猫が亡くなってペットロスになった体験談
やせ細ってなくなった愛猫 思い出すたびに夢をみるたびにせつなくなる
小学校2年生のときに、ヒマラヤンの猫を飼いました。家の中で飼っていたのですが、いつも、家から出ようとしていてとても可愛がっていました。それから12年が過ぎて、死んでしまいました。朝、起きてみると、母親がヒマラヤンの猫を抱えて泣いていました。そんな日がいつかは、やってくると知ってはいたのですが、いざやってくると何が何だかわからず、すぐに受け入れることはできませんでした。家族が一人いなくなってしまったような思いです。それから、1週間くらいは食事が喉を通らなくなるくらいショックで打ちひしがれてしまいました。その時、思ったのは、ヒマラヤンの猫がどんどんとやせ細って弱っていくのを思い出しました。もう死ぬときが近づいていた前兆だったのかもしれません。それから、死ぬ直前に上げたバターをぺろぺろと舐めているのを思い出しました。死ぬ最後に食べたバターは美味しかったかなと思い、また、せつなくなってしまいました。現在は、引っ越して、引っ越し先の庭にヒマラヤンの猫の骨を埋めました。その埋めたところには、木を植えて育てています。その木は良く育っています。今でも、よくそのヒマラヤンの猫の事を思い出します。夢の中で会ったこともあります。夢の中で会うとなんだかとても懐かしい気分になりました。ヒマラヤンの猫は、よくいたずらをするいたずらっこでした。だから、余計いなくなると、その穴は、大きく空いてしまった気分です。でも、一緒に過ごせて本当に幸せでした。
飼い始めたときから、病気がちだったネコ、17年生きるも、病気食ばかりでかわいそうなことをしたと後悔
ネコを飼ってみたいなぁ、と思っているときに友達からもらえることになり家で飼うことになりました。それから17年間、一緒に暮らしてきました。家に来たときから、体調が良くなくて病院に通っていました。初めは、ネコ缶を食べていました。しかし、腎臓があまりよくなくて、すぐに食事制限しなくてはいけなくなりました。それから、病気食が初じまりました。ふつうのネコ缶とは違ってあまり美味しくないようで、初めはあまり食べませんでしたが、それしかもらえないとわかったようで食べるようになりました。食事以外はとくになにもしていませんでした。しかし、ほぼ10年以上美味しいネコ缶も、ネコがすきなかつおぶしやネコのオヤツなど食べることはなかったので可哀想なことをしたように思いました。実際には、老衰でなくなったのですが、病気が治ることはなかったのでずっと定期的に病院には通わなければいけなかったし、ご飯もずっと病院のエサでした。長生き出来た方だと思うのですが、やっぱり好きな食べ物がたべたかったかも知れないと思うと病院のご飯ばかり食べさせて本当に良かったのかなとときどき思います。それにすごく病院を怖がっている子でした。でも、定期的に病院に通っていたのでいつも震えていました。可哀想に思いながらも、いかないわけには行かず、つらかったことを覚えています。亡くなる少しまえには、ご飯は食べれなくなったので1日おきに病院に点滴をしに行っていました。もう怖がる元気もなくなっていたので暴れることもありませんでした。亡くなってからも、いるような気がしてしょうがなかったです。今でも亡くなってからだいぶたつのですが、どこかで寝てるようなふと思うことがあります。またまだなにか、してあげれることがあったような気がして。ときどき思うことがあります。
うちの子になって幸せでしたか?20歳で亡くなった愛猫
「子猫を拾ったのだけど、うちに前からいる猫と相性が悪いの。誰かもらってくれる人を探している」と友達が話してくれました。我が家は動物を飼ったことがなく、父親は大の猫嫌いでしたので、話を聞いてくれるはずも迎え入れてくれるはずもありません。そこで私は友人に「子猫を箱に入れて家の敷地に置いて」と頼みました。敷地に入れば、安易に出すことはできないと思ったからです。そして無理やり家の中に入れ、そのままうちの子にしてしまいました。子猫が来て、我が家は明るくなりました。毎日、どこかに傷をつけられたり、身体能力に驚いたり、人間の気持ちがわかっているのでは?と思ったり、とにかく仕草の全てがかわいくて、猫嫌いだった父も、朝食に鮭やアジが出ると、こっそりあげていたりしてました。よく食べよく寝てよく遊び、猫は病気ひとつせず、20歳になりました。歳をとって、さすがに寝ていることが多くなりましたが、元気で毛艶もよかったです。しかし、日に日に尿の量が多くなり、熱中症で体が震え出したので慌てて病院に連れて行きました。結果、点滴を打ってもらって熱中症は回復したのですが、腎臓が悪いとのこと。飼い主として失格なのですが、猫の病気について全く知らず、また「うちの猫は病気しない」と過信していたので、びっくりしました。その後、体調はどんどん悪くなりますが、猫の年齢もあり透析は耐えられないとのことで、皮下注射で輸液を毎日繰り返しました。具合が悪いのに、毎日病院に連れて行くことは、猫にも飼い主にも相当ストレスです。1ヶ月くらい経った頃、先生から「いつ治療をやめるかはあなた次第」と言われました。寿命を私が決めるのです。泣きながら考えました。何も言わない猫にも「どうしたい?」と聞きました。どうしたいかなんて全然わかりません。生きてほしいけど、辛いままなら人間のエゴでは?と思いましたし、エゴでもいいからそばにいてほしいとも思いました。本当にどうしたいかわかりませんでした。猫はその間も細々と食事をしては吐き、を繰り返していました。なんとか自力で食べてほしいと思い、好きなものをペースト状にしたりいろいろな工夫をしました。それでも食べられない日が日に日に多くなっていきました。そして3日間絶食して、突然かつお節をパクパク食べた後「もう満足」という顔をして猫がお皿を押しました。そこでやっと私も「自力で食べられなくなったら治療をやめよう」と決意できました。そこからは穏やかに自宅で家族と過ごしました。2日後、夜中に1時間近く痙攣し、大きく息を吐いて亡くなりました。21歳になる少し前でした。猫を飼ってから、何かの時のためにと猫名義の貯金を毎月していました。まだ40万以上あるのに使わないで逝ってしまいました。どんな治療をしてもしなくても、後悔は残ります。でも猫と過ごした楽しい日の方が圧倒的に多い。たまには夢に出てこい。
時間が経つほど実感する愛猫の死、子供がうまれ構って上げられなかったことを後悔
ココと出会ったのは私がちょうど二十歳になった頃でした。当時はまだ実家に住んでいて、母がココを買ってきました。ココはメスのラグドールでした。毛色の出方がおかしいという理由で格安で売られていたそうです。それと関係あるかはわかりませんが、ラグドールは人形のようにおとなしく抱っこされるのが好きな猫と言われているのに、ちっとも大人しく抱かれない、暴れん坊の猫でした。そして時が過ぎ、私も結婚して子供が生まれ、ココは13歳になりました。実家がペットを飼えない事情があったため、私がココを飼っていました。この頃、私は子供の世話でいっぱいいっぱいで、ココのことはほとんど構ってあげていませんでした。ココはすっかり老猫になり、一日中寝て過ごしていました。ある晩、私はいつもは寝室のふすまを閉めて寝るのに、なぜか、少し開けて寝ようと思いました。今思うと、ココが何かを伝えたかったのかもしれません。次の日の朝、起きると、ココはいつもの場所で横になって冷たくなっていました。昨日までご飯もたくさん食べていたし、普通に歩いていたのにどうして!?と、現実を受け入れられないと同時に、育児で余裕のなかった私は、心のどこかでホッとしている自分がいることに驚きました。ココが死んだ直後は取り乱したりもせず、思っていたより冷静でいたと思います。それが1週間経った頃、寂しくて苦しくてたまらなくなり、毎晩寝る前に涙が止まりませんでした。純粋に、いなくなって寂しいという気持ちはもちろん、いくら育児が大変とはいえ、もっと構ってあげればよかった、もっと頻繁に病院に検診に連れて行っていたらもっと長生きできたかもしれないのにと、後悔の気持ちが溢れました。あの晩、ココの様子を見に行っていれば、何か違ったかもとも思いました。今は、子供が小さいこともあり、ペットを飼うことは考えていません。私の気持ちとしても、また別れが来ることを思うと、辛くてペットを飼いたいとはまだ思えません。将来、もしも、もう一度だけちゃんとペットと向き合いたいと思える日が来たら、その時はまたきっと猫を飼うと思います。だってやっぱり、猫って、最高に愛しい存在だから。
ペットの出会いは平凡、しかし今も続くペットロス
私がこれまでに飼ったペットは、猫1匹です。小学生から中学生の頃に飼っていました。なぜ、猫を飼うことになったのかと言いますと、友達の家の猫が子猫を産んだからです。友達の家にしましても、何匹も猫は飼えないとうことで、そのうちの1匹をうちが譲り受けることになったのです。ですから、ペットの猫との出会いもとくにドラマティックなものではないのですよね。しかし、出会いは平凡ながらもこのペットの猫とのおつきあいはわりと長く続きました。血統書付きではなく、キレイな猫ではなかったのですが、しかしわりと長い付き合いでしたね。小学2年生から中学2年生までの約6年間を生きていました。そして、過剰に手をかけていたわけではないのですが、しかしペットロスは大きかったんです。実は、ペットの猫との別れは「交通事故」だったんですよね。一日に一回ぐらいは、外に離していたのですが、その時に車にはねられて死んだのです。もちろん、ペットの猫が死んで悲しかったです。しかし、家の外に出した私たち家族も悪いわけです。ですから、うちの猫をはねた車のドライバーを犯人だと思ったり、そん人を探したりとかはしませんでした。うちに落ち度があるわけですし。むしろ、うちの猫をはねてしまったドライバーさんに申し訳ないぐらいのことを思いました。それにうちの猫に関しても、それなりにいい人生だったんではないかなと思うので、深く悲しみにくれたりはしなかったのです。ただし、それは猫が死んだ直後のことで。実は私は、その後大きくペットロスを味わったのです。なんというか、ふとした瞬間に「こうすればよかった」「ああすればよかった」とか、ペットの猫のことばかり考えてしまうのです。また、猫は死んだはずなのに、猫グッズをネットで注文していたりと…、無意識のうちの怖い行動が増えていました。後からじわじわくるというやつです。そして今改めて、ペットって家族だったんだなーと思います。生活の一部だったのだと思います。もしかしたらまだペットロスは続いているのかもしれません。こうして思い出してみても、なんだか心に穴が空いているように思いますもん。
12歳で亡くなった愛猫、清潔にしなかったことを後悔 今、もし会えたらいっぱい聞いてみたい。
飼っていたヒマラヤンが亡くなったのは、猫が12歳の頃でした。自分が小学生の頃から飼っていた猫なので、とても悲しかったです。胸が張り裂けそうになりました。猫が亡くなって1か月くらいは、何もすることができませんでいした。食事もほとんどとることができず、とにかく悲しんでいました。後悔していることがあるとすれば、猫の毛を清潔にしてあげることができなかったことです。ヒマラヤンなので長い毛だったのですが、そのため、傷ができたときに、膿んでしまったのです。とにかく、清潔にしておかなければならなかったのですが、不潔になってしまって、皮膚が剥がれ落ちるまでになってしまいました。本当に快適に過ごしてほしかったので、そのことは後悔しています。ヒマラヤンの猫に今会うことができたとしたら、元気に暮らしているか聞いてみたいです。それから、昔一緒に住んでいた時のことを放したいです。家を出て3日くらい帰ってこなかったときは、何をしていたのか、何のエサが一番おいしかったのか、など、沢山思い出話をしていきたいです。もっともっと、話すことができたら、今、結婚しているかどうかも聞いてみたいです。飼っていたころは、去勢をしてしまっていたので、子供を産めない状態になってしまっていました。今、家族を作って元気に暮らしてくれていたらいいなと思っています。ヒマラヤンの猫は、とても、おてんばな猫でした。すきがあれば、すぐにでも家を出ようとするし、家の中では走り回っているし、とても可愛かったです。
共に渡米し亡くなった2匹の愛猫
米国在住歴18年になります。渡米した際に一緒に日本から猫を2匹連れてきました。名前は、はな、と、ひまわり。2匹とも日本の地を見ることなく、ここ、アメリカで亡くなりました。 はなは、メイク―ンの雑種で、ふさふさとした毛を自慢げにいつも優雅に歩いていました。ものすごく人懐っこい猫で、だれにでもすりすりしていく猫でした。はなは、うちの大学でうろついていたいわゆる、野良ネコでした。そんなはなを、僕は大学卒業と同時に自分の家で飼うことにしました。 ひまわりは、近所のおばちゃんからもらった子猫で、橙色の雑種でした。はなが、母親代わりをして、いつも二匹一緒に生活してました。はなと違って、ひまわりは、ものすごくシャイで、お客さんや、友達がうちに来ると、すぐに隠れてました。 そんな二匹を、僕の米国での大学院進学のために、いっしょにアメリカに連れてきました。米国に来て、約10年がたったころ、ひまわりが、亡くなりました。死因は、獣医によると腎不全でした。最後は、がりがりに痩せてしまい、おトイレもできなくなり、亡くなる3週間ぐらいは、ずっとベットの近辺でおもらしをしていました。最後は、階段の上る途中で、亡くなってました。今でも思い出すと悲しくなります。 はなは、その後、ひとりで生活してましたが、その5年後、老衰のため目も見えなくなり、ほとんど動かなくなりました。最後はあまりにもかわいそうだったので、獣医で、安楽死させてあげました。 二人のお墓は、裏庭に作ってあげました。隣どうしに今も、二匹は一緒に眠ってます。一度だけ、寝ぼけていたのかもしれませんが、ひまわりを、夜中キッチンで見ました。ぼーっと橙色に輝いて、キッチンのテーブルの上に鎮座してました。はっと声をあげて、瞬きすると、もう、ひまわりは消えてました。 まだ、僕の中で、次の猫を飼う気持ちにはなってませんが、また、いつか猫を飼いたいと思います。
何十年も一緒にいた大好きだった猫の死 やせ細っていく姿に心が痛かった もう少し病気が早くわかっていればと…
私が猫に出会ったのは小学生一年生の時でした。学校から帰ってきたら、小さい子猫がいました。茶色のふわふわとした可愛い猫です。どうやら、捨て猫だったみたいで、お父さんが拾って帰ってきて今日からお家で買うことになったみたいです。私はとても嬉しくて、遊びに行くのにも、カゴに入れて連れて行ったり、友達に自慢したりとしていました。茶色い猫をピカちゃんとつけて、可愛がっていました。ピカは、人懐っこく、友達や、訪問者が来ても怖がる事なく、スリスリとしていました。ピカと五年くらい過ごした後に、もう1匹猫がやってきて、とてもやきもちを焼いて大変だったのを今でも思い出します。とても可愛いですよね。なん年後かにはとても仲良しな2匹になってきてとても癒されました。それから私も歳をとり、ピカも大きくなり、毎日一緒に寝て、お風呂にはいっていたら、お風呂場まで来てと、本当に懐いていて可愛かったです。私が高校卒業後、結婚し子供が産まれてその子供がピカを叩いたりしても、怒らずにいてくれたピカでした。そんな頃もうピカは15年!!私的にももう長生きしてるなぁ~と思っていてでももっと長生きしてほしいなぁ~なんて思ってました。そんなピカが、おかしくなりだしたのが亡くなる一年前、やけに、毎日吐くようになり、、おかしいと思い病院に連れて行くと、血液検査の結果もおかしくないし、歳をとっているからだろうと。餌の量を減らしてみてくださいと言われました。その通りにして、吐く量も少なくなり、やっぱり食べすぎか~なんていっていた、3ヶ月後に、またまえみたいに朝晩と、ご飯後吐くようになり、病院に行くと、おかしくないと、でもそっから、すぐに動かないくらいぐったりしていました。もうこれは長くないのだろうと、思いました。病院に連れて行くと、病気だということがわかり、短くないと言われました。痩せほそり、見ているのが辛かったです。亡くなる日私は、ピカ!と名前を呼んで、お出かけしていたら、その夕方になくなりました。私はなぜあの時触らなかったのか?と、とても後悔して泣いて泣いてしました。ピカを、骨にしにいって、持って帰ってきて、やっと、ピカは亡くなったんだな。っと確信を持てたくらい、亡くなった事を信じれませんでした。そっから時は経ちますがまた会えたらな~なんて思います。何十年も一緒にいた、猫を亡くされた人の気持ちは飼っていた人にしかわからないと思います。ペットだとしても、もう同じ家族でした。でも、亡くなっても思い出はあるので今は写真をみたりして、気持ちは落ち着いています。でも、ひとつだけ後悔していることはもっと病気が早く分かれば、長生きしていたんではないか?ということです。
渡米し14年共にすごした愛猫 トイレもできなくなり、動けなくなったので安楽死させてあげた 墓標をみるたび今でも思い出す
うちの昔飼っていた猫のことです。この猫は、メイクーンの雑種で、ものすごくふわふわした毛並みの茶色い猫でした。この猫は、うちの大学でぶらぶらしていた、なんとも人懐っこい猫で、みんなから、”のぶこ”と呼ばれて、大学のいろんな人から愛されていた猫でした。 当時、ぼくは大学を卒業したばかりだったのですが、来年の大学院に行くために一年、アルバイトかつ勉強という名目で、卒業した研究室に研究員として残っていました。ある夜、仕事も終えて家に帰る途中で、自分の車に戻る途中でした。何かが自分の車のタイヤの真横に佇んでいるのに気がついて、ハッとしました。うちの大学は山の上にあったので、狸とかイノシシとか、たまに見かけていたので、一瞬、狸かと思いビクッとしました。でも、すぐに、”みゃー”という、鳴き声を聞いて、のぶこであることに気がつきました。少し、のどをぽみゅぽみゅしてあげた後、車のドアをあけて、車の中に入ると、のぶこが、ひょんっと僕の膝に乗ってきました。あまりにもかわいくて、なんだかそのまま今日はうちでお泊まりさせてあげようと思い、なにげなしに車を発信させました。 ひょんなことから、うちに来ることになったのぶこが、このまま僕とともにアメリカに渡ることになり、ワシントン、ミシガン、そしてペンシルバニア州に住むことになりました。渡米後、約14年間、ぼくの家族とともに生活しました。ものすごく人なつこい猫で、だれにでもすぐについていく浮気性な猫でしたが、いつでも家に帰る度に僕を迎えてくれた忠義のある猫でもありました。そんなのぶこも、20歳をすぎて、毛並みも悪く、目も半分開かなくなっても、いつもプルプルしながらでも僕のもとにやってきた可愛い猫でした。最後は、おトイレもできなくなり、動けなくなったため、安楽死させてあげました。獣医で火葬して、その灰を家の裏庭に埋めました。今でも、墓標を見るたびに、のぶ子を思い出します。
今があるのはネコのおかげ、お別れしても見守られている気がします
高校生の時に友人からネコをもらいました。あまり動物が好きではない母を何とか説得し、無事に我が家へ迎えることができた時は本当に嬉しかったことを昨日のことのように覚えています。ネコを飼ったことがなく、しかも子ネコを飼うとなると、ちゃんと育てられるか少々心配でしたが、エサのあげかたやトイレのしつけなどをしっかりと頭に叩き込み一生懸命に面倒をみました。一生懸命かわいがると、ネコにも気持ちが伝わるのか、かなり人懐っこいネコに成長してくれました。当時私は大学受験を控えていました。毎日続く受験勉強に嫌気がさすこともありましたが、投げだすことはできません。その理由の一つに、母との約束がありました。それは、ネコを飼う条件として、受験勉強に集中し第一志望の大学に合格するという何とも厳しいものでした。受験に失敗するとネコの立場が悪くなるような気がして、必死に頑張りました。勉強していると、ネコが私の膝に乗ってきて休憩を入れるタイミングを教えてくれていました。ネコのために頑張っていたつもりでしたが、頑張れたのは、ネコに見守られていたからだと思います。大学に合格したころには、母もすっかりネコの虜になり、まさに我が家のアイドル的な存在となっていました。その後、社会人になってからも試練があると「ネコのため」とこじつけのようですが自分を鼓舞してきました。そんなある日、別れが突然やってきました。朝、出社するときには元気だったネコが、帰宅すると亡くなっていたのです。原因は心臓発作。現実が全く受け入れられず、ただ泣くばかりでした。通勤電車の中でも、知らず知らずのうちに涙が頬を伝っていることもありました。オフィスでも涙があふれてきてトイレに駆け込んだこともありました。何か病気のサインを見落としたのではないかと自分を責め深く落ち込んだ日々が続きました。かなりの時間を要しましたが、ふとあの「ネコのために」という言葉が浮かんだのです。私がいろいろなことを乗り越えられたのは、ネコのおかげ、いつまでもふさぎ込んでいてはネコに申し訳ないと思ったのです。ネコを失った悲しみは消えませんが、前進すること、困難を乗り越えることを思い出しました。これも、ネコのおかげだと思っています。