猫が亡くなってペットロスになった体験談
名無しの子猫の思い出ばなし
私の子供時代は戦争の真っ只中でした。人間でさえ満足に食べ物を口にすることが難しい時代に、愛玩用の動物を飼うことは即ち国賊とみなされる行為だったのです。しかし私の亡父は戦争にこそ取られなかったものの、仕事柄家を空けがちになり、女所帯の不安さは日々増してゆくばかりでした。そこで父はまだ幼かった私のために一匹のおすの子猫を与えてくれました。父は特に語りませんでしたが相当苦労して手に入れてくれたようです。しかし戦局は悪化の一途をたどり、普通の家庭では食料の配給だけではその日の食事にも事欠くようになり、育ち盛りの子猫にまで十分な餌は与えてあげられませんでした。その子はいつもひもじい思いをしていたに違いありません。これが実益の伴うニワトリのような家畜であれば、河原に生えている雑穀の類や野菜くずでも与えればよかったのですが、現在のように専用の餌が継続して手に入るわけもなく、ただ抱きしめて体を私の体温で温めてあげるくらいしか出来なかったことが本当に辛いことでした。戦争は人間だけでなくかわいい動物たちにも暗く厳しい運命を強いたのでした。私は空腹を我慢してその子に餌を与えることもしていましたが、病弱な母はそれを許さず、ただでさえ有るか無いかが不明瞭な餌の量が減らされてしまいました。その子は日々衰弱してゆくことが幼い私にも手に取るようにわかっていたのです。その子との別れの時が近づいていました。そしてついに運命の時になりました。その子は井戸に落ちてしまったのです。なんとか助けあげましたが石垣で腹部に重傷を負い、その姿はとても痛ましいものでした。ただただ苦しげに息をしているだけで、時間と共にその力が弱ってゆく。私達ではどうすることも出来ませんでした。せめて最期を看取りたかったのですが、珍しく家にいた父はそれを許してくれませんでした。愛娘に死を見せたくないという父なりの愛情だったのでしょう。私はその夜は布団の中で泣き続けることしかできませんでした。翌朝。父に猫はどうなったの、と問いかけてみましたが、厳しい顔つきでぐっと口を真一文字に閉じているだけで返事はありませんでした。それが答えでした。ああ、うちの子にさえならなかったらもっと幸せに生きられたかもしれない。私は泣くだけでした。ごめんね。許してね。心の中で何度もその子に謝りました。父も無言で私を抱きしめ、小さな生命が逝ってしまったことの哀悼の念を捧げていたのだと思います。生活の足しにと庭を畑にしていましたが、その塀の片隅に土の色の違うこんもりとした塚のような小山が出来ていました。あの子のお墓だ。今度生まれてくる時はお腹いっぱい食べさせてあげられるよね。約束だよ。あの日からすでに70年の日が過ぎました。あの子には名前さえ付けてあげられませんでした。本当にすまないことをしたと今でも思っています。戦争という狂った時代が再び訪れることがないように祈るだけの毎日ですが、私の心の中ではあの子の思い出が消えることはありません。せめてもの償いですから。
愛猫が腎臓病でなくなり持病が悪化退職し自宅療養中 会えたなら「楽しかった」と伝えたい
愛猫が亡くなって苦しんだ体験談我が家に愛猫の「うり」がやってきたのは、私が高校1年生の夏前のことでした。気の強い雌猫で、先住の1歳年上の雄猫に初対面でシャーっと威圧していました。その後は私たちが目を離した隙に箸を口内に刺して床が血まみれになっていたり、3階の庭から地上に転落して脳震盪を起こしたりとひやひやする出来事ばかりでした。幸い大事には至らなかったけれどとてもやんちゃな猫でした。そんなうりが体調を大きく崩したのは去年の夏前のことでした。おしっこの匂いが強くなったり、うんちやおしっこをトイレ以外の場所でしてしまったり、家の外で迷子になってしまったりしました。また食べるのが大好きなうりが食欲不振になったのもこの頃でした。対策としてフードを替えたり、おかゆを作ったりしましたが、良くならず。病院嫌いなうりを病院に連れて行く決意をしました。いつもの病院だと先生に嫌がられると思い、自宅近くの動物病院に連れて行きました。すると、うりの様子が一変して病院の先生に甘えていました。こんなことならもっと早くこの病院に連れて行けばよかった…と思いました。検査の結果、腎臓病の末期でした。水分補給の為の点滴をしてもらい、「今日が山場です」と言われました。家に帰ってからも水分補給をしましたが、嘔吐やお漏らしを繰り返すうり。その姿を見るのがだんだん辛くなり、疲れて、うりに「お膝に来る?」と言うと嬉しそうに膝に乗り、膝から降りた直後にお漏らしをしていました。その後もよく頑張ってくれましたが、病院に行った翌々日の午前3時に亡くなりました。うりの死後、私はそのショックと持病の薬を飲めなくなったことによる病気の再発で2度入院し、仕事を退職しました。現在はだいぶ良くなりましたが、自宅で療養中です。もし、うりとまた会えることがあったら、「我が家に来てくれてありがとう。最期は苦しかったと思うけどよく頑張ったね。毎日楽しかったよ」と伝えたいです。最後まで読んで下さりありがとうございました。
老衰でなくなった愛猫 激やせ死に近づく姿に 胸に穴があいたような感覚に もっと清潔にできればと後悔
猫のヒマラヤンを小学校5年生の時から飼いはじめました。ヒマラヤンといっても、真っ白ではなくちょっと狸のような顔をしたとても可愛い猫でした。何かあると、すぐに家から飛び出そうとして何度も捜索することがありました。それから、中学高校と学生時代を一緒に過ごすことができました。亡くなったのは、高校3年生の時でした。老衰による死亡でした。時期は、12月の寒い時期で、もう寒さを乗り越えることができなかったのかと思います。そのときは、何が起きたのか全く分からない状況でした。何かが死ぬというのがまだ信じられない気持ちでした。1週間くらい前から激やせして、もう死ぬのかもしれないと分かってはいたのですが、それでも、信じられない気持ちでいっぱいでした。それから、何日かするといなくなったという実感がわき、寂しさがわいてきました。とても寂しいなという気持ちになりました。家族のように可愛がっていた猫がいなくなって、ぽっかり胸に穴が空いたようになってしまいました。それから、1週間くらいは食欲もなく、食べ物が喉を通らなくなってしまいました。後悔していることは、最後の方は、肌が荒れて破けてしまったので、もっと清潔にしてあげられたら良かったなと思いました。ペットが亡くなってからの体調の変化は、1か月くらいは食事もあまりとることができずに、体重も減ってしまっていたのだと思います。それから時間が経過するとともに、少しずつ戻ってきました。
飼い猫の事故死、自分の責任を思って苦しんだ2年間
私が買っていた雑種猫のカンナは、数年前、友人の猫に生まれた子供として引き取りました。赤ちゃん子猫の状態でウチにやってきたカンナは本当にかわいくて、私は日常の中心がカンナという生活に変わるほど、彼女を溺愛して過ごしてきました。そんなカンナは、2年前、蝶々を追いかけて外へ出ていった後、角を曲がってきた車が彼女に気づかず、轢かれて亡くなってしまいました。蝶々を追いかけて外へ行くのはいつものことだったので、まったく気にしていなかった私自身を、激しく責めましたいつもは1分もしないうちに帰ってくるのに、戻ってこないので不思議に思って外へ出たら……今思い返しても、頭がおかしくなってしまった方がマシだと思うような光景が、そこには広がっていました。轢かれたカンナ。飼い主である私がしっかりと見ていてあげなかったから。ごめんね。ごめんね……自分自身を責めて、かわいそうなカンナのことをひと時も忘れないまま、つらい2年間を過ごしました。近頃、少しだけ落ち着いてきましたが、この2年間は本当に生き地獄のようでした。いつも、何をしていても、かわいかったころのカンナと、轢かれて潰れてしまったカンナの姿が交互でフラッシュバックし、その度に、私は絶叫しながらうずくまりたい衝動にかられました。外出先にいてもそうです。それが怖くて、仕事を休みがちになってしまいました。ですが、だんだんと周りの人に心を打ち明けるうちに「カンナは私のせいで亡くなったわけではない」「カンナの寿命がそこまでだったというだけ」「カンナは天国で私を待っていてくれる」というアドバイスをもらい、だんだんと気持ちが楽になってきました。ごめんねカンナ、でも私の友達でいてくれてありがとう。カンナが天国で待ってくれていると思うと、自分が死ぬのがこわくなくなります。そっちへいけるのはまだまだ先だと思うけど、いつかまた会えるのを、楽しみにしているよ。
家出し事故死した愛猫 たましいがお別れをいいにきた気がした ポスター越しに語りかけてくる姿にはじめて涙した
私が小学生だった頃の話です。当時は、道で捨て猫や捨て犬に遭遇するのが珍しくない時代でした。近所を歩いていると、黒い子猫が捨てられていました。そんなに動物が好きでもなかったので、いつもならばあまり気にせずに通り過ぎますが、何となくその猫が気になってしまい、うちに連れて帰っていきました。母親からは、強く反対されるわけでもなく、そのままうちで世話をすることになりました。その猫は、クロと呼んでいたと思います。捨て猫らしく痩せていて、クロと呼ぶにはなんだか疑問があるような毛色で、汚れた毛でした。紫のスプレーインクでいたずらされたような汚れでした。それでもその猫は愛らしく良く懐き、小学生の私はその子をとてもかわいがっていました。部屋には、小学校の保健室からもらってきた可愛らしいキレイな黒猫のポスターを貼ったりして、一気に愛猫家モードでした。一緒に布団で寝たり、なでなでしたり…そんな日が数日すぎました。しかし、お別れはすぐにやってきました。いつものように小学校から帰宅した私は、クロがいないことに気が付きました。家じゅう探しましたが居ません。すると、近所に住んでいた叔母がやってきて言いました。「ごめんね。おばちゃんが帰るとき、玄関の扉すこし開いてたみたいなの」クロはそこから逃げたのでした。私は、目の前が真っ暗になりました。ただ、叔母を責めたりはできませんでした。責めても仕方ないと思ったのでしょう。すぐに、外を探しましたが、クロは見つかりませんでした。夜になり、母親が仕事から帰宅しました。クロがいなくなったことは、電話で話していました。家に入る母は、慌てていました。「家の前でネコがひかれてる。一緒に来て!」私は、暗い夜道ですでに死んでいる猫を確認しました。クロでした。責任を持つのは私だ。気丈にしていなければいけない、と思い、涙も出ませんでした。でも、やっぱり、死んじゃったのか、と、残念な気持ちでした。慌てて涙している母が「片づけなきゃね…」と私にどうにかして欲しそうでした。私は、家にあった段ボールにクロを入れて持ち上げました。その時、目の前を透けているような白い猫が横切りました。とっさに「クロだ!」と思いました。追いかけましたがどこかに行ってしまいました。クロが私にお礼を言っていたように感じてなりませんでした。「拾ってくれてありがとう。かわいがってくれてありがとう。片づけてくれてありがとう」と。自分の部屋に帰ると、黒猫のポスターが愛らしくこちらを見ていました。かなしくて、辛かったです。しばらくそのポスターを眺め、はじめてそこで涙したのを覚えています。
障害を持って生まれた猫を我が家に連れてくるべきだったのか 今でも考えてしまいます
今から1年2か月ほど前の秋のこと。友人から「家の物置に勝手に猫が入り込み、子猫を出産しているのを見つけた」という電話が。私は猫が大好きだったので、急いで見に行きました。母猫はシャムの雑種のようでしたが、生まれた子猫は黒が3匹と白が1匹。友人は「家では飼うことができないから、このまま様子を見ながら子猫の飼い主を探す」と話していました。数か月後、黒の3匹の飼い主は決まったのですが、残ったのが唯一の白。最初にまた時には気づかなかったのですが、その子猫にはどうも障害があるようで、ずっと顔が小刻みにプルプルと震えています。かなり体も小さめでした。そこで私が育てようと一大決心。自宅に連れて帰りました。名前はそのまま「シロ」。シロを動物病院に連れて行ったところ、生まれつき脊髄に損傷があるのではないかという診断結果。でもまだ小さいので、はっきりとした結果はわからないということでした。少しずつ体は成長していったのですが、大きくなるにつれてまっすぐに歩くことが難しかったり、決まった場所でトイレができずにオムツをつけることになったり。それでもつぶらな瞳で一生懸命に私の後を付いてくるシロが可愛くて、すぐに大切な家族の一員になりました。定期的に検査を受けていたものの、半年ほど経過したときにシロに変化が。足がピーンと突っ張ることが多くなり、ほとんど歩くことができない状態になってしまいました。それから1か月くらいで、自分では餌を食べることができない状態に。流動食を作ってスポイトなどで食べさせていましたが、ついにはそれもできなくなってしまいました。医師からは「これが障害を持って生まれたこの子の寿命だ」という診断。そしてシロは天国に旅立ちました。シロがなくなって以降考えるのは、「もっと自分にできたことがあったたのではないか」そして「そもそも障害を持って生まれた猫を飼ってよかったのか」ということ。自然界では自然淘汰されたであろう存在のシロ。その猫を飼ったのは、私のエゴだったのかなとも考えてしまいます。そんな落ち込んだ私の様子を見て、家族からは「シロが我が家にきて過ごした時間は、シロにとって幸せだったと考えようよ」という言葉。今でも家に連れてくるべきだったのか正解はわかりませんが、またシロのような猫に出会ったら、放っておけずに同じようにしてしまうだろうと思っています。
愛猫との永遠の別離でいまだ癒されず、子供が飼いたいといった時を想像するのが怖い
私が小学校6年生の時の話です。当時我が家には茶トラのトラちゃんという猫を飼っていました。もともと野良猫だったのですが、1年生の頃、私が拾ってきて以来、家族の一員として生活してきました。しかし私が6年生になる頃には衰えてきて、あまり外に出なくなり、ウチにいて寝てることが多くなりました。そして、夏前には食べた物を吐いたり、下痢をしたりして、徐々に痩せて、衰えていきました。当時の私は心配していましたが、まさか命に関わるとは思っておらず、全く心の準備ができていませんでした。そして、8月6日のことでした。夏休みの出校日で、学校から帰ると玄関で、トラちゃんが丸くなっていました。抱き上げると、トラちゃんはぐったりしておしっこを漏らしていました。直感的にダメだと思いました。それから先の記憶はありません。これから先は母に聴いた話です。泣きながら母のパート先に電話をして、母に帰って来てもらってから1日中泣いていたそうです。その後一週間ほどウチに引き込もって外には出なかったそうです。ご飯もあまり食べず、両親が無理矢理食べさせていたそうです。ようやく外に出るようになっても、どこかボンヤリしていて、完全に立ち直ったは、それから更に1ヶ月ほど経った頃だそうです。その当時、まだ家族との離別の経験がなく、免疫がなかったので、余計にショックだったのだと思います。一人っ子だった私にとっては、初めての面倒を見てやらないといけない存在でした。子どもを持って分かったのですが、子どもを気遣うような感覚だったと思います。今でもトラちゃんを見付けた時の事を思い出すと、胸が圧迫されるような苦しさを感じます。家族との離別は経験していますが、そこまでの苦しさを感じることはありません。やはりまだ消化できてないのかもしれません。それ以降、動物は何も飼いませんでした。今後子どもが何か飼いたいと言った時に、何と言って良いのかも分かりません。ペットを通して学ぶことはたくさんありますが、離別のショックは大きいです。それを子どもが受け止められか不安ですし、私自身が受け止められるか自信がありません。情けないかもしれませんが、私の今の素直な気持ちです。
20数年すごした猫、居なくなって初めて分かった存在感
私が初めてそのペットの猫と出会ったのは、私が十代の頃でした。まだ子猫の時にうちの家にやってきました。親戚が自分の家では飼えないからという理由で連れてきたのがきっかけでした。家にやってきてから数日の間は、近寄っては逃げられるという繰り返しの毎日でした。近寄らなくても、家の中をあっちこっち逃げ回るという状態でした。いきなり知らない家に連れてこられたのですから無理もなかったと思います。 このように近寄っていくとすぐに逃げてしまうという状態だったので、食べ物をわかるようにペットの近くに置いて様子を見てみると何とか食事だけは食べてくれました。その時は、ホッとしたのを憶えています。その後は、月日が経つごとに徐々に慣れていき、私が家の中を移動するとすぐに後ろから付いてくるまで懐いてくれるようになりました。この頃からはもう家にペットがいるのが当たり前の状態になり、ペットが家の中で見かけないと気になってしまう、という感じになりました。 ペットは家族と一緒だとよく言います。確かにその通りだと思いました。 それから二十年近く経って年老いて老猫になってくると動きは鈍くなり、食も細くなっていき、若くて元気な時よりも色々な面で気を遣うようになりました。飼っている当時にもあったのかもしれませんが、今ではペット関連の書籍や情報が溢れています。 最近、ネット上でペットとの接し方についての記事を偶然見かけました。その記事を読んで当時のことを思い出し、”あの時は良いと思っていろいろとやっていたけどペットはこう感じていたんだな”と後悔をする時もあります。ペットがいる時は、居るのが当たり前でしばしば煩わしささえ感じる時もありました。 ある日突然いなくなってそれっきりで、今は写真が残っているだけです。家に来て二十数年たったある日の事でした。確かに、居なくなって暫らくは悲しい気持ちで一杯でした。でも、残った写真を眺めているとそこから楽しい記憶が溢れ出てきます。 居る時は何も感じなかったけれど、居なくなって、単なるペットじゃなくてやっぱり大切な家族の一員だったんだなと、その存在の大きさを改めて感じました。しかし、一番の想いは『うちの家に来てくれてありがとう』でしょう。
HIVでなくなった愛猫 かわいそうな結末だったかもしれないが、一緒に成長してくれたことに感謝
私が、初めて猫を飼ったときの体験談です。私は田舎町に生まれ、小さい頃から、野良猫や外をうろつくご近所の飼い猫たちに慣れていて、お家の庭に遊びに来た猫たちと遊ぶのが日課でした。ある時、親戚のお宅で、可愛い子猫が生まれたとの電話が。子猫を飼いたい気持ちが強くなっていた私は、どうしても子猫を飼いたいと家族に懇願し、了承を得て、はじめての子猫を迎えたのは小学5年生のときでした。手のひらに乗る、ふわふわの白い猫。「この子は兄弟猫の中で一番体が小さくて弱いからやめたほうがいいよ」と言われたのですが、「どうしても白猫がいい!」と言って、私は絶対に譲らなかった。白い子猫の名前は、ミルクにしました。ミルクは成長するにつれて、色んな表情を私達家族に見せてくれるようになり、いつしかなくてはならない大切な家族のメンバーになっていました。時が経つに連れ、私も成長し、実家を離れたりしながら、どんどんミルクとも逢えない時間が多くなっていきました。それでも、実家に帰れば、昔と変わらずに迎えてくれるミルクがとても愛おしかった。そんな時に、ものすごく体調が悪そうなミルクを連れて、病院に連れて行ったら、猫のHIVにかかっていることが判明。辛かっただろうに、頭に浮かぶ言葉は、何もできなくでごめんね、ばかり。あんなにいつも一緒に過ごしてきたのに。その時初めて、いなくなる日がいつか来る、その時がもうすぐ訪れるのかな、と初めて意識した瞬間でもあり、気持ちをどう処理したらいいのかわかりませんでした。免疫不全にもなる病気ですから、最後は、体中にがん細胞もでき始め、とても可愛そうな結末だったかもしれません。しかし、13年、よく生きてくれて、一緒に成長してくれたことに感謝の気持ちしかありません。みるく、猫を好きにさせてくれてありがとう。ずっと忘れないからね。今、私は2匹の猫を飼っているよ。あなたと過ごした日々を時に頭に浮かべながら、楽しい毎日を送っています。
愛猫が多頭飼い後ガンで亡くなり後悔、ずっと忘れられなくても前向きに
もう随分前のことになりますが、飼っていた愛猫のナナを腎臓のガンで亡くしました。元々野良猫だったため、保護した当初はまったく馴れず困ったものですが、いつの間にか人にベッタリの甘えん坊になったかわいい子でした。ナナを迎えて五年たった頃のことです。家の近所で子猫を見かけるようになりました。どうやらその子も野良猫のようで、ある日大怪我をしていたのを発見して保護することになりました。怪我が完治した後も貰い手が見つからず、我が家に二匹目の猫としてお迎えすることになりました。猫の多頭飼いは難しい聞いていたので、少しずつ二匹を馴らすために最初は別々の部屋で生活させることにしました。新しい子はわたし以外の家族はなつかなかった為、面倒を見るのはわたしの役目となりナナと触れ合う機会が減りました。ナナにガンが見つかったのはそれからしばらくたった頃です。わかったときにはガンはかなり大きくて手術も難しく、それからたったの二ヶ月で亡くなってしまいました。最期はゴハンも食べられず、流動食を注射器のような道具であげるなどして必死に看病しましたが、あっけないものでした。ナナが亡くなった後、わたしが新しい子の世話ばかりしてナナに構ってあげられなかったからナナは病気になったのではないか、そうでなくても、以前のようにたくさんの時間を一緒に過ごしていたならもっと早く病気に気づけたのではないかと後悔し、自分を責めました。新しい子を可愛がるのもナナに対する裏切りのように思えてしまうくらいでした。しかし、ナナの通っていた病院の獣医さんに、「あたたはなにも悪くないよ。ナナちゃんは最後までお世話してもらえて幸せだったんだよ」と言われて少しずつ前向きになれました。今でもナナのことを考えるともっと色々してあげたかったという気持ちは消えませんが、それ以上に楽しかった思い出がたくさんあるので頑張れています。