犬を亡くしてペットロスになった体験談

2024年1月14日

妻の退院を友にまった愛犬の死 ベッドもエサのストックも片づける気にはなれない

結婚して一緒に住むようになった妻が連れて来た犬、それがポチとの出会いでした。


はじめは私を警戒していたものの、一ヶ月も一緒に暮らせば、私の手からエサを食べてくれたり、私がうたた寝をしていると知らぬ間に横に寄り添って寝ていたりするくらいに私にも懐いてくれました。


そうしたころ、妻が鬱で入院することになり家には私とポチだけの日々となりました。


妻のいない寂しさも、ポチに、妻が帰ってくるまで一人と一匹で頑張るぞ、などと声をかけて寂しさをまぎらわせることができました。


ポチも妻のいないことが寂しかったのか、より私に懐こい態度となりました。



そんなポチも、昨年の12月に死にました。



その半年ほど前に立ち上がれない、という症状ため病院に連れていったら前庭疾患とのこと。

もう老犬なので仕方がないとも言われました。


フラフラと足取りも危ないので散歩にも連れてゆけず、なんとなく弱ってゆくのを見守る日々でした。



そうしてついに、まったく立ち上がれない状態になり、ご飯も食べなくなり、なにか夢を見ているように虚ろな目でヒャンヒャンと鳴きはじめて、12時間ほど。

声がしなくなったのでポチを見にいったら、死んでいました。



ご飯が食べれなくなったら、もうそろそろだ、と覚悟はしていましたが、目の前に動かくなった体をみると、こちらも放心状態で動けなくなってしまいました。



まだ温かい体を抱きしめ、楽しい一生だったか? 死んだってずっと友達だぞ、など声をかけてやりました。

ぼろぼろと出る涙は止まりませんでした。


妻の入院など、辛い日々を共に支え合ってきた親友の死です。



どうすれば良かったのか、いま考えてもわかりません。


ポチが倒れてからネットで調べて、餌も高タンパクな栄養価の高い、高価な物を与えていました。


反省としては散歩かもしれません。

ポチが歩けなくなってからは、ずっと宅内に閉じ込めていた状態でした。

歩けないなら、カートにでも乗せて外を歩き、外の景色を見せてやるべきだったのかもしれません。


そして最後、死の瞬間に傍にいてやれなかったことが心残りです。



ポチが死んでから一週間、こちらの食欲もなくなりました。

ポチの足音の幻聴も聞こえました。


こうして思い出す機会があると、胸が張り裂けそうにまだ痛みます。



そろそろポチが死んで一年になりますが、ポチのベッドもエサのストックも片づける気にはなれなくて。

ポチが帰ってくることを期待しているわけではありませんが、なんとなく…。

片づけてしまうとポチのことを忘れてしまいそうな、忘れられた時に片付けに手をつけられるのか、そんな感じです。

愛犬が車にひかれるきっかけを私が作ってしまった 悔やんでも悔やみきれない

私が中学校2年生の時、飼っていた犬のサリーが車にひかれて死んでしまいました。

サリーはまだ10か月の赤ちゃんでした。



サリーは私が小学校4年生の時に公園で拾ってきたクロの子供でした。

クロが妊娠し、お腹が大きくなっていく姿を側ですっと見てきました。



サリーが無事に産まれた時、私は嬉しくて仕方ありませんでした。

手のひらに乗るサイズのサリーが無事に育っていくのか心配で夜中に何度も様子を見に行ったりしていました。



無事に成長し、外に行けるようになってからは毎日散歩に行き、夜は一緒に寝ていました。

サリーは外が大好きだったので庭にドッグランを作り、その中に昼間に過ごせる犬小屋も用意しました。



ある日、知人に不幸事があり留守番をさせて家族で出掛けることになりました。



夕方には帰れるとの事だったので、部屋の中ではなく庭の犬小屋に入れ、ドッグランに鍵をかけて待っていてもらう事にしました。



しかし、突然の不幸事に焦っていたのか、鍵がきちんと閉められていなかったようです。



お葬式から帰ってくると、家の前に車で引かれた状態で倒れているサリーの姿がありました。



ドッグランの鍵を最後に締めたのは私です。

サリーを殺してしまったのは私だと思い、ショックで何も出来ない状況になりました。



私が学校に行ったりご飯を食べたり、普通に生活をすることがとても罪であるようにも感じました。



どうして鍵を閉めなかったのか、室内で留守番させなかったのか、悔やんでも悔やみきれませんでした。



また、母犬であるクロから子供を奪ってしまったことも申し訳なくて仕方ありませんでした。



結局、しばらくは学校にも行くことができませんでした。

学校に行き始めてからも、何をするにもやる気が出ませんでした。



そんな私を助けてくれたのはサリーの母犬のクロです。

サリーがいなくなってから、夜に私のベッドに来て一緒に寝てくれるようになったのです。



大丈夫だよ、責めないでと言ってくれているような姿にとても救われました。



私のせいでサリーが亡くなってしまったという事実は今でも胸に後悔として深く残っています。



中学2年生であった私も今では結婚し、2児の母です。

そして昨年、犬を飼い始めました。



ずっと私が犬を飼って良いのか不安でしたが、子供の希望もあり我が家の家族として迎え入れました。

やはり、犬と過ごす毎日は幸せです。



サリーの分も愛犬を幸せにして、今度こそ何があっても守り抜きたいと思っています。

リウマチが発症、その後安らかになくなった公民館で拾ったかわいい豆柴雑種 10年後やっと犬小屋を壊せた

学生の時に近所の公民館にダンボールで子犬が2匹捨てられており、近所の同級生のおばさまから両方は無理なので1匹ずつ飼わないか?と、提案されて片方をもらうことにしました。



柴犬とコーギーのハーフなのか、外様な雰囲気もあるがスタイルは完全に豆柴。



前の犬がなくなってから飼うこともなかったですが今回はと思い引き取りました。



数年間は普通の雑種の豆柴として元気に過ごしていましたが、10年経過した時に、あまりにも歩けなくなっていることにおかしいなと思い、獣医に行きました。



すると、人間でいうリウマチのような状態になっており、普通に歩くこと、座ることがとても痛くて難しい難病であることがわかりました。



家族全員でとても悲しみ、また、難病であるので医療費もかなり高額になり、ペット保険なども知らなかったので、家計も苦しくなりました。



一度は持ち返したのですが、やはり数年後、後ろ足が動かなくなり、毎日オムツをつけての生活が始まりました。



痛そうに鳴く声は未だに耳に残り、何もできずに家族全員でとても悲しい時期でした。



しかし、医者にてついに痛み止めが効いてきたのか、最後には普通に庭で日向ぼっこをして、晴れた天気の良い日に安らかに亡くなりました。



近所でも評判の吠えない優しい犬、誰にでもニコニコし頭を撫でさせてくれる犬だったので、犬小屋を取り壊すことも悲しく、できないまま、10年そのままで過ごしていました。



たまに夢に出てきてくれて一緒に散歩していますが、あの世に行ってもずっと待っててくれるということなのかなと思え、やっと今年犬小屋を壊しました。



気持ちが通じていれば魂は永遠に死んでいないのだと思います

留学中になくなった愛犬 同じ苦しみがわかる友人たちのお陰で癒される

小さい頃から犬が大好きで、物心ついた時からずっと両親に犬を飼って欲しいと頼んでいました。

しかし両親は、私が生まれる前に駆っていた犬の、不慮の事故での死があまりにも辛く、もう二度と犬は飼いたくないと言って、飼う事を許してくれませんでした。



しかし、私が中学二年生になった時、父の友人宅の犬が子供を産み、最後の赤ちゃんの引き取り先を探していて、父が「どうしても飼いたいなら、貰ってきてもいいが、自分でしっかり世話すると約束できるか?」と念を押され、私は「絶対にする!」と同意しました。

それが、私と勇太との出会いでした。



とはいえ、当時私はテニス部で部活に忙しく、朝練と放課後、夕方から夜までは塾という生活でしたから、結局は母がメインで世話をしていましたが、私もできるだけ手伝いました。

勇太は家族みんなに愛され、近所の人達・子供にも凄く可愛がられて育ちました。

家族の一員でした。



それから10年後、私は3年のイギリス留学に行く事になりました。

勇太は私が旅立つ朝、ワンワンと激励してくれてましたが、それが最後の別れとなりました。



あと1年で帰国・・・という時になって、電話で、勇太が亡くなった事を知りました・・・。

ガンで、気がついた時には手遅れだったそうです。

最後の3日間は殆ど食事もとらず、私の車の下に入ったまま出てこなくなり、そのまま亡くなったそうです。

あなたが必死で頼みこんで我が家の一員になった事、分かってたのかもしれないね・・・と母が言いました。



それを聞いて、私は泣きました。

胸が張り裂けそうでした。

食欲も全くありませんでした。

しかし、私がラッキーだったのは、間借りしていた大家さんが大の犬好きでジャーマンシェパードを飼っていたので、私の悲しい気持ちがよく分かるとなぐさめてくれた事、当時付き合っていたボーイフレンドも愛猫を亡くした経験があり、彼もペットを亡くした辛さが分かると言ってくれた事です。



彼らにとっても、犬や猫はただのペット以上の存在で、私の気持ちの共有をしてくれた事で、随分と癒されました。



それから私は結婚し、子供ができ、昔の私のように息子に「犬を飼いたい」と何度もせがまれましたが、未だ、飼っていません。

別れが辛いからです。

昔の両親の気持ちが分かるようになりました。

その息子は今、大学生になり、自分が家庭を持ったら犬を飼いたいと言っています。



そうなったら、その時は、私にも新しい出会いが来るな・・・と思っています。

息子家族の代わりに未来のワンちゃんの面倒を見る日がいつか来るかもしれません。

今はその時を、楽しみにしています。



その時は天国の勇太に、報告したいと思います。

玄関の扉を開けていたせいで亡くなった愛犬 母は責任を感じ謝罪 母を元気にさせようと遺品整理

私が小学生2年の時に近所で子犬が3匹生まれ引き取り手を探していると母が聞きつけ、私を連れてそのお宅に行き3匹の中から1匹を選んで、と言われ、一番小さい栗毛のコロッとした子を選び抱きかかえてもらって来ました。



名前は何にすると言われ、私が気に入った見た目のコロッとした感じからコロと名づけその日から私に弟ができた気分でした、

雑種のコロを私は部屋で一緒に過ごすとばかり思っていましたが、今とは違い、まだ犬小屋の準備もしていなかったので、玄関にダンボール箱を置き、中にモーフを引いた簡易犬小屋を設置してくれた母に対し、何故部屋で一緒いいさせてあげないのか?としつこく聞き、糞尿のしつけもまだな子犬を部屋で飼うなど考えてもいなかった母は、ずーと玄関から離れない私に困ったといいます。



最初の日は結局私は玄関で寝たそうです。



それからが楽しい日々でした、学校に行く時はコロがとちゅうまでお見送りをしてくれ、教えてないのに、道の角をまがるとピタっと止まりわたしが歩いていくのをジーと見送る、学校から帰って来て玄関を開けた途端に外に飛び出して、私の周りを走り回り、私もランドセルを放り投げ、コロと一緒外の一本道をかけっこですが、小さいとは言え、流石に犬ですから私を軽く抜き、遥か彼方に走っていきます、大声でコロと呼ぶと振り返り止まってこちらにこようとするのですが、直進のベクトルが強すぎ必ずコロコロと転びながら体制を変えて私の元に走り返って来ていました。



そんなある日、コロが玄関に居ない、勝手に外に出たらしく探し回りましたが見つからない、心配でしょいが無い中、コロがお家に戻って来た時に誰も居ないとお家に入れないからと母に説得され家に戻るとゴミだらけになったコロが玄関前に座ってました、

直ぐに身体を洗い、家にいるましたが容姿がおかしい、ごはん、と言っても昔ですから、猫まんまですが、だしても口をつけない、しまいにはゲホゲホと咳き込みながら吐き出すしまつ、当時は動物病院など近くにはなく、もらった家に連絡してその家のだんなさんが車を出してくれ病院に、レントゲンを撮ってもらったところ何か金属のようなものを食べたと思われるとの事で、手術だとなりましたが、体力がかなり低下して居たらしく、手術に耐えられずにコロはそのまま家には戻ってきませんでした。



母は悲しむ私を見て、自分が玄関を開けて居たせいだと自分を責め私に謝します。



コロがいない悲しさはありますが、それよりも、母がなきながら私にごめんねと言う姿の方が辛く、早く元気にならなければと思い自分からコロに関しての一切の物を捨て、早く母が笑えるようにと努めました。



時間が経つに連れ、コロがいないことが当たり前になり、事情により家も引っ越すことなり、これが良いきっかけに成りコロは思い出に変わりました。

ドライブが好きだったゴン

7年前の春、13年一緒に過ごしてきたマルチーズのゴンが天国に旅立ちました。



ゴンとの出会いは学生の頃、下宿先の近くのペットショップ。

いつかは犬を飼いたいな、でもアパートだし無理だよな、と思いながら見ていたところ、店員さんの「抱っこしてみますか」の声で抱っこさせてもらったのがゴンでした。



初めて触る子犬の感触。

小さな命のはかなさ、温かさに触れて、もう離れることができなくなっていました。



貧乏学生には思い切った値段でしたが、夏休みの旅行に行こうと貯めていたお金でゴンをアパートに迎え入れました。

大家さんには内緒だったのですが、今思えばきっとばれていたんでしょうね。



ゴンが来てから生活は一変しました。

大学に行っている間も留守番をしているゴンのことが頭から離れず、講義と講義のちょっとした間にも様子を見に帰る毎日。

友人から付き合いが悪くなったと苦笑混じりに言われても、初めての子犬のお世話に必死でした。



大学を卒業し上京。

東京の外れでペット可のアパートを借りました。



休日には公園やドッグランで思い切り走らせたり、長期休暇の際はゴンと一緒に実家の新潟までドライブ。

車に乗ることが好きなゴンは、助手席のドアを開けると自分から飛び乗り、目的地までいつもおとなしくしてくれていました。



10歳の頃、すっかりおじいちゃん犬になり動きも少なくなったゴンに異変が見られました。

食事をあまりとらなくなり、食べても吐いてしまうことが続きました。

呼吸も苦しそうにゼイゼイとすることがあったのでかかりつけの獣医さんに見てもらったところ、心臓に異常が見つかりました。



先生曰く、今すぐ危険というわけではないものの激しい運動は禁止。

ゴンの好きなドッグランやドライブもだめとのことでした。



それからはほぼ家の中だけで過ごす穏やかな毎日でしたが、それもゆったりとした心地いい時間でした。



その日は突然やってきました。



診断から3年後の朝、私が起きたらゴンは冷たくなっていました。



目の前が真っ暗になり気を失ってしまうのではないかと思いました。

そこからの記憶はあまりありません。

病院に連絡し死亡の診断を受け、犬のお寺の連絡先を教えてもらい、火葬して頂いたことも全て夢の中の出来事のようでした。



ただどうしようもない現実、ゴンがいないという現実だけがはっきり突きつけられました。



ゴンが亡くなって以降、他の犬を一切見ることができなくなりました。

テレビのペット番組はすぐチャンネルを変え、散歩している犬からはできるだけ離れるようにしました。



しかし、ゴンの死から3年経ったある日。

突然何の前触れもなく、ゴンの死を受け入れることができました。

あまりに突然のことで自分がびっくりしました。



時間が解決してくれる、とはよく言われることですが、私にとってゴンの死を受け止めるには3年という時間が必要だったのでしょう。



ゴンの命日には毎年お墓参りに行っています。

お墓に一緒に収めたお気にいりのクッションで、ゴンは今日も楽しくどこかをドライブしていることでしょう。

フィラリアで亡くした愛犬 顕微鏡でみたフィラリアがいまも少しトラウマに

物心ついた頃から家で飼っていた愛犬は私が中学生の頃に亡くなりました。



名前はシロ。

その名の通り白い犬でした。


飼い始めたきっかけというのは兄が友達の家のハムスターをいじめたという一件があり、動物に優しくするという心を育てなければということで、親が動物を飼おうと決心したのでした。


近所の家で生まれた犬を譲っていただき飼い始めました。



私が物心ついたときにはすでに家族の一員でした。


大きさは中型犬といったところでしょうか。

紀州犬のようなりりしい顔つきの白くてきれいな犬でした。


頭がよく、気位の高い一面があり、粗末なエサは口にしない、人をよく覚え、お客さんでも好き嫌いが激しく、何度家に来る人でも吠える人には吠える、ときには噛みついて大事になったこともありました。



外飼いで、最後はフィラリアが原因で亡くなりました。


今時室内犬も多く、フィラリアの予防薬をきちんと服用させている人が多いと思いますが、当時は親もおおざっぱで、気にしたこともなかったのです。



シロが10歳くらいのころ突然ぐったりとしはじめ、食欲がなく、様子がおかしかったため、動物病院に連れて行きました。

動物病院で採血をされ、獣医師が顕微鏡で確認し、フィラリアだと診断されました。

その当時私は小学生だったのですが、獣医師が顕微鏡をのぞくよう促しました。

覗いてみると真っ赤な血の色を背景に白く細長い糸のような虫がうようよといました。

これがシロの血管の中でうようよしているのかと想像するとぞっとしました。

今でも若干のトラウマになっています。



動物病院で処方された薬を飲ませるとぐったりとしていた様子はすっかり良くなって元気になりました。

しかし半年ほどして再び症状が再燃。

また動物病院で同じ薬を処方されて服用させるとよくなる。

こういったことを何度か繰り返すうちに13歳でシロは亡くなりました。

4歳でガンでなくなった愛犬 同僚に悲しみを伝えても理解できないことに寂しさを感じた ワンちゃんとの楽しい時間を忘れることはない

私がそのワンチャンと出会ったのは、12歳の誕生日の時に父親がプレゼントをしてくれたパグです。

以前から、パグのことをとても欲しいということをたびたび話をしていたので、そのことを覚えてくれていてプレゼントをしてくれたのです。

とてもクリクリとした目が愛らしく、たまらなく可愛いワンちゃんでした。



そのワンちゃんとも、12年ぐらい一緒に過ごすことができると楽しみにしていました。

ところが、4歳になった時にガンが見つかってしまったのです。

お腹のあたりにあるがんのために、あっという間になくなってしまいました。

その時は、まさかなくなることはないだろうと思っていたんですね。

ところが、それが見つかって数ヶ月でなくなってしまったのです。



心の準備もできていないまま、可愛いワンちゃんを失うことになりました。

その悲しみは、家族も同じです。

家族全員が食事も取れないほど落ち込み、苦しみました。



特に可愛がっていた私は、仕事をしたくない、仕事をしていてもやる気ないなどが続いたのです。

そのことを同僚に話すのですが、ワンちゃんをかったことがない人は、その悲しみについて理解してもらうことができないのです。

そんなに悲しいことなのかという感じです。



そんな時、別の職場の人に話をした時にその人も同じようにペットをなくした経験があり、とても理解してくれたのです。

話をしていて、ワンちゃんのことを忘れることはできないけれど気持ちが少し楽になったことを覚えています。



ワンチャン、短い時間だったけど一緒にいてくれてありがとう。

父の49日の3日後息を引き取った愛犬 悲しかったが、愛犬と父がともにいると思うと私もがんばらなくちゃと

父がペットを飼いたいと強く希望して我が家に柴犬を迎えました。

私は犬が苦手で母もそんなに好きではなかったので、初めは大反対しました。

でも父が全部自分でやるからと言って飼う事になりました。

何匹かしば犬が生まれたと知り合いの方にきき、良い言い方で言えば優しそうな、悪く言えば弱そうな犬を選んでおうちに迎えました。

普通は丈夫そうな犬にしますよね笑)それくらい犬が怖かったんです。


でも犬を迎えてしまえばそれはそれは可愛くて、特に我が家では父がとっても可愛がっていました。

うちには女ばかりで父だけが男だったこともあり、オスであるペットを息子のように育てていました。


とくに病気にもならずに10歳くらいになったときに父が病気になりました。


私と母は看病と仕事で疲労困憊ででしたがいつもペットが癒してくれました。

3年看病したのち、父が亡くなりました。

まだ50代だったこともあり、家族は落胆していました。

お葬式の日ペットは凄い泣き喚いていて近所から心配の電話がかかってきたほどでした。

あー犬って分かるんだなと思いました。

父の49日が終わり、3日ほどが立ったとき、朝ペットをみると寝ていました。

ご飯をあげても反応がないのでまだ寝ているのかーと思って起こしてみるとすごく小刻みに震えていました。

風邪とは違う感じで昨日まで歩いていたのに立つこともままならなくて、察しました。

毛布をかけると完全に動かなくなりました。

そうです。

亡くなってしまいました。

この時すでに13歳だったので、大病もせず亡くなるのは不思議なことではないのですが、時期が時期だっただけにびっくりしましたし、父とともにペットも亡くなった我が家、、とても悲しかったです。


でも父もきっと楽しくペットとともにやっていると思うので母と元気に生きていかないとと感じました。

ペットが死んだくらいで休むな!担任の暴言に傷つく 大事な家族なのに…

ペットという言葉はあまり使いたくありません。


 本当に家族の一員でした。



 丈(オスの犬)とであったのは、小学校6年生でした。

近所で生まれた子犬を父が引き取ってきたので、我が家で飼うことになりました。

最初は、エサやりや散歩、掃除などが面倒でした。

しかし、遊んであげると尻尾を振りながら近づいてくる姿に愛着が出てきました。

中学生になると毎日のように散歩で、家のすぐそばの河川敷を走りました。



 毎日、一緒にいると本当の家族のようでした。

しかし、高校3年生の夏に丈は交通事故で死んでしまいました。

本当に辛かったです。

家族も全員、悲しみで辛い思いをしていました。

特に、丈をつれてきた父は明らかに脱力し、1週間は大好きなお酒を一口も飲みませんでした。



 私もとても辛く、学校を3日ほど休みたいと思いました。

決してサボりたいという気持ちではなくて、丈の葬儀や埋葬をして弔いたい気持ちでした。

家族も葬儀や埋葬について賛成をしてくれました。

父は、丈との最後のお別れだからということで、会社に有給を申請し、休みを取ってくれました。

私も学校に丈が死んで葬儀をする旨を伝えました。

そうすると学校の担任から驚くことを言われました。

担任の先生はペットが死んだくらいで休むなと高圧的に電話を切りました。



 ペットが死ぬということは、家族がいなくなるのと同じくらい辛い体験です。

ペットを飼ったことのない人は分からないかもしれません。

しかし、その悲しみを想像して、悲しんでいる人をさらに悲しむようなことを言わないことが大切です。



泣き顔は夫にみせず、実家の犬の仏前で夫が泣いてくれたことで気持ちが落ち着いた

ペットロス

Posted by 管理人