され日に日に弱って行くのが辛かったです。元気にしていたのが急に動かなくなってしまい、風邪でもひいたかと思っていました。しかし、2日目位にこれはただ事ではない事に気付き、病院に連れて行くと腎不全の末期で何時亡くなってもおかしくない状態ですと言われ、このまま延命治療をするか、何もせずに待つか、と言われました。仕事で朝早く出るので玄関で靴を履いている時に、今まで来た事もないのに玄関先でゴロンと横たわり見送ってくれました。私と会ったのはこれが最後でした。妻が病院に連れて行き帰りの腕の中で息を引き取ったそうで、最後は娘の部屋の前で横になり動けなくなっていたとの事です。父親の時には涙が出ませんでしたが、「ベル、猫の名前」ベルの時は涙が止まりませんでした。心境としては、今まで此処に居たとか、いつもあの場所に居たとか、食事をしている時も足元に来てじゃれ付いたりしていた事を思いだしては寂しくなりました。家の中も暗くなった様でした。今会えたらもっと可愛がってやれば良かったと言いたいです。現在は犬を飼っています、もう老犬になってしまいましたが可愛いです。犬で猫でも飼うので在れば家族として大事にして欲しいです。
しぶしぶ引き取ったが、いつしか好きになっていた野良猫を手術で亡くす 悲しさ悔しさ後悔が入り混じる
去年の夏、祖母は野良猫を保護しました。その猫は腹部に大きな傷がありました。あまりにも傷が酷く、辛かったみたいで、野良猫は祖母に向かって「ニャー…」とまるで助けてと言ってるように鳴いてきたそうです。祖母は家で犬を飼っているらしく、飼えないから里親が見つかるまでこの猫をおいてやってくれと私の家に頼んできました。私はその時は正直嫌でした。しかしお世話になっている祖母の願いなので、渋々おいてやることにしました。野良猫だったので病気をもっていたら嫌だったので動物病院に連れて行くと、やはり病気を持っていました。しかし人間に感染することはないと言われ、注射をしてもらいました。傷口もみてもらい、家に帰宅しました。怯えていたので大きなゲージに入れて、まずは慣れてもらう事から始めました。しかし恐怖があるせいか餌も手をつけず、水しか飲みませんでした。さすがに心配になり、餌を変えようと思い、ホームセンターで猫の餌を端から買い、少しずつ食べさせて、食べてくれる餌を探しました。何日もかかりましたが、1つだけ食べてくれる餌が見つかりあんなに渋々引き取った猫なのにホッとして愛しい気持ちになっている自分がいました。それから毎日お世話をし続けて猫も私に慣れてきて私が帰ってくると「ニャー」と鳴いてくれるようになりました。私は猫に チョコ という名前をつけました。傷口も治してあげたかったので、手術の予約もとりました。早く治って一緒に暮らしていきたい。そんな一心でした。手術当日。私はその手術でチョコは治るものだと考えていました。しかし手術後、チョコの容態は悪化してしまいました。手術を終え、チョコは入院でした。私は家にいたのですが夜の7時くらいに動物病院から電話があり、「容態が悪化しています。もしかしたらダメかもしれません。家に引き取りますか?」という連絡でした。私は急いで病院に向かい、チョコを引き取りました。チョコはグッタリしていて、痙攣を繰り返します。きっと体力がないのに手術をしてしまったので、体が手術に耐えられなかったのだと思います。私はとっても後悔しました。手術なんかしなければチョコは元気だったのに…。私は痙攣するチョコを泣きながらおさえてあげる事しかできません。ごめんね。何回も謝りました。それから胃液を吐いたり、目に白い膜がはってきてしまったり、どんどん悪化していくチョコが可哀想で申し訳なくてしかたありませんでした。そして手術をして3日後。私はどうしても出掛けなきゃいけない用事がありました。私はチョコが心配だったので用事を早く済ませて急いで帰りました。帰宅すると横たわって、私の方をみてチョコが「ニャー…」とか細い声で鳴いたのです。その瞬間再び痙攣を起こして、そのまま息をひきとりました。悲しさ、悔しさ、後悔、いろんな感情が混ざりました。私はただ謝って泣くことしかできませんでした。あれから一年経ちますが、未だに写真をみて泣きながら謝ります。ペットの命とは、飼い主の判断で左右されると思います。もしまた何かペットを飼うとしたら、飼い主とはとても責任が重いということを改めてわかった上で飼いたいと思います。