犬を亡くしてペットロスになった体験談
連休に心臓の発作を起こした愛犬 それいらいGWがキライになった
去年の春に、愛犬のビーグルを亡くしました。その年の4月には「太っている以外は悪いところもない。長生きしますよ」といわれた16歳、もうとっくに高齢犬でしたがすぐに別れることになるとは思っていませんでした。6歳でやってきた譲渡犬で、名前はアリスとつけました。ビーグル特有のコントラストの強い先の白い尾は、イングランドでウサギ狩りをやっていた先祖からのトレードマークだったので、不思議のアリスを連想し、そんな名前を選びました。一度動物管理センターまで入った経験があるため、本当になつくまでおよそ1年はかかりました。でも仲良しになってからは、一緒に散歩し、よく食べ、キッチンでいたずらし、私のベッドで文字通り大の字になって寝息をたてて寝ました。14歳になった頃、頚椎ヘルニア、関節炎と、シニアらしく衰えはありましたが、耳をパタパタさせてはしゃぐさまは子犬そのもので可愛かったです。最後の年、外耳炎を起こして病院通いをしたら、もう病院は嫌だと車に乗ろうとしなくなりました。それでも何とか治療を終え、ワクチンも済んだゴールデンウィークに、異変が起きました。多少、食べ過ぎて吐くということはたまにあるので、初めはそんなに深刻に思わず、好きな缶詰やチキンを買い与えて、これを喜んで食べるので心配しませんでした。けれども、連休に入るなり食欲がダウンしました。私が仕事から帰り、アリス、ただいまーと声をかけると、いつものように転がってべったりくっついて甘えました。でも散歩に行く元気もなく、水を飲んでは吐いてしまうのです。連休中でかかりつけの病院は休診ですが、明日は月曜だから朝一番に連れて行く、嫌がるだろうけどやむをえない、ということになりました。そうして間に合いませんでした。朝方、けふっと咳き込んだのが最後でした。後日、ドクターに聞いたところでは、これは心臓の弁が急に異常を起こしたのでしょうとのことでした。翌日病院から花が届き、これを見たときにアリスを亡くしたことが急にリアルに迫ってきて、雨が降って濡れてもどうでもいいという感じになり、地下鉄に乗ろうとして吐きそうになりました。アリスにかまう時間が減ったのに部屋も庭も散らかり放題で暗くなりました。その庭に、なぜか見たこともない猫がいれかわり立ちかわり訪れるようになり、アリスが様子を見るようにいいつけたに違いない、とふと考えるようになって、少しずつ気分が落ち着いていきました。アリスは人間で言えば93歳の大往生です。けれどもその悲しみは乗り越えることはできないし、無理に乗り越えなくてよいと思います。ゴールデンウィークは今も大嫌いです。ただ、一緒に過ごした時間を微笑とともに、あるいは涙とともに思い出すとき、硬くなった心がほどけていくのは感じます。
ガンで1年後に亡くなった愛犬の死から命の尊さを知った
私は現在、大学4年生です。小学6年生の冬まで、愛犬と楽しい日々を過ごしておりました。その時点で愛犬は13歳で、犬の年齢からしたら高齢ではありますが、癌が見つかるまでは比較的元気に過ごしておりました。癌が発覚してから約1年、あっという間に時は流れ、愛犬は家族全員に看取られながら天国へ旅立ちました。癌ではあったものの、愛犬はとても強い子でした。苦しむ様子はあまり見せず、最後は眠るように旅立って行ったのを今でも覚えております。その時の愛犬が、私にとっての初めてのペットであり、その愛犬を沢山可愛がっていたこと相まって、命の大切さ、儚さを知りました。これは、自分自身の手でペットを育てていなければ知り得ないことであると私は思っております。やはり、命でありますので、人間のみならず、どの生き物にも必ず死という現実が待ち受けています。しかし、これを乗り越えることで、命の重み、儚さ、悲しみ、全てを体験し、理解することで、新しい自分になれると私は思っております。現在、私は自分でお金を出し、新しいペットのウサギを育てております。朝起きて、頭を撫でて抱っこをし、ご飯をあげて、小屋の掃除をし、一緒に遊び、夜も共に寝るというサイクルが出来上がり、ペットとの生活が私自身の生活の一部となっております。余談ではありますが、私のスマートフォンの写真一覧がペットの写真で埋まるほどです。やはり、自分のペットはとても可愛いものです。愛でることで、その可愛さは増すでしょう。しかし、先程も述べました通り、どの生き物にも必ず死が待ち受けております。これを乗り越えることで、命の儚さ、そして命の重みを知ることが出来るはずです。これは、人生にとって必要不可欠なことであると私は自負しております。
愛犬を失った小学生の私に「あなたと一緒にすごせてしあわせだったよ」といってあげたい
待望の仔犬の誕生でした。真っ黒で太い脚、垂れた耳、フサフサとした尻尾。コロコロと走り転げる仔犬は、小学4年生の私にはまさに宝物でした。真っ黒でがっしりしたこの仔犬に、見た目のままにつけた名前は「くまごろう」でした。思い返してみると、知り合いから譲り受けたこのくまごろう。雑種でしたが、体格がよく足も速く、なかなかお利口で何より私になついてくれました。つやつやした黒くて長い毛並みはとても美しく、何度も何度もかわいい背中やおなかを撫でてやりました。くまごろうがきてからの私は、学校が終わると一直線に帰宅し、くまごろうと散歩へ。散歩というより一番の仲良しと遊びに行くような、ウキウキした気持ちでした。ただ一緒にいて、草をかんだり自分の尻尾を追いかけるくまごろうを見ているだけで幸せでした。そんなある日。学校から帰るとくまごろうがいません。ぶかぶかだった首輪が落ちています。「どこかに行っちゃってるな。でもすぐ帰ってくるよね」そう信じて、家の近所を探し始めましたが見つかりません。不安に思い始めたころ、妹がむこうから駆けてきました。「おねえちゃん、くまごろうが道路でしんどる!」頭が真っ白になりました。そのあと、ひかれたくまごろうを一輪車に乗せて、裏山に葬りました。抱きかかえたときに、くまごろうの血が道路にながれました。ショックでした。こんなひどいことになってしまって。痛かったんだろうなって、ごめんねごめんね、なんで、なんで、と泣きました。首輪が緩いのは、わかっていたのに。まだくまごろうは小さくて、自動車があぶないってよくわかってなかったのに。かわいかったのに、かわいかったのに。私は自分を責めて、父や母にもうまく伝えられませんでした。妹はまだ小さかったのか、わりとあっけらかんとしていたようでした。今もこれを書きながら涙があふれて止まりません。小学生高学年でも、うまく気持ちを表現できなかったのだなと今わかります。この悲しみを誰かにわかってもらっていたら、と思います。小学生の私にやれることはすべてやった。不運ではあるけれど、決して自分を責めつづけることではありません。小学生の私に言ってあげたい。「くまごろうもきっと、あなたと一緒にすごせてしあわせだったよ」って。同じ悲しみを持つあなたのそばに、だれかがいてくれることを願ってやみません。 楽しい時間をくれた、くまごろうへの感謝をこめて。
家の前でうずくまっていた愛犬 ガンの手術に成功したはずが突然の危篤状態で翌日息を引き取る 悲しみが一気に押しよせる
うちの愛犬のミニチュアダックスフンドの「チャコ」が、今年と10月に亡くなりました。出会いは10年ほど前でした。ある日、うちの家の玄関の軒下で、うずくまっていました。そこで、警察に連れて行きましたが、飼い主は見つかりませんでした。半年が過ぎ、うちで引き取ることになりました。野良犬とは思えず、誰かが、捨てて捨て犬となっていたのだと家族、全員が思っていました。年齢もわかりませんでした。もちろん、名前もわかりまえせんでした。そこで、名前をつけることとなり、毛並みが茶色だったため、「チャコ」と名付けました。「チャコ」は、捨て犬とは思えないほど、人懐っこい犬でした。基本的には、祖母以外は、働きに出ているため、祖母といっしょに平日はすごし、家に帰ってくると、「くーん、くーん」ないて、おねだりしてくる犬でした。「チャコ」は、犬用のドッグフードを食べず、人間が食べているのを見て、食事を欲しがりました。しかし、体には悪いようで、アレルギーがでて、とてもかゆがりました。それでも、人間が食べるものを「くーん、くーん」と、ないてほしがりました。しかし、だんだん目が悪くなり、目ではだれか判断できずようになり、匂いで誰かを判断するようになりました。それでも、人懐っこく、来客をもてなし、みんなから、褒められるような犬でした。しかし、今年に入りお腹にしこりができはじめて、一か所のみならず、複数か所できたため、動物病院に連れて行くと、癌だといわれ、手術しないといけないといわれました。しかし、老犬だったため、麻酔ができるかをまず、調べられました。そこで、麻酔に耐えられると、獣医にいわれ、癌の手術をしました。手術は成功して、入院してから、帰れると獣医にいわれ、帰って安堵していたら夕方動物病院から、電話がかかり、「チャコ」が、危篤状態になり、自然呼吸が出来なくなったと言われました。そして翌日、息を引きとりました。火葬して、骨となりました。むなしさや悲しみなど、いっぺんにおそってきました。それでも、受け入れないといけないと、思いました。生あるものは、死も直結するということを身にしみました。
実家を離れて初めて大好きだったとわかった愛犬 弱っていく姿を見るのがつらかった 老衰でなくなり、教訓を得る
去年に愛犬を亡くしました。今の家に引っ越ししたときに飼い始めて、当時私は小学4年生でした。とにかく犬を飼ってみたいという気持ちだけで親にねだり、飼ってもらえて毎日離れたくないくらい可愛くて仕方がありませんでした。ペットショップで初めて見たときに愛犬だけはなんだか気になって仕方が無かったのです。でも小学4年生の私に犬の世話が大変だということは理解できず、飼って1年もすると毎日行っていた散歩も行かなくなり親が主に世話をするようになっていきました。友達が来たときには吠えたりすることが嫌で一時期嫌いになってしまいそうなときもありました。結婚してから実家を出て愛犬とは離れましたが、離れてから初めて愛犬のことは大好きだったんだなということに初めて気がついたのです。愛犬のいない家でいつも側にいつも寄ってくれていた愛犬がいないのが寂しく、自然と癒されていたんだなぁと思いました。子供ができたのを機に実家で親と同居することが決まり、再び実家に住むことになりました。その時には愛犬はすっかり年をとって心臓も弱く、白内障で目があまり見えない状態になっていました。愛犬が弱っていく姿は見ていて悲しく、たまに目が見えないので手を噛んできたり発作を起こしたりするのも悲しかったです。最後は老衰で死んでしまったのですが、眠っているのかなと思ったらもう冷たくなっていて死に際がとても静かで切なくなったのを覚えています。愛犬は大切な家族の一員だったのでとても悲しく、命あるものを飼うということは嬉しいことも悲しいことも全て受け入れなければダメなんだと重大さを感じました。
部活や受験で相手できなかった愛犬 肺に水が溜まり亡くなる 本当に幸せだったのか自問
21歳の大学4年次に小学校1年生の6歳から買っている愛犬のフクがなくなりました。雑種の犬で15年ほど生きた犬になります。犬が飼いたいと親にねだり保健所で親が子犬をもらってきてくれました。確か3か月ぐらいだったと思います。今ではあまり雑種の犬を見なくなりましたが、よくいる茶色くなぜかとても尻尾が短い犬でした。小学生の頃はよく世話をしていたのですが、自分が大きくなるにつれて部活や受験で忙しくなってきたのを言い訳に散歩は時々連れて行くのですが昔ほど世話をする時間は確実に減っていきました。そして大学4年になったときにもともと寿命が近づいてるのは分かったのですが、ある日肺に水が溜まって15歳で亡くなってしまいました。学校にいたのですが親からの連絡ですぐに家に帰りました。帰ったところもう動かなくなっており何年かぶりに親の前で泣きました。もうそれからは後悔ばかりです。自分や姉が望んで飼いだした犬なのに自分の楽しいことを優先してあまり世話をしなかったこと、弱ってきている最後に居れなかったことに対してです。その後も数日間はうちにもらわれてきて幸せだったのかなぁと思うことが続きました。今も二人でとった写真は大切にしているし携帯に写真も残しています。親も落ち込んでいて、もうしばらく犬を飼うのはやめようと思っていたのですが、やはり同じような犬を同じ保健所でもらってきました。新しい犬は大切に育てるぞと思いながら、前のフクに申し訳ない気持ちになります。生き物を飼うというのは責任があることなので大切に育てていきたいと持っている。
いつも一緒
私が結婚を機に、ヨーロッパのとある国に移住したのが15年前。文化や風習言語、考え方や物事に対する捉え方が全く異なる民族と接していくうちに戸惑いから恐怖に変わり、外出するのが億劫になっていました。そんな中、心から分かりあえる女友達が欲しいと思っていた矢先、毎日通っていたペットショップの店頭で、あおむけになりながら柵をガジガジ齧っていたイングリッシュコッカースパニエルの女の子を見て、体に衝撃が走りました。冷静になろうと一度お店の傍を離れるも、どうしても彼女の姿が頭から離れない。そういえば夕方会議があって帰りが少し遅くなると言っていた主人に電話をかけ、会議が始まる少しの間だけワンコを見に来る時間はないか?と尋ねてみたところ、なんと偶然にも会議がキャンセルになったとのこと。夫婦で速攻彼女をお迎えしたのは言うまでもありません。彼女との生活の始まりは、ワンコと初めて暮らす我々には悪戦苦闘したものでした。こちらの国ではドックランのような柵で囲まれたワンコを遊ばせれる場所が街の至る所にあるのですが、6~7カ月になった頃からか、遊んでいたボールをピットブルや、ドーベルマンといった彼女よりも体の大きい子に奪われても、勇敢に取り返しに行くような気の強いところがあり、何度もヒヤヒヤする場面に遭遇しました。もちろん他のワンコとの喧嘩もありました。喧嘩を止めようと、咄嗟に2匹の間に足を突っ込んでしまった私の内ももには、おそらく彼女の牙が当たったのであろう丸い傷がまだ残っています。そんな血の気の多い若いころはあっという間に過ぎ、マイペースな中年時代が過ぎ、昔の彼女はどこへ…と言わんばかりの穏やかなシニアになり。彼女はすっかり3か国語を理解し、私のかけがえのない人生のパートナーになっていました・・・。その時が来たのは去年の秋。春に13歳を迎えてから今まで以上に食事と健康に気を使い、病院を極端に嫌がるので、主治医に定期健診に来てもらっていたのですが、主治医の度重なるミスがあり、慌てて専門医に担ぎ込んだ時にはもう手の施しようのない脳腫瘍でした。無理な治療を続けても、回復は見込めず、心臓も悪かったのでもう病院から出れないとの事。安楽死意外に彼女を苦しみから守ってあげれる選択が無く、夫婦で泣きながらお空に送ってあげました。何処へ行くのも彼女といつも一緒でした。海や山、彼女が大好きな川には、もう行っていないところが無い!っていうくらい色々行きました。思えば朝市へ行くのも、家具を買いに行くのも、日用品を買いに行くのも、洋服を買いにいくのも、いつも一緒。物の一つ一つに彼女と一緒に歩いた思い出があり、彼女が傍に居なくなった今、部屋中に彼女の幻影を見て、まだ涙してしまいます。美しく素晴らしい思い出と、何より真実の愛を教えてくれた彼女に感謝をしていますが、まだ口に出してありがとうとは言えません。口に出してしまうと、彼女が逝ってしまった事を認めてしまうようで心が張り裂けそうになるのです。
愛犬と最期に一緒に居られなかったことを夢に見るほど後悔
5年前に我が家の愛犬が亡くなりました。ハナという名前の女の子で、シーズーの血が入った白くてふわふわして可愛い犬でした。彼女の具合が悪くなったのは丁度わたしが大学に入学したころからでした。彼女はまだ10歳でした。ハナがなんだか食欲がないとは聞いていたのですが、わたしは入学と同時に一人暮らしを始めており毎日が忙しかったのでそれほど心配していませんでした。あまりに調子が悪そうなので病院に連れて行くつもりだと親から聞いた時もわたしは特に心配せず、自分から連絡することはありませんでした。次に母親から電話がかかってきたとき、彼女は泣いていました。ハナは癌にかかっているというのです。詳しく検査をしなければ良性か悪性かは分からないものの、癌という病名はわたしたちに大きなショックを与えました。癌は悪性でした。そこからはハナが死んでしまうまであっという間でした。癌はすぐに彼女を蝕んでいきました。癌が分かってから半年もしないうちに彼女は死んでしまいました。わたしは8月の夏休みに実家に帰り、ハナとたくさん触れ合いました。彼女はとても元気そうで、両親も「あなたが帰ってきたからハナも元気になったみたいだ」と喜びました。わたしもその光景を楽観的に受け入れ、二週間程度で大学に戻りました。ハナが死んだのはわたしが戻った一週間後でした。もうしばらく実家に滞在しておけばよかったと今でも後悔しています。しかもどうしても大学でしなければいけない用事があったため、彼女の葬儀に参加することも出来ませんでした。今でも夢に見るほど後悔しています。大事な家族の最期の瞬間に立ち会えなかったというこの記憶はわたしの中から一生消えることが無いのだと思います。
愛犬から死とはどんなことか学びました
高校2年生の時、私が生まれてからずっと一緒にいた家族同様に思っていた愛犬が亡くなりました。その愛犬の名前は「アブー」と言います。私の母が父と出会って間もないころ、大きな台風が来る前日に、たまたま通りかかった川の近くでしわくちゃな子犬を見つけたのです。そして彼(父)の家へ持って帰った事がアブーとの出会いになりました。それから間もなく、母と父は結婚し私が生まれました。なので、アブーは私より年上で家族のことをよく知っている一匹です。生まれたときから、ずっと一緒にいるのが当たり前で毎日顔をみて「アブー行ってきます。ただいま」を言っていました。一緒に散歩にも出かけたし雷が怖いときにはそばにいたし、大切な存在でした。それから時が過ぎ、家の建て替えをしたのです。もう砂壁でかなり古かったのでしょうがないことですが、その間近くのアパートに住みました。そこには犬を連れて行ってはダメだったので、一年ほどアブーと離れて暮らしました。それから、新築に戻りアブーと一緒にまた暮らしましたが、前よりリードが短くなっており、なんだか慣れない様子でした。今覚えばその時あたりからアブーに異変がおこりました。離れ離れだった悲しいというストレスとなれない場所での住むことから、アブーが自分の家を噛んでいました。そしてその危ない状態の場所に体を擦り付けて血が出ていたのです。びっくりして病院へ連れて行きましたが、だんだん弱ってきて最後は玄関で眠るように息を取りました。涙を流していました。すごくショックで、でも痛そうだったのでやっと楽になったねと思いました。最後は固い見たいを撫ででお墓に埋葬しています。亡くなるという意味を初めて知った瞬間になりました。
愛犬が亡くなったことの悲しみ 犬を飼っている友人に話を聞いてもらって少し楽になった 供養することで自分の気持ちに整理をつけることができた
私が、五歳くらいのときに姉が黒い犬を一匹拾ってきて、買うことになりました。もう一匹は、家族でペットショップに行って、柴犬とマルチーズの子供を買うことになりました。黒い方をカリー、もう一匹をポピーと名付けました。私は二人兄弟でしたが、この二匹も一緒に、二匹と二人で育ったようなものでした。ポピーは雨や雷が苦手でとても弱虫なオスの犬でした。雷がなると、小屋に戻り、でもご飯が食べたいから出てきて、その繰り返しをしたり、小屋が濡れると嫌がって中に入らず遠吠えをする。そんな、人間のような可愛らしい犬でした。カリーはすらっとしていて、賢そうな犬でした。幼い頃、よく姉と一緒にカリーとポピーの散歩に行くと、私一人の力ではとても散歩させる事ができずに、よくポピーやカリーに引っ張られていたのをよく覚えています。子犬を産まないように手術をしていたので、子犬は産まれませんでしたが、それでも、あの二匹と過ごした時間はかけがえのないものでした。私が高校3年のとき、カリーがなくなり、大学進学で県外にいってるとき、ポピーがなくなりました。カリーは朝起きると冷たくなっていて、ポピーの最後の時間にはほぼ一緒に過ごす事はできませんでした。カリーは最後まで比較的元気でしたが、ポピーは、少しボケのようなものが入っており、私が最後に見たときには、あまり歩けなくなっていました。私は、カリーがなくなったときは、高校生で、なくなった日にその姿を目にしました。その日は苦しく、学校に行くのが辛く涙が零れ落ちそうなのを必死に我慢していたのを覚えています。その日は授業もあまり頭に入ってこず、かなり落ち込みました。しかし、犬をかっている友人にその話をしたことで、心が楽になったのを覚えています。しばらくはかなり落ち込みましたが供養し、手を合わせることで自分の気持ちに整理をつけることができました。私はポピーとカリーに出会えて幸せでした。二匹にたくさんの思い出を作らせてもらいました。