犬を亡くしてペットロスになった体験談
フィラリアで亡くなった愛犬 今は愛玩動物飼養管理士の資格を取得し、猫を飼っている 最大限のことをしてあげたい
もう亡くなって大分経ちますが当時MIXの中型犬を飼っていました。小学生1年生の頃に親が親戚から譲り受けた子で自分が率先して散歩やごはんをあげていたからか家族の中で一番自分に懐いていたので弟(オスだったので)のような存在でした。田舎で周囲も外でわんちゃんを飼っているのが当たり前の時代で、家族以外には懐かず、お客さんが来ると吠えて知らせてくれるので番犬として非常に優秀でしたね。詳しくは覚えていませんが3歳になった頃にその子が病気になり、水も自発的に飲んでくれなかったので家族で交互に水を与えたところ唯一、自分の手から水をなめてくれたのが非常に嬉しかった記憶があります。それ以降は段々と元気になり、また一緒に遊んだり散歩に連れて行ったりしていました。ただ10歳を過ぎた頃から老化が目立つようになり、散歩に行ってちょっと走っただけでぜいぜいと息切れをすることが続きました。それから少し経った頃に突然、痙攣を起こして倒れて失禁してしまったのです。親が動物病院に連れて行ったところフィラリアと診断されました。外で飼っていたことと当時は今のようにフィラリアに対しての意識が薄かったので、狂犬病のワクチン以外は接種してなかったと思います。その子の年齢から薬での駆除はおろか手術も手遅れの状態だったようです。今のようにセカンドオピニオンなどが出来ればもう少し生きてくれたかもしれません。田舎だったせいか動物病院は限られており、そこでの診察結果を受け入れるしかありませんでした。最後は自分で起き上がることもできずつらそうな息をしてましたが、最後の最後に自分の手をなめてくれました。もっと何かしてあげられたんじゃないかと思うことも多々ありました。亡くなって当日は食事が喉を通らず1か月近く落ち込んでましたが一緒に悲しんでくれる家族もおり猫を飼っていたこともあって愛犬が無くなった悲しみを乗り越えることができました。ただ今でも思い出すと目頭が熱くなります。犬がメインの映画などは涙が止まらなくなるので基本的に映画館で観ることはありません。当時は自分もまだ子供で犬を飼うことに対しての知識もなかったので親の考えを受け入れるしかありませんでしたが、今は愛玩動物飼養管理士の資格を得て動物を飼育することに対して真摯に向き合っています。今は猫を飼っていますが自分で出来る最大限のことをしてあげるつもりです。家族のような存在が亡くなったら悲しいのも涙が止まらないのも当たり前なんです。気持ちが落ち着くまで悲しみに浸っていていいけれど自分を大切にしてください。家にひきこもっているとその子のことしか考えられなくなるので外に出てお日様の光を浴びてくださいね。きっと動物を大切に飼ったことのある人なら誰でも通る道だと思います。
自分が飼いたいといったのに、最後まで世話ができなかった愛犬。動物は好きだけどもう飼うことはないと思う
私が飼っていた愛犬、ジャックラッセルテリアのベルとの出会いは私が小学5年生の頃。近所のペットショップに親と遊びに行き、そこで運命的な出会いを果たしてしまいました。ペットを飼うのは初めてということもあり、親に真剣に飼えるのか、ちゃんと世話はできるのかなど色々と約束もした記憶があります。親とも約束をし、我が家にベルを迎え入れることができ、初めての子犬との生活、とても可愛くて可愛くてたまりませんでした。ですが自分も成長し、中学、高校になってくると日々の勉強や授業、高校に入ってからはバイトもしていたのでベルの散歩に行くのも母に任せていたり、構ってあげられない日が多くなりました。高校を卒業し、専門学校へ進学。地元からは少し離れたところへの通学もあり、ますますベルとの時間は減っていきました。専門学校卒業後、就職し、一人暮らしを始めた私は実家にベルを置いていきました。たまに実家に帰ると、こんな私にでも尻尾をふり、喜んでくれるベル。ところが社会人3年目、ベルは脂肪細胞種を発症。この病気でも長く生きてるワンちゃんはたくさんいると獣医さんにも言われましたが…日に日に衰えていくのがわかり、毎日のように母が写真を送ってくれたりして様子を見るのが嬉しくもあり、とても切なかったです。病状は日に日に悪化。足に脂肪腫があったため、出血が止まらなくなり、片足を切断することに。片足だけになっても散歩をする姿は、すごく見てて辛いものでした。その反面、ベル自身も頑張ろうとしているんだなと励まされました。ですがやはり、長くなく…足を切った約2ヶ月後に他界。亡くなったと連絡があった日、泣きながら実家へ帰り、埋葬の手続きを済ませ、翌朝火葬をするまでずっと寄り添っていました。私が飼いたいと言って、迎え入れたのに、自分の都合で実家に置いていってしまったこと、もっといっぱい遊んであげていたらなどたくさん考えました。同時に私の代わりにベルを最後まで世話してくれた家族には感謝でいっぱいです。今でも犬や猫、動物は大好きですが、今後はペットを飼うことはないと思います。また悲しい思いをするのはやはり辛いです。
7歳で心臓病で亡くなった愛犬のラブ
ラブは7年前に自宅出産で1番最初に産まれてきたワンちゃんです。ラブは1番大きく産まれて1番お母さんのオッパイを飲んでスクスクと育ってきた。病気って病気もしないで成長してきたのですが心臓病になったのは亡くなる半年くらい前でした。ラブは家で存在感もあり誰にでも愛されるワンちゃんでした。体は大きいのにハエが嫌いでハエを見つけると抱っこと寄って来てブルブルと震えてる甘えん坊さんでした。私がクシャミをすると寝てても寄って来て私の鼻を舐めてくれる優しいワンちゃんでした。今は他のワンちゃん達は私がクシャミをしても逃げます。そんな時ラブが亡くなった悲しみが込み上げて来ます。ラブが亡くなったのは去年の6月です。その時、私の母親が老健に入ってて老健に呼ばれて行ってても心臓病のラブが心配でした。心臓病も最初は風邪だと思って病院に連れて行き心臓病と分かりました。ウチのラブは咳から始まり咳もゲッホオエって感じでした。病院では重度の心臓病で生きられて半月から1ヵ月と言われた時はショックで泣けて来ました。暫くは毎日、病院に連れて行き点滴をしてました。毎日毎日、心配で少しの事で過敏になり病院に電話しては病院に連れて行くって感じの日々でした。ラブも心臓病で辛いのに私がクシャミをすると心配して鼻を舐めに来てくれて、それでまた悲しくなり涙が出て来ました。ラブが最後に亡くなる時は母親の老健に午前中に行ってた時に興奮して吠えてたのでしょ。その日の夜にラブの症状が急変して夜なので病院も、どこもやってません。なので往診を頼みました。往診も1時間はかかりますと言われ不安と心配と悲しみの中、往診に来てくれるのを待ってました。その間ラブを抱っこしてラブがク~ンと二回鳴いて痛かったのでしょ。背中を擦りながら往診を待って、もう少しで来ると思った時に往診の先生から電話がありラブの症状を聞かれた時にラブは私の胸の中で息を引きってました。先生にお腹が上下に動いてますか?尿は漏れてませんか?と1つ1つ確認させられてから残念ですが亡くなってます。と言われた時もう少しだったのに。もう少し早く往診に来てくれてたらと涙が溢れて止まりませんでした。でも家族は冷静で泣いててもラブは生き返らないよ!あと4匹も居るんだよ!泣いてる暇なんてないよ!と言われてもラブの代わりは居ない。ラブの火葬も私が1人でやり今だに思い出しては泣けて来ます。大切な家族が亡くなったのに、なぜ家族は平気で居られるのでしょ。
帰省を待っていたかのような愛犬の死 12年経っても涙ぐむ
高校生のころ、母親が外で空き地から子犬を拾ってきた。空き地で段ボールから出たり入ってりしていたようです。可哀そうで連れてきたとのことでした。うっしーと名前をつけ、家で飼うことになりました。うっしーは目がクリっとして、可愛い雌の犬でした。何となく、日々の生活がつまらなく、イライラすることが多かった僕は、うっしーに癒されるようになっていきました。姉が二人いましたが、何となく妹ができたみたいで、可愛がりました。 5人家族でしたが、うっしーは愛嬌があり、皆に可愛がられ、家族の一員となっていきました。うっしーは朝方3時や5時に僕を起こし、散歩に連れていけとよくせがみました。僕は眠いながらもうっしーに頼まれては、連れて行かないわけにいかず、ぼんやりと朝方の散歩をしていました。手はかかりましたが、それがまた愛おしく思いました。 僕は、大学進学の関係で、地元を離れ、別の地で生活していました。実家に帰るときはいつもうっしーに会えるのを楽しみにしていました。 離れていて暫くぶりに会ううっしーは、次第に年をとったと思わせるようになっていきました。 大学が忙しく、しばらくうっしーに合わない日が続きました。 国家試験の勉強のため、実家に戻ったとき、うっしーは尻尾を振って近づいてきました。僕は何となく、違和感を覚えました。生気がなく、よろよろしている感じがして心配になりました。呼吸も荒い感じがしていました。帰省して直ぐに散歩に連れて行きましたが、呼吸が荒く、直ぐに家に戻らせようとしました。家に戻ろうとしたとき、なんとなく寂しい表情を浮かべていました。 その日の夕方から更に呼吸状態が悪くなり、横たわっているうっしーを見て、母親と二人で動物病院に連れて行きました。うっしーはそのまま他界しました。 自分も悲しみでいっぱいでしたが、家族を失った母親の狼狽ぶりが凄く、自分はしっかりしなければと思いました。 あと一日自分の帰省が遅ければ、うっしーの最後にも立ち会えなかったと思うと、うっしーは僕を待っていたんだなと思いました。 あれから12年くらい経ちますが、未だにうっしーのことを思い出し、涙ぐむことがあります。 自分の心を成長させてくれ、家族を繋げてくれたうっしーに感謝しています。
自分が面倒見るからと飼った愛犬が腎不全で他界 日々の世話はすべて母任せだったことを後悔
高校2年生の頃、愛犬リンが15歳で他界しました。リンはもともと叔母の家で飼われており9歳の頃、我が家にやってきました。私は小さい頃から犬が大好きでしたが当時はアパート住まいのため犬が飼えず、叔母の家でリンと遊ぶのがそれはそれは楽しみでした。リンは雑種の中型犬で、とても人なっこい子で近所でも人気者でした。ですからリンと散歩に行くと、あちらこちらから、「リンちゃんおはよう!」「リンちゃん今日も可愛いね」とこえがかかり、連れている私まで誇らしい気分になったのを覚えています。そんなリンですから、叔母家族が転勤のためマンション住まいになると聞いた時はすぐに母親に、「リンちゃんを家で飼いたい!」とねだりました。ちょうど一軒家に引っ越したばかりで犬を飼いたいねと話していた時期でしたが、母親はいい顔をせず、「リンはもう9歳で高齢よ。犬を飼うのなら子犬からがいいんじゃない?」と言いましたが、私には理解できませんでした。だって、リンは9歳で私とあまり年齢が変わらないし、こんなに元気だし。小学生の私にとって、9歳は高齢のイメージはありませんでした。けれど我が家にやってきてリンは年々体力も落ちて寝ている時間が増え。逆に私は中学生になり部活や友達との遊びに忙しくてあまり家にはいませんでし。あれだけ、「私が全部面倒みるから!散歩も毎日する??」といって引き取ったリンですが、私がお世話するのは休日の散歩やご飯位で、日々のお世話は全て母親がしていました。そして、高校生の頃にリンは腎不全を患い5ヶ月で他界。その時は学校も行けず、ご飯も食べれず泣き続けましたが今思い出しても後悔しかありません。あんなに大好きだったのに、ごめんなさい。もっと遊べば良かったの。もっと散歩に行けば良かったの。リンちゃんごめんなさい。こんな飼い主でごめんなさい。我が家にきてからの6年間、リンは幸せだったのでしょうか。今でも答えは出ないままです。
散歩道で薬でもなめたのか中毒で愛犬が死亡 散歩道をかえていればと後悔の日々
ヨークシャテリアちいが亡くなったのは、8年前の秋の初めでした。朝晩毎日散歩をしていて、子供達と散歩したり幼稚園送った後に散歩したりといつも一緒でした。主人が最初に飼っていて、結婚して一緒に住むようになって10年。私の事も飼い主とわかってくれ、散歩に行く時間になると嬉しそうにそわそわとしていました。散歩もリードを思いっ切り引っ張ってとにかく我先に前に進んでいく様な元気な子でした。他の犬とすれ違っても決して吠えず、子供にも優しい子でした。好奇心旺盛で吠えたり噛んだりなどは有りませんでした。他の犬がいると寄って行き臭いを嗅ぐ程度でした。草花にも興味子供達と夕方の散歩をして、水と餌をゲージに入れいつもと変わらぬ日々でした。所が次の日、起き上がる事もなく顔だけを上にあげるだけで元気がありません。餌を見ると食べている気配がありませんでした。散歩に行こうと外に連れ出しましたが、歩いては座り込みといつもとは違う異変に気付きました。夕方主人が帰ってきて、今朝からの様子を話し主人が様子を見に行くと、力を振り絞って立ち上がりしっぽをふっていました。次の日は上の子の幼稚園の運動会。話し合った結果、運動会後も様子がおかしければ病院に連れて行こう。と言う事になりました。散歩中気付かぬうちになにか拾い食いしたかもしれない。そんな中迎えた次の日、もうぐったりとしていて顔だけ動かすだけでした。午前中の運動会が終わり、家族皆で急いで病院に連れて行き即入院。様子を確認した先生が「何か中毒症状が出ている。なにかたべましたか?」と聞かれいつも通りだった。と答えました。「植木等のちかくさんぽしましたか?」ときかれいつもの散歩道で、歩道と車道に植木があります。と答えると「なにか薬をまいていて、舐めたかもしれない」という事になりました。2~3日がやまで、もし収まったとしても脳に障害が残ります。といわれ愕然としました。散歩道を変えていれば…そればかりが頭をよぎりました。毎日顔を見に行くと立ち上がって帰ろうとする素振り、先生はもう多分わかってません。と言われたショックは未だに覚えています。結局2日後の夕方亡くなったと連絡が来て、主人が迎えに行きました。亡骸はまだ暖かく、私が散歩を…とずっと悔んでいます。決して泣かない主人が泣きながら、撫でていた後姿は未だ忘れられません。
熱中症になって突然逝ってしまったユモ
私は、現在31歳の男性です。今から10年ほど前、自宅の玄関に一匹の若い雌の柴犬がよく来ていました。犬好きだった私は当時大学生で、なんとかこの犬を飼えないかと思っていましたが、まだ実家で両親と暮らしていたのでそのことは言い出せませんでした。しかし、父親は私と同じく犬好きだったので、動物嫌いの母親の反対を押し切って自宅で飼えることになりました。私達はその犬をユモと名付けました。 そして、翌年私は就職し自宅を出る事にしました。その時、一人で心細かろうと父親がユモを差し出し「一緒に二人で暮らしなさい」と言ってくれました。ユモは、大人しく人に従順な性格でした。その為、私が住み始めたボロアパートの大家さんもペットを部屋に入れる事を黙認してくれたのです。私は、ユモと過ごす日々が楽しく、ユモが可愛くて仕方ありませんでした。散歩には毎朝欠かさず連れていき、夕食は毎日一緒に食べ、寝る時も同じ布団で眠りました。 しかし、今から5年前の夏、私が仕事から帰った私は台所で亡くなっているユモを発見しました。私は、昨日までは元気だったのにどうしたのだろうと考えた結果、締め切った部屋の中で熱中症にかかってしまったのだろうと気付きました。私は、エアコンをつけたまま出掛ければよかったのにと後悔しました。私は、悲しみのあまり2日間会社を仮病を使って休んでしまいました。その事を家族に言うと、酷く怒られました。誰にもこの悲しみを理解されず、私は奈落の底に突き落とされた気分でした。 今は、ユモと同じ雌の柴犬を飼っています。勿論今まで以上に気を遣っています。
16年生きた愛犬の死 3年経っても悲しむ気持ちは消えない
私のペットは3年前に亡くなりました。16年一生懸命息抜きました。犬種はミックスで、ビーグルと柴犬のミックスなので、足長のビーグルちゃんでした。名前はライムと言います。ライムは私の家で初めてのペットだったので、家族も大変可愛がっていました。私が7歳の時にやってきたので、兄弟のように一緒に遊んだりと成長していきました。大変やんちゃな性格で、よく家族を困らせていました。10歳を過ぎてからは落ち着いてきたライムですが、やはり散歩や来客が来た時はかなり吠えまくりっていました。15歳になり、かなりおばあちゃん犬になりました。大好きな散歩とご飯以外は寝て過ごすことが多くなってきました。この頃には私も大学生となり県外の大学に進学していたので、ライムと過ごす時間もかなり少なくなっていました。そんな中ライムも16歳になりました。私がバイトを終えて実家に久々に帰省すると、弱りきった足でゆっくりと出てライムは迎えてくれました。そして、お正月も終わり私がまた県外に行く日がきました。行く前にライムに挨拶をしに行くと、滅多に吠えることもないライムが「ワンワン!」と二度と吠えてくれました。私は一度ライムの頭を撫でて、後ろを振り向かず実際を後にしました。振り返らなかったのはまだ会えるから大丈夫!という気持ちがあったからです。しかし、その3日後に母からライムが亡くなったよと電話がありました。私は衝撃でした。理解が出来ず、なんで?という思いが込み上げてきました。もっと一緒に居たあげたらよかったと強く思いました。家族も同じ気持ちだったようで、ライムが亡くなった後はビーグルを見にペットショップを回る日々でした。しかし、このままではライムの供養にもならないと思い、私たち家族は前を向いて生活をしていこうと話し合いましたが、中々ライムを悲しむ気持ちは消えないものです。
イノシシ除けの毒団子を食べて亡くなった愛犬 すぐに気が付けばよかったと後悔 新しい仔をむかえ気持ちも安定してきた
4年前の梅雨時期、私が社会人1年目に私たちの家族の一員となって生活していた愛犬のビールが散歩中にイノシシ除けの毒団子を食べて亡くなりました。私が社会人1年目で仕事の事ですごく悩んでいました。相談する相手がおらず、1人ですごく孤独感を感じていました。そんな中、ペットを飼って少しでも気持ちが癒され楽になればと思い、近くのペットショップへ行き、一目見てこの子だと思い、飼い始めたのが豆柴のビールでした。父や母からも歓迎ムードで迎えられ、子供のように可愛がられながら、成長していきました。家族の一員となって、3年目の6月の出来事です。私はその日が仕事が休みで、朝御飯を食べ、ビールと一緒に散歩に出かけました。散歩コースは近所の裏山を頂上まで登って帰ってくるコース。だいたい40分コースです。その日は雨が降っており、傘をさして、ビールはポンチョを着ての散歩です。裏山を登り始めて少し経った時、ビールが急に口から泡を吹いて倒れたのです。呼びかけても、身体を叩いてもピクリともしません。私はすぐに親に電話して助けを求めました。そして、家に連れ帰りすぐに病院へ直行。しかし、時すでに遅くビールは天国へといきました。私はショックで何も手がつかなくなりました。仕事へいってもやる気がなく、ミスばっかりして上司から怒られ、友人と遊びに行った時も楽しめず、笑うことができず、その内友人からの誘いもなくなりました。私は毎日毎日後悔ばかりしていました。あの時、ビールが毒団子を口にした事に気づきすぐ吐かせていればと、、、。そんなことばかり考えて1年が過ぎました。私はこのまま一生つらい気持ちのまま過ごして人生を終えるのかと。そんななか1つの転機がありました。親が私に立ち直るキッカケとして、新しい家族の一員を見つけてきてくれたのです。それは、チワワで名前は元気です。最初はまたビールと同じことが起きたら、耐えれないという気持ちから可愛がることができませんでした。しかし、私の前で見せる仕草や行動がものすごくかわいいのです。そんな元気を見てるうちに自然と私が笑っていることに気づきました。今では気持ちも安定して、元気とともに楽しく生活しております。決して、ビールのことを忘れた訳ではありません。ビールはいつも天国から私を見てくれていますし、ビールいてくれたからこそ、今の私があると思ってます。ビールありがとう。
家族全員で愛情いっぱいでそだてた愛犬 亡くなっても後悔はない でもいつも心の中にいる
港で車から投げ捨てられた仔犬。私の父がその仔犬を車で拾って連れて来た雑種の犬。黒いボーダーコリー似の雑種です。人間不信になり、最初は中々心開かなく抱っこも出来ない位震えて逃げ回り時間がかかりました。家族で愛情たっぷり育て、家族も愛犬もお互いにいなくてはならない存在となりました。旅行も買い物もドライブ、車が大好きな愛犬。助手席は彼だけの定位置で、いつも出掛ける時はずっと一緒でした。旅先も家族交代で愛犬の様子や散歩の為、車で一緒に仮眠する事も多々ありました。私の青春時代から成人する間ずっとそ愛犬と成長しました、色々な事教えてくれた愛犬。ガンと老衰で18年の障害を私の車の中で終えました。年齢的に衰えながらも、亡くなる前日までは自分の足で散歩して、大好物なフライドチキン丸々一個一緒に食べました。その翌日、かかりつけのお医者さんに診察、体調が悪かったので先に愛犬を大好きな助手席に乗せ、薬貰う時間まで寝かせました、そして…そのまま息を引き取りました。息を引き取った愛犬を私が抱っこして連れて家に戻り、家族は号泣。しかし、愛犬は幸せそうな顔でした。家族皆んなで愛情たっぷり育てたので後悔なんて一切まったくありません。愛犬が亡くなってからもう15年の月日が経ちました、その子からは一切犬を飼っていません。別れが辛いのもありますけど、私も結婚し子供が出来て環境変わらりました。本音はあの子以上の愛犬はもう一生出逢えないと思っています。でも、やはり犬好きな私や家族。時間が経過したけどいつも心の中に愛犬は居ます。もう少ししたら犬里親センターに行こうかなと思っています。たまに我が愛犬と似ているワンちゃん見る時には思わず愛犬の名前を言ってしまう自分がいます。いつかまたどこかで逢えると信じています、その時は一緒にいつまでどこまでもドライブして、ずっと抱き合ってずっと一緒に布団で寝たいです。一生私の心の中で生き続けています。