犬を亡くしてペットロスになった体験談
「そばで見守っていてね」愛犬の死に泣いた後は心配しないように笑っていようと決意
私の記憶の中のチャッピーは、私が生まれてからずっと一緒だという記憶しかありません。両親にチャッピーのことを尋ねると、チャッピーは両親が山へドライブに出かけた時に拾ったと教えてもらいました。私はまだ母のお腹の中でした。山の中でドライブ中、狐でも飛び出してきたかと思い、車をとめたところちょこんと座っていたのがチャッピーです。ふさふさの毛でクリーム色の可愛い顔をしたポメラニアンでした。母親は幼いころに野良犬に追い掛け回された経験があり、それ以来犬が苦手です。そんな母が、「この子は家に連れて帰ろう。このままだと、いずれ死んでしまう」とチャッピーのあまりの可愛さに言い出したほどでした。車に乗せるときも、恐る恐るの母。父はそんな母をみて笑っていたそうです。そして私が誕生します。赤ちゃんの私は、チャッピーの毛を引っ張って遊ぶのが大好きだったみたいです。チャッピーからしてみれば痛くてたまらないはずなのに、「ガブッ」っと私の手を噛んだフリをしてくれるとてもやさしい犬でした。一緒に育ってきました。どこ行くにも一緒で寝るときも、私はチャッピーと一緒にお布団に入りたいのですが、犬のチャッピーからしてみたら暑くてたまりません。お布団からでていってしまいます。それがとても寂しくて…そう思っていたら、私の足元でくるまって寝てくれたんです。子供心にその優しさにとても心暖かくなりました。小学校に上がるくらいの時です。チャッピーの体調がわるくなったのは。それ以前から兆候はあったそうです。母の話ですと。そこから段々チャッピーは弱くなっていきました。病院からだされたお薬を母が潰して、チャッピーが少しでも食べやすいようにと餌に混ぜたりしていました。その時のことは実はあまり良く覚えていません。ただ、私が帰ってきたら両親がチャッピーを病院に連れて行って帰ってきた後でした。白い箱に横になって目をつむっていました。もう全く動かないんです。置物みたいに。犬の形をした人形のようで。だからなおさら小学生の私には実感がなくて、その時その瞬間は悲しくなかったのを覚えています。ただ、状況が呑み込めていなかっただけです。そのあと、火葬場にいってようやくもう二度と会うことができないんだと、やっと実感しました。家に帰ってから、チャッピーのいない空間に自分の身を置いて初めて実感しました。そこからはずっと泣きどおしです。でもいつまで泣いてもどれだけ泣いてもチャッピーは帰ってこないというのはわかっていました。だから、いいだけ泣いた後はチャッピーが心配しないように笑っていようと決意しました。私の喜怒哀楽のある豊かな人生をチャッピーに見てもらって楽しんでもらおうと。その方がきっとチャッピーも喜びます。それからは見えないけど、近くにいる、見えないけどチャッピーはみていてくれる。そう思うようにして今を生きています。
愛犬の悲しい老衰 悲しみ続けることを愛犬は望んでいないと実感 感謝の気持ちが大切だと私は思う
2017年某日、実家で暮らしていた愛犬のキラが無くなりました。死因は老衰です。僕が小学2年生の頃に姉が毎朝散歩に連れていくとの約束の元飼う事となりました。しかし、リードの引っ張り癖やオートバイや中型以上の車に対しての吠え癖やが酷く、姉も飼い始めてから数カ月もしないうちに嫌になってしまったらしく、毎朝どころか散歩に行く事も無くなってしましました。それは僕も同様で、特に吠え癖は吠えるだけでなく対象に全力で向かって行くので、それを押さえつけるのは本当に大変で嫌な事でした。それから高校生になるまで、僕は本当に気が向かない限り散歩には行きませんでした。結局散歩に行くのは父親だけになってしまい、キラは平日は朝から晩まで家に閉じ込められたまま、家でも宅配便やバイクへの吠え癖は酷く、吠える度こっ酷く叱っていたなと思います。怒りに任せて毎回のように手をあげていました、理不尽で嫌な事も多くしていました。本当に愚かで酷い事をしてしまったなと感じています。僕が高校生になる頃にはキラは体力的にも衰え、ようやく散歩のペースが合う事が分かり、そこからは毎日とは言えないものの良く散歩に連れていけたと思います。吠え癖で暴れても全盛期程の力はなく僕も力がついてきたので、何とか押さえつける事が出来ました(笑)お気に入りだった場所は電車が通る横の全長500m程の広場で、電車が一番興奮するらしく電車が通る度、電車と一緒に爆走していました。家でのお気に入りの遊びはかくれんぼでした。必ずキラが鬼役で僕は至るところに隠れました。家の中だと、鼻も効かないらしく、なかなか良い勝負を毎回していました。見つけた時の喜び方は凄かったです(笑)ほんの一部の話ですが本当に良い思い出です。それから僕は短大に行き、そして社会人となり2年目には実家を離れて暮しました。その短い期間でキラは何度も体調を崩し病院のお世話になっていました。死が確実に近づいているなと会う度に感じつつ月日は過ぎ、その最期は突然やって来ました。休日の朝、朝食を取りながらスマホを確認すると父親からメールが来ていて、何となく察しました。夜中に亡くなったとの内容でした。残った朝食は食べる気にはなれず、喉を通らないという感覚を初めて体験したと感じます。正直実感が湧かないままボケーっとしながら実家へ戻りました。亡くなったキラと対面した瞬間一気に悲しいという感情が溢れ、涙が止まりませんでした。こんなに悲しく、こんなに泣いたのは初めてでした。その日の内に合同葬儀屋への引き渡しがあり、自分の中では落着きを取り戻していたと感じていたものの、待合室では歯を食いしばって涙をこらえていました。そして、最期のお別れの時、もう駄目でした、家族の前で恥もせず一番泣きました。翌日の仕事は正直全然力が入らなかったです。ショックでした。ですが、2日目以降からは通常通り仕事が出来ました。これはペットを亡くされた方全てにお伝えしたいのですが。へこんでいても仕方ないのです。後悔しても仕方ないのです。もう過ぎた事なのですから。きっと亡くなったペットもそんな事を望んでいません。ありがとうという感謝の気持ちを持つ続ける。そしてその経験を無駄にしない、次に活かす。何より、ペットとの思い出を忘れない。思い続ける。それでいいじゃないですか。
愛犬の安楽死を選んだ自分の選択に、15年経った今も胸がいたい
愛犬のシベリアンハスキー、ランを14年飼っていました。最期を看取ってから15年がたちます。生後3ヶ月で家にやって来た時は、スリッパよりも小さく、庭を掘り返したりリモコンを破壊したりやんちゃばかりしていました。14歳のおばあちゃんになった頃、近所に住む姉夫婦に子供が産まれました。きっと家族皆の注意がそちらに向けられていたのでしょう。寝ている時間が長くなったのも、単に年をとったせいだと思っていました。焼きもちをやいてるのかもしれないね、と家族で笑っていた事を思い出します。愚かでした。その後急激に食欲が落ちました。自力で立ち上がる事さえできなくなるまでは信じられないスピードでした。急いで獣医にみせた時に言われた言葉は「もって明日か明後日でしょう」なぜもっと早く気づいてあげられなかったのか、なぜすぐ獣医に連れて来なかったのかと自分を責めました。「このままではとても苦しいし痛いと思いますが、どうされますか」朦朧としながら苦しんだ体を強張らせているあの子を前に、私がとった手段は安楽死でした。死ぬ瞬間までの数日間、こんなに苦しい思いをし続けるこの子を救う方法はそれしかないと思ったからです。家族皆に見守られながら、薬が体に入った直後、全身の強張りがふっと和らいだ瞬間を今でも覚えています。私は最期まであの子を見守る事から逃げた。自分が辛いからあの子を死なせた!そんな思いでいっぱいになり、申し訳なさ、自分勝手さにつぶされそうでした。何度も何度も謝りました。正直15年たった今でも胸が痛いです。けれども時間とともに、あの子が嬉しそうだったことや、一緒にあそんではしゃいだ事を思い出せるようになってきました。今は後悔もありますが、感謝の気持ちが大きいです。写真を見るたび、ビロードみたいな耳の柔らかさやふかふかのお腹のさわり心地を思い出し、ありがとね、と話しかけています。
20年前に亡くなった愛犬 18年生きるも後悔はつきず写真を見るのも辛い いまだに新しい仔を迎える気が起きない
28歳の時、10歳の時から18年飼っていた犬が死にました。茶色の犬で、足先だけ白くまるでタビをはいているようで、「タビ」という名前でした。一番多感な時期を一緒に過ごし、家族同然だったためしばらく立ち直れませんでした。街中で似たような犬を見かけるともう涙が止まりませんでした。今でも写真を見ただけで辛いです。最後の2年は足腰が弱くなり、散歩紐を見せただけで嫌がって逃げてしまい、一日狭い家の庭で過ごすことが多くなりました。獣医さんには18年生きたから大往生ですよ、と言われたのですが、もっとあちこち元気なうちに遊びにつれていってあげればよかった、カルシウムを若い時に取らせていれば最後まで元気に歩けたのではないか、と後悔ばかりの日々でした。雑種で、おとなしい性格で散歩で他の犬がすれ違う時もびくびくしてしまう仔でした。子どもが大好きで、近所の子に耳やしっぽを引っ張られたり、突然触られてもじっとしている優しい仔でした。私に辛いことがあった時はなんとなくわかるのか、べたべたとくっついてきてなぐさめてくれました。私の落ち込みがあまりひどいので「似たような仔が里親ででていたよ」と周囲はすぐ次の犬を飼うように勧めてくれたのですが、飼う気になれずにその後20年ペット無しで過ごしています。時々、一緒に散歩している夢をみます。ほとんど吠えない子だったのですが、夢の中でも黙って私の方をみてしっぽを振っています。死んでも私を守っていてくれるのかなと心強いです。亡くした直後は辛いですが、どこかでペットとあなたはつながっています。時々そっと思い出して心の中でペットの名前を呼んであげてください。
国際電話で知った愛犬の死 一時帰国し庭の片隅の愛犬の白い毛取った瞬間 涙が溢れてきて
初めてテツに会ったのは、私が高校1年生の時でした。友人の家に遊びに行ったときに、「子犬が産まれたんだ。1匹、もらってくれる?」と言われました。私は家族に相談して、後日、母と一緒に友人宅を再び訪れ、もらいに行くことにしました。茶色の子が3匹、白い子が1匹。私たちは迷わず、白い子を抱き上げました。名前は父が「テツだ」と言い、即決。初めは手のひらに乗るほどの小ささで、家の中で飼っていたのですが、ある程度大きくなってからは、田舎で庭が広いため、外飼い犬となりました。犬小屋は父の手作りです。夏用に日の当たらない家の裏に一軒、冬用に日当たりの良い庭に一軒。テツは庭中を自由に動ける鎖をつけてもらって、あちこち掘ったり、収穫したサツマイモを食べてしまったり、蝶々を追いかけたり、庭での生活を楽しんでいるようでした。私は大学進学する為、実家を離れました。その後、就職、結婚と続き、もう、実家に帰るのは月に数回となりました。実家に帰るとテツの散歩をしたり、餌をあげたり、その時だけは私がお世話をしました。そうして、娘が生まれ、散歩はテツと私と娘の3人で行くようになりました。テツはまだ小さかった娘をよく追いかけたり、吠えて、父に怒られていました。そんな元気だったテツですが、次第に足腰が弱くなってきました。犬小屋に入る段差も、昇るのがやっとです。ですが、獣医さんから少しでも散歩したり、動けるうちは動かすよう言われていたので、少しだけの散歩は続けていました。娘が幼稚園生になるころには、テツはのろのろ歩きで、娘がリードを持っても大丈夫なほどでした。この頃、家族で海外移住が決まり、私たちは海外へ。毎週、実家の両親とインターネット通話をして、テツの様子も聞いていました。高齢犬の為、相変わらず弱い足腰ですが、内臓等に特に病気はないとの事。そしてある、冬の日。国際電話でテツが亡くなったことを知りました。17歳でした。あまりにも遠く離れていて、最後の日に駆け付けられなかった事が悔やまれてなりません。テツとの日々は、宝物、そのものでした。私の青春時代の写真にも、主人と結婚してからの写真にも、娘の幼い頃の写真にも、沢山のテツが写っています。夏が来て、私たちは日本に一時帰国しました。テツは実家の畑の片隅にお墓を作ってもらって、そこで眠っていました。不思議なことに、テツの上にだけ、沢山の花が咲いているのです。野生の花ですが、とても美しかったです。テツの毛の色のような、白い花でした。そして、テツのいた犬小屋。テツの白い毛が隅っこに残っていて、それを手に取った瞬間、涙が止まりませんでした。いつもいた場所にテツがいない。そこだけぽっかりと穴が開いて、そこだけ時間が止まったままで、不思議な気持ちでした。その場所に立っていると、テツとの思い出が次々と蘇ってきます。テツがそこにいるような気がして、優しい気持ちになれます。そして今、テツ2号として、実家にはテツと同じ名前の、同じ毛色の子犬がいます。テツの小屋に住んで、テツのお皿で餌を食べています。子犬のテツの横に、テツが一緒にいる気がして、私はそれが嬉しいのです。テツ、今は天国とここを行き来していると思います。子犬テツとの新しい生活は楽しいですか。テツ、私たちに幸せで楽しい時間をどうもありがとう。
小さい頃からずっと一緒だった愛犬 桜の木になっても見守ってくれている 感謝の気持ちしかない
私の実家には以前3匹のシーズーがいました。1匹目は最初に父親がもらって帰ってきて、1匹(オス)しかいなかったので非常にかわいがりどこに行くのも一緒で常に一緒に布団でおりました。次に最初にもらってきた犬の嫁さんとして、別のメス犬を連れてっかえって来て、1年後には、子供を5匹生みました。その5匹の中で一番体が小さく、弱弱しいオス犬だけ残し、ほかの4匹は貰い手がとても大切に育ててくれ、たまに子供同士の交流など行いました。最初にもらってきた犬は、年齢が14歳まで生きることが出来ました。たまたま私が仕事で出張中で帰る日に亡くなりました。そのオス犬とは、小さい時からずっと一緒で、話はできませんが私の愚痴や小言をちゃんと聞いてくれて、時には励ましてくれたり、けがなどをしたときはなめてくれたり、頭が痛い時などは、頭に手を載せてくれたりと、本当に感謝しかありませんでした。一番一緒に過ごしたオス犬であって外を走りまわるのが大好きな犬で桜の吹雪を見るとずっと追いかけているような元気いっぱいの犬でした。家に帰ると他の2匹の犬も可愛いのですが、何かぽっかりとあいた感じがして非常にさびしく感じ、食事もとれず泣いていました。オス犬がとても好きだった、桜の苗を買いに行き、オス犬を埋葬した場所に桜の苗を植えました。今では桜も大きくなり毎年とてもきれいな桜を咲かせてくれます。たまに桜の木の模様がそのオス犬に見えることもあり、私は毎日見られているような感じがして、生きている時と同じで私を今でも見守ってくれています。
登校拒否にならずにすんだのは愛犬と担任の先生の気づかい 20年経っても忘れることができない
中学生の時、14年間一緒に暮らしていた愛犬が老衰によって長くないと言われました。当時、私はクラスメイトとうまくいかずに学校へ行きたくないと思っていたのですが、愛犬がいるお陰で頑張ろうという気持ちになり、何とか通っていたのですが、愛犬がもう余命幾ばくもないという時、学校へいくことがバカらしくなり、何も食べずにどんどんと元気がなくなっていく姿を近くで何もできずに見ていることしかできず、苦しそうな愛犬の背中をさすってあげていました。学校へ行かずに愛犬のそばに4日ほどいると、とうとう息を引き取ってしまいました。辛いときいつもそばにいてくれた愛犬がいなくなったという喪失感で自分は生きている意味がなくなったと感じました。これまで、嫌なことがあったとしても、いつも慰めてくれた愛犬がいたから頑張れたのに、もう自分のことを慰めてくれる愛犬はいません。学校へ行くことも出来ず、家にいても愛犬のことを考えて泣いてばかりで、夢にまで愛犬が出てくる始末です。二週間ほど学校へ行かないと、学校の先生が訪問するようになったりと、慌ただしくなっていきました。愛犬が亡くなったことでやる気を失ったということを、誰にも受け入れてもらえないと思っていたのですが、担任の先生にそのことを話すと、元気になるまで休んでもいいと言われました。しかし、一人でいると寂しいだろうからと、毎日学校のあとに家に来てくれました。おかけで、何とか登校拒否にはならずに済みました。愛犬が亡くなったことはあれから20年以上経っても忘れることはできません。しかし、そばにいることは理解しています。今でも夢で会っては泣いてしまうこともありますが、愛犬と過ごした日々は忘れることはできない一時だったと思っています。
愛犬の死にあっけらかんとした家族 兄の暴言へのいきどおりは消えない
5年前に愛犬コロが亡くなりました。病気ではありませんでした。15歳だったので長生きをしてくれたと思っています。私が中学生の時に兄が友人からのもらってきて飼うことになりました。兄ははじめのだけ面倒を見ていましたが、半年経つと散歩にも連れて行かず私が面倒を見るようになりました。天気の良い日は広い公園に行き思いっきり走らせたり、天候の悪い日でもカッパを着させて散歩に行っとりと、いつも一緒にいました。友人や兄弟とは違った特別な存在でした。私が悲しんでいると、私の側によってきて顔を摺り寄せてくるコロが可愛くて愛おしくて仕方ありませんでした。私の気持ちを察してくれる唯一無二の存在でした。私が大学生になって実家を出るとコロに会えない寂しさからホームシックにもなったほどです。帰省をすると、コロが私のところに駆け寄ってきてくれて甘えてきました。私の帰りを待っていてくれたようで、とても嬉しかったです。就職は地元でしましたので、またコロと一緒に暮らせるようになりました。しかし、コロがだんだんと弱ってきたのです。犬の寿命は人間より短く自分より先に亡くなることは分かっていましたが、弱っていくコロが可愛そうで見ていられませんでした。一緒に散歩に行ったことや、一緒にベットで寝ていたことなどコロとの思い出が走馬灯のように蘇りました。コロが亡くなってから、しばらくは何も手につかなくなりました。家族はあっけらかんとしていて私が悲しんでいる様子を見て「犬が死んだぐらいでオーバーだな」と兄からは言われました。その一言は、5年経った今でも忘れられません。
僕の味方だった愛犬の死 泣かずに幸せに過ごすことが、愛犬も望んでいるのかなと思う
僕が小学生の頃愛犬の「れん」がこの世を去りました。れんは僕が生まれる少し前に我が家の家族として祖母が連れてきた雑種の犬です。れんという名前は男の子っぽいですがれんは女の子です。れんは僕をいつも学校から帰ってくると尻尾をふって出迎えてくれました。どんなつらいことがあってもれんだけは僕の味方な気がしてそれだけで毎日頑張れました。ある朝起きるとれんは死んでしまっていました。そのときは親に言われるがまま段ボールの中に眠るように亡くなっていたれんに線香をあげて学校に行きました。そのときはあまりのことに涙も出ませんでしたが、帰ってきていざれんがいない日常になったことに涙がともりませんでした。後から両親に聞くと夜中に最後の遠吠えが聞こえたと聞き、ますます涙が止まりませんでした。れんが亡くなって改めてその大きな存在に気づきました。「れんにどれだけ支えられてきただろう」「僕はれんに何かしてやれただろうか」「れんはうちに来て幸せだっただろうか」そんな気持ちが小学生ながら頭をぐるぐるしていたのを今でも覚えています。当時は親がいないときはれんのことばかり考えて部屋で一人泣いていました。「くよくよしててもうれしくないよ」そんなことをれんが言っている気がして今は安定しています。今は猫を一匹飼っています。雑種で色もれんと同じ茶色の捨て猫でした。この子がなんとなくれんの生まれ変わりな気がしていま幸せに暮らしています。今でもこうして過去を振り返ると涙が出そうになりますが泣かずに幸せに過ごすことが、れんも望んでいるのかなと思っています。
年を越せないと言われていた愛犬 ひな祭りを迎えて旅立ち 早く楽にさせてあげたほうがよかったかもと思う
2014年3月3日午前1時頃…ひな祭りを迎えてから、あの子は旅立ってしまいました。あの子の名前は ”モカ” ミニチュアシュナイザーの女の子です。2001年8月9日生まれのモカは、2001年12月19日に我が家の家族になりました。家内と二人でペットショップへ行きモカと出会い、連れて帰って来ました。当時、登校拒否気味だった娘の為に良い刺激になればと思ってのことでした。モカは、小さい頃から子宮関係が弱かったのですが5歳の時に子宮蓄膿という病気になってしまい、子宮摘出の大手術をしました。家内と二人で病院へ連れて行き緊急手術になったのですが既にモカはショック状態になっていて最悪の場合も考えて心の準備をしておいて下さいと獣医さんから言われ涙しました。手術は無事終わりその後、元気を取り戻して走り回れるようになりました。一度は覚悟したモカとのお別れでしたので、これからはいっぱい思い出を作ろうとどこへ行くのも一緒でした。そのせいか、退院してからのモカは少しわがままになってしまいました。^^