ペットロスを克服した体験談
40代女性、親友だったあの子と、お別れの儀式
現在、40代後半の女性です。私が昔、飼っていた猫のお話をします。子供の頃から、猫が飼いたくて飼いたくて。「中学生になったらね」と親から言われてきました。約束の中学生になり、さあ、猫を飼おう!となりました。田舎だったので、野良猫も多いし、猫を飼っているお宅も多く、ペットショップと言う選択肢はありません。タイミングよく、お友達の飼い猫が子供を産んで、貰い手を探しているということで、さっそく、会いに出かけました。雑種ではありましたが、長毛で丸顔の2匹の子猫、一匹は黒、一匹は、薄茶色の可愛い子猫たちでした。私は、黒猫の虜になりましたが、他の家族は、皆一致して薄茶色の子を気に入りました。私の約束の猫なのだから、私の気に入った子を!と主張しましたが、これから家族になるんだから、みんなに可愛がられる子の方がいいだろうと、多数決で薄茶色の子猫を貰うことが決まりました。当初は、それが不満で仕方なく、人懐っこいその子に、ちょっと冷たくしてみたり、子供じみたいじわるをしました。でも、やっぱり憧れた猫との生活。気がつけば、べったり。部活の時間が終わるのも待ちきれず、ダッシュで帰宅。内向的な私には、人間の友達より、大切な存在。それからは、ずっと一緒。その子は、私の最高の友達であり家族になったのです。中学3年生になったとき、私は、将来就きたい職業のことを考えて、少し遠い高校に進路を決め、寮に入ることになりました。自分の将来の夢の為とはいえ、家族から離れる…両親と離れる事より、その子と離れることが、一番の心残り。勉強を終えたら、また一緒に暮らそうね、と約束して、高校生活を始めました。1年経った頃、寮に住む私に、手紙が届きます。あの子が亡くなったと。携帯電話もまだまだ普及していない時代。人間の家族の危篤なら、学校に電話連絡も出来たでしょうが、私が看取ることなく最後の亡骸を見ることもなく、サヨナラすることになりました。目の前で、その死を受け止めることが出来たら、もう少し、実感もあったかもしれませんが、私には、それがありません。最期の様子を家族から聞き、ただ、想像するだけ。しっかりお別れできていないことが、私を苛みました。家族は、いつも餌を与えていたという野良猫が、車庫に子猫を産んだので、その子猫たちを、うちの子として飼い始めたと聞きました。私は腹立たしく思いながら、寮生活を悶々と、逝ってしまった子のことを思いながら暮らしました。私には、あの子だけ。高校を卒業し、実家へ戻っての暮らしが始まりました。新しい猫たちとは距離をとり、あの子のことばかりを思っていました。すると、母が、「あの子のお墓を作ろうか」「庭木の植え替えをしなければいけないし、庭の片隅に埋めたあの子の亡骸を掘り起こして、あなたの手でちゃんと、お墓を作ってあげよう」と言いました。私には、あの子の死が、非現実のものだったのです。庭を掘り起すと、あの子の亡骸の入った箱が出てきました。箱には名前が書かれており、大切に大切に何重にも布にくるまれたあの子の亡骸。その時、私だけでなく、家族にとっても、大きな悲しみだったのだと気付き、また、本当に、あの子は逝ってしまったんだと、実感をしました。お墓を作ると言っても、庭の片隅から、片隅に、庭木の植え替えの邪魔にならない場所に移すだけの作業。それでも、自分の手で、その作業が出来たことが、私の中で、何かを大きく変えました。これが、一つの、重要な儀式だったのだと思います。それからは、新しい猫たちとも、わだかまりなく家族になれた気がします。今は、親友だったあの子の可愛い姿を、笑顔で思い出すことが出来ます。
22歳 女 時間の経過に身を任せました
私が愛犬に出会ったのは、近所の方が飼っている犬が子供を産んだが、数が多く全ての犬の面倒を見ることが出来ないので一匹引き取ってほしいと頼まれたからでした。親に頼み込んでやっと飼うことを許可してもらった時はすごく嬉しかったです。私は当時まだ小学生でしたので、オスだと成長したら散歩の時に引っ張る力が強くなること等を懸念し、一番大人しそうなメスを選びました。雑種でしたが、見た目的には柴犬に近かったです。引き取った時はまだ生後あまり経っておらず、小さな体で一生懸命歩く姿がとても愛おしかったです。特に大きな病気もせず元気だったのですが、ある日学校から帰ると親から愛犬が死んだとのことを告げられました。その時は愛犬はまだ6歳で、犬だからもう少し生きるだろうと思っていたのであまりにも突然のことでとてもショックを受けたのを覚えています。朝は元気に見送ってくれた愛犬が今は冷たくなっている、息をしていないという事実が信じられなかったです。生き物の死を実際に目にしたのはその時が初めてであり、忘れる事はできません。1日1日を最後だと思って接しなかったことをとても後悔しています。いるのが当たり前になってしまっていて、十分に愛情を注げていたのだろうかと今でも時々考えることがあります。今までいた場所に愛犬がもういない、犬小屋だけが残っている、という状況は辛かったです。私も大学進学で実家を出て一人暮らしを始める予定でしたので、新しい犬を飼う事は話題には登りませんでしたが、犬小屋はそのままでした。家族も辛かったのだと思います。正直、時間以外に解決してくれるものはないと思います。無理に忘れようとしても辛さが増すだけでしょうし、忘れ去られて愛犬が嬉しいはずはありません。先日実家のパソコンの長らく使っていなかった私のアカウントを開きました。フォルダの中に愛犬の動画や写真が入っておりましたが、何年も経った今では落ち着いて見ることが出来ます。
居候猫から飼い猫へ、楽しかった日々と別れ
初めまして。ずっと猫嫌いでしたが、仕事で実家を離れている間に両親が野良猫を拾い、買い始めたのがきっかけで猫好きになりました。実家は田舎で庭付きの家が多く、猫は外へ自由に出入可能な状態で飼っているうちも結構あります。実家にいる間は犬を飼っていたこともあり、よく猫に向かって吠えていたので、自分自身も庭に不法侵入してくる動物といった感じで好きになれませんでした。10年ほど前、帰省すると家の裏口に猫が待っていることがあり、母がこっそりご飯をあげているということでした。野良猫なのでのみとかいるかもしれませんし、私はあまり触りませんでしたが、人見知りしない猫のようで両親によく懐いていました。その猫が身ごもり、家の裏で子猫を育て始めたのがきっかけで、ただご飯をあげるだけでなく飼おうということになって病院で予防接種したり、去勢や避妊手術などをしてその後長らく両親に愛されて暮らしています。いざ買い始めてみると、やはり可愛いもので、特に子猫の可愛さは魔力でもあるかのようでした。家族はすっかり猫にとりつかれてしまって(良い意味で)、私は変えるたびに猫と遊ぶことを楽しみにするようになりました。両親にとっても猫のいる生活はいろいろな世話の手間が増えるものの、日常を楽しくしてくれるかけがえのない存在だったようです。生まれた子猫のうち、子供の頃大怪我したことで一度家の中で飼っていた猫は特にお気に入りのようでした。運動神経がよかったのか、その猫だけが裏口の網戸をうまくよじ登って家の中へ出入できます。また、警戒心が強く怖がりなため、両親にしか懐かないということも両親の心をとらえたのでしょう。正直猫のいる生活がここまで二人の生活を明るく変えてしまうとは思いませんでした。父はDIYで猫用のタワーを作って見たり、趣味を広げることにもなったようです。そんな幸せな時間が10年ほど続きましたが、散歩に出かけたお気に入りの猫が帰ってこない日がありました。毎日出かけて必ずご飯を食べに帰ってきて、母に毛づくろいのブラシ掛けをしてもらって寝るのが日課になっていたので、不安に思った両親が探したところ、近所の人の情報で近くの道路で車に跳ねられて死んでいたのを見つけたそうです。両親のショックは大きくしばらく眠ることもできなかったとか。私自身も非常に落ち込みました。そんな落ち込みの状況を救ってくれたのはやはり猫でした。死んだ猫の兄弟の接し方が変わり、より人に懐くようになりました。猫的には一番優遇されていた猫のポストが空いたのでそこに入ってきただけなのかもしれませんが、そうした変化が人を癒します。死んでしまった猫は帰りませんが、また新しい猫との思い出とともに立ち直ることができたと思います。猫の寿命を考えれば、いつかは人間より先に死んでしまうのは避けられないので、生きている間に精一杯可愛がってあげたいと思いました。
35歳女 仕事に没頭することで気を紛らわしてペットロスを解消
現在1歳児育児中のアラサー主婦です。実家からは遠く離れた場所で生活しています。実家で飼っていた犬が亡くなった時の話を書きたいと思います。私が中学2年生の時、妹が近くのスーパーマーケットに里親募集の張り紙がされているのを見て親を説得し、生後半年の犬を貰ってきました。私は動物は好きでも嫌いでもなく、実家で世話をしたことがある生き物は学校で渡された蝶々のサナギとオタマジャクシくらい。犬なんて飼えるのか、私は世話に関与しないぞ、とどちらかというと否定的でした。ですが、妹が嬉しそうに抱えた段ボールからひょこっと顔を出した仔犬と目が合った瞬間、メロメロに。私だけじゃなく家族全員が仔犬と戯れたくてライバルになるくらいにメロメロになりました。新しい家族と一緒に、私は高校受験、進学で他県で一人暮らし、とどんどん時が過ぎていきました。一人暮らしのときも長期休みには必ず実家に帰り、犬と遊びまわりました。私がいない間にあった面白い話など聞かせてもらったり、当時あまりそりが合わず会話も少なくなっていた父と一緒に散歩に連れて行ってみたり…犬は家族を繋ぐかけがえのない存在になっていました。しかし、私が就職して仕事が忙しくなると帰省する回数も減り、結婚してますます帰らなくなり、家族とも犬とも疎遠になっていました。妹とはメールやSNSでやりとりしていたので、まぁうまくやってるだろうと実家周りのことには無関心になっていました。そんなある日。職場でお茶を飲んでいる時に妹からメールが届きました。犬が、亡くなったとのことでした。しかも火葬が終わり、ペット霊園に納骨してきたとのこと。しばらく意味が分かりませんでした。詳しく聞いてみると、しばらく前から調子が悪く、病院に連れて行ったら病気が見つかって、投薬や手術もしたけど快方に向かわず、病院で息を引き取った、というのです。そんなこと、何も聞かされていませんでした。私が実家に無関心になっていたので、おそらく母や妹が変に気を使ったのだと思われます。でも、そんな状況なら、知らせてくれたら、すぐに戻って一目でいいから犬に会いたかったです。私がいなくても他の家族に沢山可愛がってもらってたので、犬自身が寂しいとか私に会いたかったとかはなかったでしょうが……私だって可愛がっていたことは知っているはずです。初めて段ボール箱から顔を出した日、一緒に眠った夜、ふわふわした毛並み、まあるいお目目、ピンと立った耳、ブンブン振り回される尻尾、散歩道での嬉しそうな顔……最後に会ったのは4年前くらいなのに、思い起こされる犬の姿は私が高校生くらいの頃のものでした。初めてのアルバイト代でおやつを買って与えたなあ…嬉しそうだったなあ。学校で友達と喧嘩して帰ってきたときずっと側にいてくれたっけ……。それなのに、私は犬が病気で苦しんでいることすら知らなくて、火葬されて骨になったあとに泣いてるなんて。私が悪いのはわかるんですが、情けなくて、一気には受け止めきれなくて、会社だというのに長いこと泣いていました。帰宅してからも、次の朝起きてからもずっと泣いて何も喉を通りませんでした。昔の写真を見返したり、夫に心情を聞いてもらったり、仕事に没頭することで気を紛らわしながら、一ヶ月かけてなんとか回復した感じです。ペットを亡くしたことも辛いですが、死に目に会えなかったという後悔は未だに残っていて思い出すたびにつらいです。実家に可愛がっていたペットがいる方は、年に1度だけでもいいので帰省して顔を見ておくことをおすすめします。
23歳女 お線香をあげるたびに心が凪いでいった
20代の女性です。その子に出会ったのは1年半ほど前のことでした。ペットショップで一目ぼれしたジャンガリアンハムスターをとてもうれしい気持ちでお迎えしました。今でもあの日のことは鮮明に覚えています。小さな体と活発な動き、その子と過ごす毎日はとても楽しかったです。しかし、私のその子に対する食事コントロールが上手くなかったようで、1歳を過ぎたころに眼のふちにできものができてしまいました。そのあとはお薬を飲んでもらうことで症状自体は落ち着いていきました。その子は、私が仕事から帰ると「お外に出して!」と必死に抗議してきて、かわいかったです。ある日、部屋でおさんぽをさせている最中にうとうとしていしまい、目が覚めると部屋の中でその子は冷たくなっていました。布団の下に潜り込んでいたようで、体が平らにつぶれていました。私はしばらくの間、とても正気ではいられず毎晩のように泣き続けました。自分が殺してしまったんだと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいでした。そのあと死んでしまったその子を火葬までの間、部屋で見つめていました。やわらかいタオルを敷いて、その上に寝かせました。ろうそくとお花を添えて、やさしい音楽を流しました。火葬が終わった後は骨壺が帰ってきて、それでもまだ現実味が私の中にありませんでした。なんとか気持ちを落ち着けようとお線香とお花を買ってきて、苦しいたびにお線香をつけました。お線香は落ち着く香りでした。そのあとお盆がやってきたので、精霊馬を手彫りして大好きだった食べ物をたくさん用意しました。住んでいるアパートの都合上、迎え火と送り火はできませんでしたが目印として家のドアノブに、その子の名前とひまわりの絵を描いたシールを貼りました。来てくれるかな、と少し不安に思っていました。ですがお盆の最初の日、本当にその子は来てくれました。私がまどろんでいると一瞬ですがその子の甘い香りがしたんです。どんなに求めてももう嗅げない香りがその時だけ嗅げたんです。あぁ、会いに来てくれたんだと涙がこぼれました。それから少しずつ気力を取り戻して、次にハムスターを飼うことがあれば部屋散歩の時間は決めようと心に誓いました。そして決して目を離さないこともです。もし自分の過失で愛するペットを亡くしてしまったとしても、愛情深く毎日お世話をしてくれたあなたのことをその子は恨んだりしないと思います。今は私もそう思えます。きっと天国であなたが幸せに暮らしてることを願いながら楽しく走り回って美味しいものを好きなだけ食べていますよ。だから大丈夫です。前を向いてその子に胸を張れる生き方をしていきましょう。
27歳女性ハム太の死によって飼い主の責任に気づかされた時
私は小さいころから身近なところに動物がいました。家では犬を飼っていて、とてもなついてくれて楽しく暮らしていました。なので、動物がいることが当たり前だと思って今まで生活してきました。小学生の時にアニメの「とっとこハム太郎」を観てハムスターを飼いたくなって、ゴールデンハムスターを1匹飼いました。名前を「ハム太」といって雄のゴールデンハムスターでした。ネズミは人になつかないと思っていましたが、ハム太はすごく人になつきました。とても愛嬌があり、かわいかったです。1度も噛まれたことはなく、悪いことは特にしませんでした。半年くらいしたころからハム太に異変が起きました。ハムスターの寿命は2年くらいだと思っていた私はすぐに良くなるだろうと思っていましたが、体中の毛がどんどん抜けていきました。ほとんど、毛がなくなってしまい、元気に動けなくなり息も絶え絶えになってしまい、病気の原因は分かりませんでしたが精一杯助けたつもりでした。これ以上苦しんでいるハム太を観るのがつらくなりこのままゲージの中で一生を終えさせるのはかわいそうだと思い親と相談して、野へ返してあげることにしました。ゲージから出してあげるとハム太はすぐに見えなくなってしまいました。その時は1週間くらい悲しい思いをしたのを覚えています。しかし、今からして思えば自分は飼い主として失格だったなと思います。どんなに弱っていても息を引き取る最後の瞬間までハム太の面倒を見てあげるべきだったと思います。小学生の私は動物の死に対して抵抗があり、ハム太の死体を見るのが嫌だったのだと思います。しかし、命あるものには必ず死があり、ましてハムスターなどの小動物の寿命は短いので必ず死を経験することになります。そういうこともすべて理解したうえで生き物を飼わないといけないんだということを、後になって気が付きました。そのことに気が付いたときにこれから生き物を飼うときは絶対に最後まで見届けてあげようと心に誓いました。
35 男 新しい猫を拾ってペットロスを解消した
私は田舎の地方都市住まいです。家の周りはまだ畑や田んぼが残っていて、野良猫なんかも少なくありません。もう20数年前になりますが、私が小学校低学年の時に野良猫がうちの庭に迷い込んでおりました。生後8か月くらいでしょうか、凛々しいけどまだあどけなさの残る白黒茶色が混ざった雄猫でした。仕方なくご飯に味噌汁をぶっかけただけのねこまんまを食べさせてあげたのですが、いずれでていくだろうと特に家に入れる事もなく放っておいていました。そのうち、ねこまんまに鰹節が混ざったり、こっそりお小遣いでかった猫缶をあげたりうちとの距離は縮まっていたものの、まだ飼うとはなっていなかった頃。うちの近くで全く関係のない猫が死んでいたのです。その猫を偲ぶように寄り添って離れない雄猫がいました。カラスなんかも近寄ってくるのですが、追っかけまして追い払ってはその死んだ猫の元に戻ってくるのです。それをみたうちの母が「あんなに情に厚い猫は飼わんといかん」と言い出し、死んだ猫を埋葬し、雄猫を飼う事に決めました。その時驚いたのは、私たちが死んだ猫に近づいても特に威嚇せず、付いてきたのです。母だけでなく私も何か運命的なものを感じ、飼う事にしました。にゃん太朗と名付け、それからは私はにゃん太朗を兄のように感じ、何をするにも一緒で10数年過ごしました。家族です。そして最後は病気を患ったものの、苦しむことなく亡くなりました。にゃん太朗が死んだことを認めたくなかった私はペット葬式や弔いをすべて母に任せてしまいキチンとお別れ出来ず、それもまた心残りとなってしまいました。実家の近くの原っぱに行くと、一緒に鬼ごっこをしたな。裏の線路を見ると、3日ほど行方不明になったとき夜な夜な轢かれてないか確認しに行ったな。実家のソファをみると、父が邪魔にしつつ父と寝ていたな。出かけようとすると、最後フラフラになりながらも見送りに玄関まで来てくれたな。などなど、何を見ても思い出してしまって辛かったことを覚えています。今まで可愛がっていた彼がいなくなって、ぽっかりと穴が開いてしまったのがわかりました。見かねた母が、新しく猫を飼おうかと言いましたが、私は代わりを求めていたわけではないので断りました。そんなある日、またも野良猫が、似ても似つかないくらい愛らしい子猫がまた庭にいたのです。私は、また辛い思いをするのは嫌だったので里親でも探そうと提案しましたが母は「にゃん太朗があの世で心配してるんじゃないの。だからわざわざ子猫をうちに送ってくれたんじゃない?にゃん太朗も幸せだったからウチにこの子を送ったんじゃない?」と言いました。続けて「悲しんでてもにゃん太朗だって喜ばないでしょ。にゃん太朗に向けてた愛情をこの子にも分けてあげなさいよ」と言われハッとしました。悲劇のヒロイン気取っててもにゃん太朗は戻らない。だったら今困っているこの子を助けてあげようと思ったのです。その子猫を飼う事にしたはいいものの、ほんとに子猫過ぎて、餌からトイレから苦労しました。おかげでにゃん太朗の悲しみを忘れられたのも事実です。その後他に家を建てても何故か猫が寄ってきて、また違う猫も飼っています。縁があればまた違う猫を飼う事もあると思います。ペットを亡くした気持ちは痛いほどわかりますが、逆に、亡くなった猫ちゃんが「幸せだったよ、だから今困ってる猫を代わりに幸せにしてあげて」と新しい猫を送り付けてきてると考えると逆に笑えてくるのです。なので、ロスで悲しんでる方がもしいらっしゃったら、ペットショップで新しいペットを飼っても良い。以前のペットとの時間があったから新しいペットを飼えると気持ちを切り替えて欲しいと思うのです。乱雑な文章で失礼しました。
22才女 趣味や仕事に打ち込むことでペットロス解消
群馬県桐生市22歳学生です。2年前1月6日に愛犬のゴールデンレトリバーのアレックスが突然死にました。ゴールデンレトリバーは比較的寿命が長いと言われていますがわずか5歳でした。家に帰るとちゃんと玄関まで迎えにきてくれる優しい子でした。家族みんなで可愛がり大切な存在でした。アレックスはもともと皮膚が弱く、亡くなる1ヶ月ほど前から耳のあたりをよく引っ掻いていたため塗り薬で治療をしていたのですが、なかなか良くならなかったため再度獣医にかかると手術が必要だと言われました。そこまで悪いのかな?と思いましたが、悪化したら怖いなと思い承諾しました。手術当日も「今から病院に行くからね」と言うと、少し嫌そうな顔をして私も心苦しかったですが、これで治るならと自分に言い聞かせて病院に向かいました。全身麻酔をしてゆっくりと目を閉じていくアレックスをみて、なんだか悲しくなりましたし、まさかこれで最後だなんて夢にも思いませんでした。手術は朝からでしたが夕方ころ獣医から連絡があり、アレックスの容体が急変したからすぐに病院にきて欲しいを連絡があり、私はすぐに向かいましたが、すでに心臓が止まり亡くなっていました。今でアレックスとの思い出がよみがえり、ふと泣いてしまうときがあります。もちろんお葬式もあげて区切りをつけて前に進まないといけないことはわかっています。けれど無理なんです、どうしても無理なんです。こんなに私の中で大きな大切な存在になっていたことに、アレックスが亡くなって初めて気付いたんです。私が元気ないときは黙って足元にいてくれました。寒くて眠れないときは一緒にベッドのなかにいてくれました。誰にでも優しく決して吠えることのなかったアレックス。こんなに優しい子がどうして、、もっと冷静になって手術なんて簡単に承諾しないほうが良かったんじゃないかと自分を責めてしまいます。いま大切なペットがいる方、自分の大切な家族に何かあったらすぐに病院に行くと思いますが、ひとまず冷静になって自分で日頃からペットの病気についてしっかりと調べておいた方が良いです。一緒に過ごす時間が長いのは他でもない自分自身です。今もアレックスのことは思い出しますが、自分で趣味をもったり友人と一緒に旅行に行ったり、仕事に打ち込んだりと徐々にペットロスは解消されつつあります。同じペットを亡くした方の参考になればと思います。
32歳女 闘病生活の果てとお葬式にて
フェレットを亡くして3年経ちますが一緒にいた日々は今も忘れる事なく覚えています。出会いは主人がペットを飼いたいと言ったのがきっかけでした。その時住んでいたアパートがペット飼育不可でしたが小動物は許可されていましたので犬や猫ではなく小動物を飼う選択しかありませんでした。フェレットにした理由は私が子供の時に飼いたかったからです。お互いフェレットを飼うのは初めてだったので飼育本やネットで調べながら一緒の生活をスタートしました。犬や猫と違って芸を覚えたり甘えてきたりはしませんが寝てる姿や、ゲージから部屋に出した時に嬉しそうにクックックッと言いながら散歩したり近くに寄ってくる姿は可愛いかったです。フェレットの寿命が6~8年と言われていますが6歳になった時です。おじいちゃんとなって前ほど活発には動かなくなり寝ている時間の方が増えましたが、ある日ぐったりとしていて耳や鼻先が白く血色も悪かったので病院に連れて行きました。病院に行って診断されたのは癌でした。お腹に3個ほど影があり治る可能性は無いと言われました。手術する事はできても治療の為の手術ではなく本当に癌なのか解明するだけの手術なので高齢であり小さな身体に負担を大きすぎるので手術はせず薬を飲んで癌の進行を遅らせる事を勧められました。病院や帰りの電車の中では涙を堪えていましたが、家についた瞬間から翌朝まで泣き続けました。主人にはまだ亡くなった訳じゃないんだからと言われましたが、いつか来る別れを突き付けられた事がショックで涙が止まりませんでした。その日から闘病生活が始まりました。朝晩に薬をあげるんですがペースト状のおやつに練りこんだり、練りこんだおやつを食べない場合はスポイトで溶かした薬を飲ませていました。隔週で病院にも通院しました。癌を宣告されてから2ヶ月後は少し元気になり歩き回る事も出来ましたが3ヶ月後には悪化し歩こうとしてもつまづいて身体を引きずるように歩く事しか出来なくなり隔週の病院が毎週になりました。そして半年後に亡くなりました。たまたま仕事が休みで家にいた時です。部屋の中に出しても歩けないので日の当たる場所で膝に乗せて日向ぼっこをさせていました。気持ち良さそうにしていました。ゲージに戻し離れた後に物音がしたのでゲージに行くと中でひっくり返っていました。手で触った瞬間身体に力が入っていない事が分かり名前を呼びましたが反応ありませんでした。目をつぶっていて寝てるようでしたが力が入っていない身体は死んでいる事を実感させました。自然と「辛かったね、頑張ったね、ありがとう」と言葉が出てしばらく日向ぼっこさせていた時と同じように膝に乗せて泣きました。癌宣告された時、闘病中の間に別れを受け入れられていたのかひどく泣く事はありませんでした。はっきりと心の整理がついたのは亡くなって3日後のお葬式の時です。もうこの世にはいないんだ、とすんなりと受け入れられ悲しい気持ちから離れられました。後から病院の先生に一度元気になった事、半年ともった事に驚いたと聞いてあの子の頑張りを嬉しく思いました。後悔する事も沢山ありました。もっと早めに病院に連れていったなら、もっと遊んであげれたなら…とキリがありません。しかしペットを亡くして後悔がない人などいないと思います。悲しみを受け入れられるのは時間がかかりますしいつまでも思い出して泣いてしまうと思います。私もこれを書きながら涙がポロポロと出てきました。でもそれで良いと思います。悲しい別れを忘れる事がないように一緒に過ごした大切な日々も忘れる事はありません。無理に忘れる事や泣くのを我慢する事はありません。今は亡くした事が受け入れなく辛いかもしれませんがいつかは受け入れられる時がきます。受け入れられた後は楽しかった日々や写真を見てほんわかしたり少し泣いたりしてあげてください。その思い出はこれからのあなたを支えてくれます。
44歳女性「ごめんね」じゃなく、「ありがとう」
その子との出会いは、私がワンコとニャンコの保護活動をしていた時期です。迷子で保護され、我が家で初めて預かるワンコでした。ワンコを飼っていたのは、私が子供の頃から大人になるまでいた1匹だけで、その子が亡くなってから10年以上ぶりに接するワンコです。つらい過去を忘れ、まっさらな気持ちで新しい第二の犬生を送ってほしいと思い、「サラ」という名前を付けました。もちろん、当時は保護活動をしておりましたので、新しい飼い主さんを見つけるために預かりました。皮膚病がひどく、いい方との出会いもなく、我が家に来てから、1年ほどで、うちの子にすることに決めました。サラが来てから、色んなワンコを預かり、新しい家族の元へ送り出す中、来る子来る子にフレンドリーに接するサラ。怖がりな子には、大丈夫だよ~と言わんばかりに、優しく頼もしく接するサラ。色んな出来事がある中、私も新しい家族を作ることになり、サラと一緒にお引越し。子供も生まれ、私の人生の転機をいくつも見てきた子です。そんな中、時折、何かの強い痛みで鳴くようになりました。我慢強いサラが、痛みを紛らわすため、小屋の周りの木をかじったりするようになりました。動物病院に連れていくと、ヘルニアとの診断で、薬をもらい、それで痛みはおさまっているようでしたので、さほど心配はしていませんでした。それから、また引っ越しをすることになり、一緒に新居へ移るとともに、動物病院も変えました。新しい動物病院で、前の病院で出してもらっていたヘルニアの薬を見せ、引き続き、薬を出してもらっていました。でも、ある時、すごく強い痛みで、必死に耐えるサラを観ました。そんなサラは今まで見たことがなく、しばらくすると、おしっこを何回もするためにしゃがむけど、出ないという状態になり、病院に連れて行くと、膀胱が固く、もしかしたら腫瘍があるのかもしれないとのことでした。推定14歳のサラ、手術しようという話にはなりませんでした。それから、しばらく膀胱の薬を出してもらっていましたが、最期の日、痛みにもがき苦しみ、痛み止めの注射も打ってもらいましたが、それも効かないようでした。夕方、家族に看取られ、私の腕の仲で静かに息を引き取りました。あれから、3年になりますが、まだあの最期の痛みに耐えている姿が忘れられません。もっと早く本当の病気が分かっていれば、と思うこともありますが、最後まで自分の足で立とうとしていた強いサラの姿を思い出し、前を向かねばと思いました。亡くなってから数日後、気持ちを落ち着かせるために、サラへの手紙を書きました。「ごめんね」の手紙ではありません。サラとの思い出や、サラに教えてもらった全てのこと、「ありがとう」の気持ちでいっぱいの手紙です。その手紙を書くことで、気持ちの整理が少しできました。いつも一緒にいてくれた大切な家族がいなくなるのは、本当に寂しく、どうしたらいいか分からなくなりますが、自分がこの世を去ったあとに、サラに再会するとき、サラを見習って、精いっぱい最後まで頑張って生きたよ!といえる人生を送りたいと思います。私には、他にもワンコとにゃんこたちがいます。色々先を考えると不安になりますが、きっと大丈夫、時間がかかるけど、いつか大丈夫になる。あなたもきっと。