犬を亡くしてペットロスになった体験談
散歩が大好きなペットの犬が、散歩途中で倒れて手術中に息絶えた
数年前、ペットの犬が死んでしましました。父が車を運転中、道に飛び出してきた子犬を持ち帰って、飼うことになった犬です。ビーグル犬が少し混ざった感じの雑種で、耳が垂れていてとてもかわいい犬でした。好きなアニメに出てきた犬の名前を付けて可愛がっていました。すでに飼っていた雄の柴犬との間に子供を3匹もうけてくれました。その3匹もすべて飼うことになったので合計5匹でした。毎日、朝と夕方に家族5人で1匹ずつすべての犬を散歩させるのが日課でした。その子を飼い始めて6年がたったころ、朝散歩させようとすると、少し元気がない様子でした。でもすぐに普通に散歩を楽しみました。その日、私は仕事で夕方の散歩には参加できずに、夜の10頃に帰宅しました。するとなんとリビングにすでに冷たく硬くなったその子の姿があったのです。あまりにも突然のことですぐに状況を把握することができませんでした。家族に事情を聴くと、その日の夕方散歩中に動けなくなったということでした。すぐに近所の動物病院に連れていって見てもらうと、末期のフィラリアということでした。すぐにその場で手術に踏み切ったのですが、その途中で息絶えたとのことでした。朝、少し元気がなかったのもその病気のためだったのかと思うと、それでも頑張ってつらいのに家族一緒に散歩に出かけてくれたその子のことを思うと、すごくいたたまれない気持ちになりました。夕方の散歩のときは朝以上に辛そうだったようですが、それでも散歩に参加したそうです。私は散歩の途中で苦しそうに動けなくなるその子を見ていないですが、実際にそれを目撃していた家族の悲しみはもっと大きいはずです。その日は家族で思いっきり泣いたり、その子との思いでを語り合ったりして過ごしました。
亡くなってから15年経つのに新しい仔は迎えれない 19年生きてくれた愛犬に今も感謝し続けている
もう15年近く前のことになりますが、実家にいた愛犬ロッキーが亡くなりました。白内障と心臓病を患って、晩年はいろいろと不自由な生活を送っていましたが、19年という長い間、私たちと共に過ごしてくれました。ロッキーは、父の知人から譲り受けた犬です。その年祖父が亡くなり、みんなが寂しい思いをしている中、ロッキーはうちに来てくれました。目をクリクリ動かしながら、黒い体で弾丸のように家中を走り回り、誰も追いつけませんでした。家族に愛嬌を振りまき、すり寄ってきては、よく膝の上に顎を乗せて昼寝していました。散歩に連れて行くと、最初は張り切ってズンズン進んで行くのに、途中で疲れたとでも言うように、コロンとひっくり返って抱っこをせがみました。こんな、家族にとってはかわいくて仕方ない、アイドル的な存在のロッキーでしたが、15歳を越えたあたりから、急に具合が悪くなり始めました。最後の1~2年は、ベッド代わりのバスケットの中で、一日のほとんどを過ごすようになりました。亡くなる前日、獣医さんから「もう、いつ逝ってもおかしくない状態だから」と言われたそうです。母は、枕元にロッキーのバスケットを運んできて、一緒に寝ました。明け方にロッキーは、ひどく辛そうに鳴いて、そのあとすぐに亡くなったということです。その時私は、社会人になり実家を出ていました。実家にはたまに帰っていましたが、ロッキーの世話をなかなかできずにいました。最後までしっかりそばにいてやれなかったことを、今でも後悔しています。ロッキーが亡くなって半年ほどは、胸にポッカリ穴が開いたようで寂しく、とても心細い気持ちでいっぱいでした。小さい頃からの、一緒に過ごしたロッキーとの出来事を思い出し、「あの時、ロッキーはきっと楽しかったはずだ、幸せだったはずだ」と考えることで、何とか心を落ち着かせ、日々を過ごしました。そして、19年も生きてくれてありがとうと、天国のロッキーに語り掛けました。今でも、感謝し続けています。ロッキーの存在が大き過ぎて、新しく犬を飼うということを、未だに考えられないです。でもいつか、そういう時が来たら、ロッキーに注いだのと同じぐらいの愛情をもって、迎えたいと思っています。
2年というはやすぎる愛犬との別れ 別の飼い主ならと…勤務中にトイレで一時間泣いた
2年前の春、20歳の社会人になったばかり頃から2年間一緒に過ごしていたトイプードルの春が風邪をこじらせて亡くなりました春は、社会人で独り暮らしを始めて半年の頃、当時私の唯一の趣味がペットショップ通いでたまたま、ペットショップで春をみかてまるでその時は運命を感じ即決で購入しました。春とは運命を感じていたし人間よりも体は丈夫では無いことも知っていましたがこんなに早く別れが来るとは考えていませんでしたどんなに長生きしても、私より長生き出来ないことも理解していました。当時は1月でとても寒く私の家の暖房器具と言えばこたつと、電気ストーブという小型犬には寒い環境の家で春の風邪に気付いたのもくしゃみと咳が止まらなくなる程の状態で動物病院のお医者さんは風邪にしては気付くのが遅かったですねと言われる程でした。亡くなるまで間社会人で1人暮らしの生活なので親にしばらく看病をしてもらっていたのですが私が仕事の残業で遅く帰宅した日に亡くなりました。私が春を飼わなかったら別の飼い主ならもっと早く病院に行けただろうし風邪で亡くなるはずもなかったと毎日泣いては会社に行き勤務中にトイレで一時間泣くほど辛い日々をおくっていました会社の人には相談出来ず日々仕事でのケアレスミスと顔色の悪さを心配なされては泣いてでも仕事に行かないと春のことばかり思い出して辛いので、仕事も休まず行いましたそれから3ヶ月程経ち少し冷静に気持ちも落ち着いたので有給を使い家族に会いに行きました親に会ってやつれた顔を心配されながらも春の亡くなる前の話を聞きました急変してからはとても早く亡くなったとだけ話してくれました家族なりにまだ、立ち直りきれてない私に対する配慮にも悲しくなりまた、春を思い出し一晩中泣き続けました亡くなってからは唯一の趣味のペットショップ通はまだ行けていないですがそのうち行きたいと考えています多分その時はトイプードルを飼うと春と被ってしまうので柴犬やマルチーズにしようかと思っています
大好きだった愛犬の死 親になってカンタンにペットを買うことができない自分がいる
シーズー犬のみみちゃんと出会ったのは私が高校一年生の夏でした。みみちゃんを飼うきっかけとなったのは、私がどうしても子猫か子犬が欲しいと親にだだをこね、父親が知り合いから子犬が産まれたと、みみちゃんをもらってきてくれたのがきっかけでした。はじめはとてもかわいくて世話も積極的にしていましたが、だんだん勉強が忙しくなり、世話は結局親にまかせっきりになりました。大学進学とともに、みみちゃんは実家、私は都会で一人暮らしをすることになり、帰省した時にしかみみちゃんと遊ぶことはなくなりましたが、私が帰宅するとしっぽを振ってとても喜んでくれていました。大学を卒業して、社会人になりなかなか実家に帰省することがなくなっても、みみちゃんはちゃんと私の事を覚えてくれていました。しかし、だんだんみみちゃんも年老いてきて、私を出迎える動きも鈍くなってきていたのを覚えています。とても頭がいい子でした。私が実家で寝るときはいつも父親と寝ているのに、私の布団にもぐりこんできてくれて、優しく甘えてくれていました。みみちゃんが19歳になった子頃、難聴になり、白内障になりと老いが一気にきてしまいました。母親も父親もみみちゃんを泊りがけで留守番させるのが困難になっていました。そんなある日父親から「母さんから、みみがけいれんしていると電話がかかってきて。俺が帰ったら静かに息を引き取ったよ」と泣きながら電話がかかってきました。私が飼いたいといって飼いだしたみみちゃんは、ほとんど私の両親に育ててもらい、両親の愛情を受けてなくなってしまいました。両親も犬バカといえるほどとてもかわいがっていたので、みみちゃんがなくなった後はとても落ち込んでいました。犬を飼うということは、やはり命を育てるということで簡単にはいきません。自分が親になった今、子供がペットを飼いたいと言ったら、簡単にOKを出せない自分がいます。愛情をたくさんもらう分、ただかわいいだけで飼えないことを考えると、もうしばらくペットは飼えそうにありません。
愛犬の病死 家族全員が意気消沈・体調不良 1年たってようやく悲しみから開放 幸せだったと思う
15年ほど前に知人から貰い受けたフレンチブルドッグの「トモくん」が去年の11月天国に行きました。今は家族がやっと悲しみから抜け出しています。トモくんは内臓にできた腫瘍が原因で亡くなりました。最後は眠る様に亡くなったので苦しまずに済んだので良かったなと思っています。なくなった時は家族全員泣いていました。とても辛く一週間ほどは家族の中で笑顔がほぼ無かった様な気がします。子供が二人いるのですが、一番下の小学校2年生の次女はその日から食欲があまりなくなってしまいました。今現在は次女は大丈夫なんですが、トモくんがなくなった時は次女の体調が心配でした。長女は特に食欲不振になるとかはなかったのですが、やはりトモくんがなくなったあと一週間ぐらいは元気がなかったですね。妻はその様な悲しい空気を打ち消そうと無理やり笑い話や冗談を言っていましたね。私も3、4日はなんだか心にポカリと穴があいてしまった様な、食事をしていても美味しく感じない様な気がしていました。仕事も今ひとつ集中出来なかったです。トモくんがなくなってもうすぐ一年が経とうとしています。トモくんの一回忌は何をやろうかと、今考えています。トモくんは非常に食いしん坊だったので、トモくんのお墓に好物だった鳥のササミをあげようかなと思っています。愛犬がなくなるととても悲しいです。この様な経験はしたくないのです。しかし家族を癒してくれたトモくんはとても幸せだったと思います。
心臓病で愛犬が天国に旅立ちました 一生懸命看病して来たはずなのに後悔ばかり 天国での幸せを毎日願っています
約1年半前に愛犬が天国に行きました。トイプードルで13歳でした。11歳になる頃に心臓病になり、通院と投薬をしていたのですが、症状が悪い時は入院もしました。心臓病の為、塩分を控えるなどの食事制限があったり、激しい運動(長時間の散歩等)を控える必要があり、大好きなおやつはあげられない。散歩も思うように行けなくなりました。散歩に行った時、呼吸困難になり失神してしまってからは特に控えるように。自宅には小さい酸素ボンベや酸素室を用意しました。呼吸が苦しそうな時に口や鼻のあたりに酸素をあててあげると、貪るように酸素を欲しがる場面もありました。日に日に体は痩せていき、皮膚も痒みが出るのか、かきむしったりして、毛も抜けるようになって行きました。好きなものが食べられない、いつもの自分の体調が違う等のストレスがあったかも知れません。闘病をしながらも、体の調子が良い時もありました。ウキウキした歩き方をしたり、遊んだりだけど次の日にはまた元気がなくなったり。愛犬が亡くなった日は、愛犬は朝から専用の座布団の上で寝ていました。いつもの光景で、だけどその近くに便(健康的な形)があって、綺麗好きの愛犬の為、どうして自分の寝ている側で便をしたのだろうとその時は思っていました。その日は仕事の疲れがたまっていて、珍しく私はお昼寝をしてしまったのです。一時間ほどして目を覚ますと、座布団で寝ていたはずの愛犬が私の顔の横で丸くなってスヤスヤと寝ていました。今思うと、何か伝えたかったのでしょうか。ハッと目を覚まし、愛犬の様子を見てから軽く撫でました。その後家事をしてから愛犬のいる部屋に行くと、愛犬は立ち上がろうとしたんです。しかし、体がフラフラとして後ろ足が立たず歯を食いしばっている状況でした。呼吸は苦しそうではありませんでしたが今にも意識を失いそうで、やっと目をあけているような感じでした。病院に連れていこう、それまでに私は気が動転してしまい、応急処置として正しいかは分からなかったけれど、私は砂糖水を口にスポイトで含ませました。砂糖水を口に入れると、ふと目を開けてかろうじて意識が戻るような状況でした。病院に行っても愛犬はぐったりとしたままでした。そちらで愛犬は意識がないような状態で便をしました。先生は亡くなる前の症状等ではない、注射をして家で数日休ませれば治ると言いましたが、私はそんなことはないような気がしました。かなしいけれど、なんとなく寿命が来たのではないか・・と感じました。だけど、先生が治ると言うならばそれを信じたかったのです。小さな病院で緊急手術をするでもありません。だけど、もっと違う判断で救う方法はないのかとしばらく獣医さんに対しての怒りもありました。神様ではないと分かっていても。家に帰り、いつも寝ている毛布の上に寝かせてあげました。私がいると力を振り絞って起き上がろうとします。でもフラフラして視点は合わず。「寝ていないとだめだよ」そして、パタンと座り込みいつも寝ているような姿勢に。その時に亡くなったのです。悲しみは底知れず。もっともっとしてあげられることがあったんではないかもっと早く私が気がつけば・・・一生懸命看病して来たはずなのに後悔ばかり。ごめんね、ごめんね、ごめんね、毎日自分を責めました。毎日毎日泣いて。仏壇の前で愛犬に語りかけて、綺麗なお花やお水、制限されていた大好きなおやつをお供えしたり、今日あった話をしたり、愛犬の良い所や思い出話を話したり。愛犬家の人に話すと「その子は一生懸命生きた。十分がんばった。またいつか天国で会えると思ったら嬉しいじゃないですか」と言葉を頂き、心が救われました。ありがとう、いっぱいいっぱいありがとうと伝えて、天国での幸せを毎日願っています。今でも愛犬を忘れる日はありません。
10歳でガンで別れた愛犬 それから8年かけて気持ちが整理でき、ようやく新しい仔をむかえることができた
ヨークシャテリアの女の子の可愛くて可愛くて仕方なかった『もなか』と出会ったのは、忘れもしない、私が高校一年生の8月16日でした。もう20年も前の事になります。昔は犬に追いかけられた経験があり、犬嫌いだったのですが、従兄弟の家で飼い始めた仔犬の『サラ』と出会って犬が大好きになり、私も犬が欲しいと兄と共に両親に何年も頼み続けていました。両親には愛犬を亡くした経験があり、生き物との出会いがあれば別れも来るけど乗り越えられるのか、ただ可愛がるだけではダメ、ちゃんと世話をすると言う約束を何度も何度もした事を覚えています。そして、とうとう愛犬のもなかは家にやって来てくれました。赤ちゃんの時は片手に乗るくらい小さくて、お腹はポンポコリンで、まさに食べてしまいたい程可愛かったです。当時兄は思春期?反抗期?で食事の時以外は部屋にこもっていましたが、もなかのお陰で兄が家族団欒の中に戻ってきてくれました。それから10年がたった頃、突然もなかのお腹の左下に灰色っぽいしこりが出来ました。すぐに病院に連れていくと、良くない出来物で手術をすることになりました。手術から10日も経たずに、突然もなかは亡くなりました。最後は肺に水がたまり息が上手く出来ず、舌が紫色になり…本当に見ているのも可哀想でした。その時の事は今でも思い出すだけで涙がでます。乳腺腫ガン…避妊手術をしていたら、なる可能性が低くなるガンです。もなかを迎えた頃は去勢避妊手術のメリットの知識をまったく持っていませんでした。手術をしなかったことを今でも後悔しています。もなかが居なくなってしまって、我が家全員の心にポッカリと穴が開きました。親戚の家の犬、外ですれ違う犬…どんな犬種の子も見るだけで涙が出ました。特に母が我が子を失った様に悲しみ、食事も取れず、弱ってしまっていたので、励まししていたためか、私は悲しいながらも前向きでいられました。この悲しみは時間しか解決出来ないと思います。家族で励ましあっているうちに心が落ち着いて来ました。共に涙を流したり、思い出を語る家に心の整理もできました。もなかとの別れから8年後、今の愛犬を迎えました。もなかにしてあげられなかった事はすべてやってあげようと思っています。当然去勢手術は出来る月齢に行いました。この子は違う名前なのに、『もなかっ』と呼ぶと反応します。きっと生まれ変わって帰ってきてくれたんろうと都合の良いことを思っています。
子供のころから一緒に育った愛犬 留学していて最期を看取れなかったことに後悔 伝えてほしかったという気持ちがいまもある
今年の4月に飼っていたヨークシャテリアのテンが15年の生涯を終えました。実は私は2017年1月からカナダに留学しており、その間、実家で両親が面倒を見ていました。出国する際、すでにもう老犬だったテンは時々喘息のような発作を起こしたり、体調がよくなかったです。耳もあまり聞こえなかったようで名前を呼んでも何度か呼び掛けてやっと反応があって、近寄ってくるといった感じでした。ただ、私は日本にいなかったので、両親からテンが元気にしているという内容を聞いて安心していました。ところが、私がビザや自身の体調不良などを原因としてカナダから9月に帰国して初めて、テンはすでに亡くなっていたことを知りました。両親は体調の悪い私を思っての事だったというのですが、テンが亡くなったことを伏せていました。私は自身の体調不良と、テンがすでに亡くなったことを後から知ってなんだか何重にも悲しい気持ちになりました。ずっといたあの子はもういない、という喪失感は想像以上のものでした。実家に帰って、部屋と部屋の間の扉を必要がないのに閉じている自分に気がつきました。実はその習慣はテンが入ってはいけない部屋に入らないようにするようにしていたものでした。居なくなった今は閉じる必要のない扉10年以上続けていた習慣は数年ぶりに帰宅した自分の身に沁みついているんだなと改めて思いました。テンちゃんと呼びかけると弱弱しい姿でとてとてと近づいてきた思い出が今もふと思い出します。亡くなった時点で、私は帰国することが出来ませんでした。しかし、あの時、両親にはせめて、伝えて欲しかったという思いが正直今でもあります。
原因不明の病気で亡くなった愛犬 しゃべることができれば、病院を代えておけばと後悔の日々
出会いがあれば別れはつきもの‥そんなことわかってはいたけど、その別れの日が突然訪れると受け入れ難いものとして心がなかなか現実を受け入れてはくれない。我が家の2代目としてやってきた柴犬のサクラは東京生まれ。自宅から2時間かけて迎えに行き、今まで一緒に暮らしてきた兄弟たちと別れることがわかってか、小刻みに震えていたのを今でも思い出します。ようやく我が家にも慣れ、じゃれあって遊ぶ姿に愛おしさを感じていた頃。甘噛みではなく明らかに手をガブっと本噛みしたのです。瞬時に叱ったものの私のしつけ方が間違っていたのか以来、手を近づけると噛む癖がついてしまいました。さすがに“これはマズイな”と思い、ネットで調べ出張トレーニングしてくれる人を探しました。警戒心と恐怖心の強い柴犬でしたので、月1~月2回ペースの訓練も1年以上続きました。その甲斐もあり噛み癖は改善し、ようやく穏やかなペットライフが始まりました。しかし、その数か月後…原因不明の嘔吐が始まったのです。動物病院へ何度も通院し服薬したけれど治る気配すらなく、ごはんも進まなくなりました。「どうしたの?」と尋ねたところで苦しそうな表情を見せるだけ。「ペットが話せれば、その苦痛を取り除いてあげられるのに‥」何度もそう思いました。日に日に痩せていき元気がなくなっていく姿をみるのが辛くて、でもどうすることもできない無力さに、ただただ見守ることしかできませんでした。そして別れは突然にやってきました。朝ごはんも食べず、水も飲まず横たわるサクラ。私が近寄ると立ち上がろうと力を振り絞り「キュ―――ン」と今まで聞いた事のない悲しげな声を挙げ、息を引き取りました。「サクラ!!」何度呼び掛けても反応はありませんでした。その日からというもの私は悲しみと後悔でいっぱいでした。“あの時、他の病院を受診させればよかった”“もっと散歩してあげればよかった”出先で黒柴を見かける度にサクラを思い出し涙したものです。居なくなってしまった喪失感を埋めることができずにいた頃、近くのブリーダーで黒柴が生まれたことを知り、我が家の3代目として迎えることになりました。これもきっとサクラが導いてくれた運命だと思っています。
ファミコンのかわりに買ってもらったおとなしい愛犬の死 早く病院につれていかなかったことを後悔
私が小学校3年生頃はファミコンブームの先駆けで友達は次々と持つようになりましたが、私は買ってもらえませんでした。その次に買いたかったのはペットでしたが、値段が高いのでダメ元で親にお願いしたところ、意外なことに反対されなくすんなりと買ってもらえました。その時期は、丁度クリスマスの前の週と記憶に残っていますね。その後、最寄りのペットショップに行きましたが、仔犬の値段が凄く高いのにはビックリしてしまいました。その中でも、国産犬は外国産と比べると比較的安く初めての飼育なので、純潔種ではなく雑種を選ぶことにしました。それを選んだ理由は、柴犬などは茶色系の毛色が多いですが、その雑種は毛色が白色で珍しい感じがしたからです。購入してから、自宅に戻り大じっくりと観察しましたが、おとなしいイメージでしたね。初めての散歩デビューは、2か月を過ぎてからでしたが、大人しい性格のせいか、オドオドしながら歩いていたのは記憶に残っています。また、無駄吠えもしないで、他人が来てもあまり警戒心を見せませんでしたね。特に尻尾を横に振りながらじゃれ合う姿は愛嬌がありました。ところが、飼い始めてから8か月のとある日エサを与えようと犬小屋に行ったところ、いつもより元気がなく様子がおかしいのです。しかも、大好きなエサも殆ど口にしません。次の日も同じような症状が続いたので、体調が改善しなければ翌日に病院に連れて行くことにしました。小屋の中でずっとうずくったままで、その時もエサも殆ど口にしませんでした。次の朝に様子を見に行くと、力尽きて息が絶えていたのです。その姿を見た時はあまりにもショックで、思わず涙が出てしまいました。周辺には何度も吐いた跡があったので、もがき苦しんでいたんだろうなと思っています。もう一日早く病院に連れて行けば、助かっていたかもしれません。それを思い出すと、なぜその時に病院に連れていなかったのか後悔していますね。親も仕事が忙しくて、病院に連れて行く時間がなかったと言ってました。僅か8か月の命でしたので、命の大切さについても犬を飼うことを通して痛感しました。やはり、家族の一員であったため、ペットを失ったあとしばらくは意気消沈しましたが、生きることについて改めて考えさせられました。命は有限なので、ペットを飼う時は覚悟を持って後て後悔しないような世話の仕方をしたいですね。